この状況を脱する為にお勧めできる哲学の本を紹介して下さい。
ちなみに、今まで一度も哲学の本を読んだ事がありません。
理系大学出身、31才 妻子有。
好きな事をしても、それはただの自己満足でしかなく、他人や世の中の為に何かしてあげたとしても、それもやはり自己満足でかなく、であれば、やはり何を生きがいとして生きていけば良いのでしょう。
ただ単に、生まれてきたから、生かされ生きていかざるを得なくなっているのでしょうか。しょうがなく。
回答がたくさん来た場合は、申し訳ありませんが コメントを付けられないかもしれませんのでご了承下さい。
>何の為に生きていけば良いかわからなくなりました
僕らはみんな生きている~♪
そんなこの、世のなかで、何のために生きていけば良いか、わからなくなった。
…と。
>好きな事をしても、それはただの自己満足でしかなく
>他人や世の中の為に何かしてあげたとしても、それもやはり自己満足でかなく
【自己満足な生き方】に、満足できないというのは、理屈からしてへんてこりんです。
>であれば、やはり何を生きがいとして生きていけば良いのでしょう。
生きがいを見つけることを目的とするのではなく、
【生きてること自体が生きがい】だと、
なぜ感じられないのでしょうか。
生きてなければ、生きがいなど感じるわけがない、という単純な理屈から私はそのように思います。
生きがいを感じられない、
ということは、
理屈からすれば、それは現在生きていない状態、即ち死んでいる状態、
という結論になるわけで、これこそあなたが求めている哲学的思考なのでありますが、
否、それでも俺は生きているんだぜッ!
と反論(主張)するのであれば、それこそ生きているいることをアッピールしているそのこと自体が生きがいなのであります。
そもそも、「何の為に生きていけば良いかわからなくなりました」
などという問いを、哲学に求めること自体が正解かどうかはわからないのです。
巷の哲学者にそんなことを問えば、先に書いたような理屈しか返ってこないのが関の山です。
たとえば、現場で働くおっさんに相談したら、果たしてどんな答えが返ってくるでしょうか?
働くおっさんに相談すると、きっとこんな感じになるでしょう。
「あんちゃんよぉ、そんなことで悩んでるヒマがあったらよぉ、もっと足下のコンクリかっぱげ、ってえの」
>ただ単に、生まれてきたから、生かされ生きていかざるを得なくなっているのでしょうか。しょうがなく。
シューキョー屋さんに、そのようなことを相談したら、待ってましたとばかりに信者にされてしまいます。
『生かされている』という謙虚な感覚は、ある程度、達観の域にあるとは思いますが、
生かされているという以前に、自分の生きる努力、意志をないがしろにはできません。
いろいろ前置きが長くなりましたが、
あえてその問いを哲学に求めるとするなれば
私はクシリュナムルティーの本をオススメします。
まずは『自我の終焉』から読まれてみてはいかがでしょうか
http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E6%88%91%E3%81%AE%E7%B5%82%E7%...
>生きがいを見つけることを目的とするのではなく、【生きてること自体が生きがい】だと、なぜ感じられないのでしょうか。
なぜなんでしょうね…。前は、そんな事、考えもしなかったのですが。
>生きてなければ、生きがいなど感じるわけがない、という単純な理屈から私はそのように思います
生きている事は、「生きがいを感じる」為の条件のひとつではあると思います。
>生きているいることをアッピールしているそのこと自体が生きがいなのであります
アピールする事が生きがいなのでしょうか。今の心境からは、そのようには思えないのです。
>哲学に求めること自体が正解かどうかはわからないのです
はい。僕もそう思います。最近、いろいろ考えを巡らせている内に
「この問いって、昔から哲学者達が考えてきた事なのかなぁ」と思って、
この状況を打開する方法のひとつとして考えています。
他は、カウンセラー(?)とかに相談でしょうか…。
>シューキョー屋さんに、そのようなことを相談したら、待ってましたとばかりに信者にされてしまいます
(笑)そうですね。けど、僕は純粋な理系出身者なので、宗教にお金と時間をかけるのは
一年に一回の おみくじ300円だけです。理系はあまり関係ないか…。
>私はクシリュナムルティーの本をオススメします。
ありがとうございます! 既に、たくさん注文してしまったので
順に読んでみたいと思います。
哲学に類するか?は自信ありませんが
ラッセル
「幸福論」
リチャード カールソン
「小さいことにくよくよするな!―しょせん、すべては小さなこと」
どちらも分かりやすいのでお勧めできるかと。
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ちょっとだけ設問者より長生きしているので一言二言
>何のために活きていけば良いか分からなくなりました
今まで「何のために生きてゆけばよいか」分かっていましたか?
それとも、今まで「何かの為(目的・目標・価値観)」と思った事を否定(或いは疑問)
されましたか?おそらく後者でしょうね、私にも覚えがあります。
その場合、ある「A」という目的を否定(疑問)された訳ですが
もし、次に「私の目的は、本当はBだったんだ!」と確信に至っても
数年後には「A」がそうであったように「B」も否定される可能性があります。
もちろん、死ぬまで「B」という目的が「真理」であると
信じつづけるかも知れません。
これは、どうなるか、誰にも分かりません。
設問者が「何ために?」という命題を、探り続ける限り
付いて回る必定なのです。(これは真理かなw)
これらを詰めてゆくと「生物とは?」「宇宙とは?」とか
果ては「唯物論」やら「唯心論」やら行っちゃいますw
でも、この考えに結論を出す事はおそらく不可能でしょう。
元々、答えなどない命題かもしれないからです。
だから、あまり「考え過ぎない」事です。
考えるのは人間として大切ですが、考え過ぎるのは「愚か」です。
考え過ぎるのは「考える事が目的」に陥っている状態です。
「目的を探るための手段が、いつの間にか目的になっている」
これは、どう考えても愚かでしょ?w
まぁ あまり突然に深く考えない事です。
あなたは目的を見失って断崖絶壁に立っている訳ではなく
やっと「目的を見つける」入り口に立っただけです。
慌てちゃいけませんよ。 ヾ(・。・
>おそらく後者でしょうね、私にも覚えがあります。
はい。おっしゃるとおり、後者です。
>設問者が「何ために?」という命題を、探り続ける限り付いて回る必定なのです
そうですね。そうなんです。
>これらを詰めてゆくと「生物とは?」「宇宙とは?」とか
はい!。そういうのも考えました。生物だしなぁ。って(^^;
>だから、あまり「考え過ぎない」事です。
と言われて、「思考をやめる」というわけには…。
もう始まってしまったというか、止められないというか…。
>考え過ぎるのは「考える事が目的」に陥っている状態です
>「目的を探るための手段が、いつの間にか目的になっている」
今の心境から言うと、考える事自体は目的ではなく、手段に過ぎないと思っています。
確かに、答えなんか出ないかもしれませんが、だからといって考えをやめるわけにもいかず
けど、答えはでない。
この、なんともいえないもどかしさというか、やるせなさというか、無力感というか
どうしたらいいのさ? というので、毎日が満たされています。
>まぁ あまり突然に深く考えない事です。
>あなたは目的を見失って断崖絶壁に立っている訳ではなく
>やっと「目的を見つける」入り口に立っただけです。
>慌てちゃいけませんよ。 ヾ(・。・
ありがとうございます。そうなんです。
絶望という感じではなく、ドアを開けたら、真っ白な何も無い草原に出てしまって
「あれ?」というような感じです。それで、ぼけーっと、なってしまっています…。
本の紹介もありがとうございました。参考にします。
あ、子供向けいいですね。
なんか、たくさんヒットしてしまって、何から手をつけて良いのかわかりませんでした。
ありがとうございます。
参考までに、ネットのWikipediaから検索してみてください。
何か、ヒントになるものがあればと思います。
ブレーズ・パスカル
「人間は、考える葦である」
ルネ・デカルト
「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)
手当たり次第に、読んでみます。
とっかかり、ありがとうございました。
書を捨てよ、さらば哲学!
すでに優良図書は列挙されたはずなので、いささか別の視点から。
永遠の不良による家出のススメ……(著者の自宅に家出人があふれた)。
── 寺山 修司《書を捨てよ、町へ出よう 20040625 角川文庫》
── 池田 晶子《事象そのものへ! 199107‥ 法蔵館》
彼女の「哲学は、研究室や図書館に在るのではなく、日常の中に在る」
という表現は、とても便利なので、わたしも何度か転用しています。
つまり、哲学書を読んだり書いたりすれば、なにやらもっともらしい
生き方を発見できるとはかぎらないのではないでしょうか。
以下は、おそらく現代もっとも人気ある哲学者のエピソードです。
── 牧師の家に下宿したが(略)女主人が、ティーが好きかどうかな
ど、あれやこれやについてその好き嫌いをウィトゲンシェタインにたず
ねた。そのとき、向こうの部屋から彼女の夫が『何もきかなくてもいい。
ただ差し上げるんだ!』と叫んだ。
ウィトゲンシュタインは、この声につよく感銘を受けたという。
── 《世界をつくった人々の伝記 19780301 自由国民社》P106-107
質問者が、どうしても読みたいなら、つぎの伝説集をおすすめします。
── なぜ人びとは、乞食には施しをするが、哲学者にはしないのかと
訊ねられると、「それは彼らが、いつかは足が不自由になったり、目が
見えなくなったりするかも知れぬとは予想しても、哲学者になるだろう
とは決して思わないからだよ」と彼は答えた。(シノペのディオゲネス)
── 加来 彰俊・訳《ギリシア哲学者列伝(中)19890918 岩波文庫》P156
── もっとも先端的な哲学者であるコリン・ウィルソンは、古代ギリ
シャの“樽の中の哲人”ディオゲネスの真似をしたものか?
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20031128
寝そべる人々 ~ 樽の中の哲人 ~
質問者が、決して読んではいけないのは、つぎの青空文庫です。
さいきん、うっかり読みはじめて、ひどい目にあいました。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/card946.html
── 西田 幾多郎《善の研究 19500110 岩波文庫》
> すでに優良図書は列挙されたはずなので、いささか別の視点から。
助かります。はてなが人力検索で良かったです。
> つまり、哲学書を読んだり書いたりすれば、なにやらもっともらしい
>生き方を発見できるとはかぎらないのではないでしょうか。
僕もそうだと思います。答えが見つかるとは限りませんが
なんらかのヒントを得たいと考えています。他に思いつくものがなかったので
とりあえず哲学にアプローチしています。
> さいきん、うっかり読みはじめて、ひどい目にあいました。
その言葉↑の意図が気になるので、落ち着いた頃、読んでみます。
本の紹介ありがとうございました。本屋に行っても、何から付けて良いか
わからない状態でした。ひとつひとつ読ませていただきます。
ありがとございました。
「般若心経」生き方のヒント
ひろさちや
般若心経の教えと人生の生きるヒントがわかりやすく書かれています。
ぜひ読んでもらいたい本です。
日本人がインドに来て、漁業講習会を開いてくれた。こういう道具・機械を使って、
こんなふうにして魚を獲ると、現在の二倍も三倍も魚が獲れると教えてくれた。
出席したインド人は感心した。ところが、一人のインド人が質問した。
「なるほど、そのようにすれば、二倍も三倍も魚が獲れそうだ。
だが、二倍も三倍も魚が獲れて、それでいったいどうなるのか?」
予期せぬ質問だったが、日本人はともかくも「そうなると、お金が儲かる」と答えた。
インド人はさらに質問をする。「じゃあ、お金が儲かってどうなるのか?」
「暇ができる」
インド人はさらに追及してきます。
「なるほど、暇ができるというのはよくわかる。それじゃあ、われわれはその暇をどうして潰せばいいのだ?」
日本人は「ゴルフでもすればいいじゃないか」と言おうと思ったのだが、
どうもインドの漁民にゴルフは似合わないから、こう答えたそうです。
「それじゃあ、魚でも釣っていればいいでしょう」・・・
「機械あれば必ず機事あり、機事あれば必ず機心あり」
機械に頼れば、機械を維持するのにお金がかかると同時に、収入も増える、もっともっと、もっともっと、自然の恵みに対する感謝に気持ちがなくなり、心も気薄になってくる、今の日本人の典型的な病気では・・・
生きる目的とは、お金で幸せは買えますか?現代の日本人には、考えさせられる仏教の教えです。
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hiroikikata.htm
リンク先を少し読ませて頂きましたが、僕には抵抗のある考え方でした。
仏教だからという僕の偏見があるせいかもしれません。
先に紹介して頂いた本でもヒントが得られない場合に、読みたいと思います。
ありがとうございました。
「数年前まで、両親を見送ったら自分も逝こうと思っていた」
http://anond.hatelabo.jp/20070303003737
というエントリで紹介されていますが、
内村鑑三『後世への最大遺物・デンマルク国の話』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003311949
をオススメいたします。
ありがとうございます!
なんだか、良さそうですね。ウィッシュリストに入れておきます。
元理系でしたがそのあと哲学科をうろうろした変わり種です。
うーん、失礼ですが、少し哲学というものを勘違いなさっているように思います。
現代の哲学において、人間の生きる意味など、未だに解明されておりません。
別の学問においては……うーん、「結局、何のために生きるとか、そういうのはないのだ!」という帰結になってるのは、結構読んだ気もするけれど。
(真実を演繹的に求めていくのが哲学の基本でして、そういった意味では、哲学は数学に似ており、論理がないとどうしようもない、つまり、理系っぽいんです。昔の文献読んでばかりという、「哲学学」とでも言いたくなるようなものをやっている方もおられますが、しっかりした大学では、そういった場合でも、論理学の基礎くらいはやらざるを得ないと思います。いくら読み込もうが、そこから自分が何かを展開していく場合には、理屈が全てですから)。
もちろん、哲学、というよりむしろ倫理学の書物から、ヒントを得るという選択肢もアリです。
しかし、でしたら別に、それにこだわる必要もないのです。
ヒントを得られる分野は、文学でも社会学でも、他でもいい、いろいろあります。
一応、ご自分でその意味を追い求めたいとおっしゃるのなら、まずは論理学の基礎からおすすめしますが、うーん、お読みにならないだろうし、こんな遠回りはイヤだろうなぁ(笑)。でも一応。
http://www.bk1.jp/product/02715051
実は、私も似たようなことを考えて哲学を始めました。しかし、哲学にそれを見つけることはできませんでした。なぜなら前述のように、まだ解明されたものでもなく、諸説あるだけで、手っ取り早く言えば、「そんな真実は自分で考えろ」というのが、哲学だからです。
だから、しばらくしたら、別の道に興味を持つようになりましたよ。哲学科の先生方からは厄介者扱いされましたが(笑)。
ただ、哲学科に行ったことは良かったと思っています。「自分できちんと論理的に考えること」が身に付いたからです。
>うーん、失礼ですが、少し哲学というものを勘違いなさっているように思います。
いえいえ、イメージだけで「哲学」にすがろうと思っているので、その道の人から見たら、づれている事があっても、全く不思議ではありません。
>もちろん、哲学、というよりむしろ倫理学の書物から、ヒントを得るという選択肢もアリです。
倫理という言葉は知っていましたが、倫理学というものがあるんですね。ふむふむ。
>しかし、でしたら別に、それにこだわる必要もないのです。
はい。哲学は、とっかかりのひとつなので、こだわってはいません。
現にこうやって、派生的な回答が得られているだけでも、かなりの大収穫です。
>しばらくしたら、別の道に興味を持つようになりましたよ。
その道は、少し気になりますが(^^;
なるほど、貴重な元理系出身者のご回答ありがとうございました。
とても、参考になりました。
あ、子供向けいいですね。
なんか、たくさんヒットしてしまって、何から手をつけて良いのかわかりませんでした。
ありがとうございます。