一般に、新発見をすることは、その発見を学習したり模倣したりすることより難しいです。(※2)
発見と学習との間には、この意味での不均衡がありますが、そもそもなぜそのような不均衡がありうるのか、どのような説明が考えられますか?(※3)
私をうならせるほど洞察が深く明晰な回答には、程度に応じ200~500ポイントを差し上げます。
注意/
※1 コロンブスの「地理上の発見」を一義に論じたいのではありません。
※2 私の質問 http://q.hatena.ne.jp/1209546713 を参考にして下さい。
※3 私はここで、『他者の声 実在の声』の「15 ジョン・ロックへ、あるいは論理学の(…)」をふまえ考えています。
パラダイムの変換、がキーワードであると考えます。
脳はある前提のもとに物事を認識しようとします。(このため錯覚という現象が起きます。)例えば天動説、という前提の元にその他の現象を理解することは、脳というハードとソフトの体系にとり機能をフル活用するアプローチであると考えております。このような学習プロセスは、理解できることをもっと理解したい、という脳の本質にも合致し、(麻薬と類似分子構造の)ドーパミンもたくさん出て、いわば脳内麻薬中毒状態になるので学習が多く行われる、ともいえるでしょう。
「発見」という現象は、この脳の基本プログラムに書き換えを要求することと理解してもよいのではないかと考えます。現在のプログラムを走らせつつ、そのプログラムを書き換えていく、という作業を脳自身が行うため、「発見」という行為は非常な困難と混乱を伴います。
このパラダイム変換、の困難さと非効率さゆえに、発見と学習の間のアンバランスが生じている、と私は理解しました。
発見の困難さを感じるために、奇異ながらも一つの比喩を書いてみます。
この困難さは、現在「天動説」の正当性を主張し、「発見」することの困難さから推察できると思います。
現在の科学技術であれば、天動説に基づきロケットを飛ばし惑星探査を行うことも可能ですし、特殊相対論が前提としている光速不変の原理を修正する、などの様々な複雑な体系を再構築すれば、天動説に基づく論理構築は可能かもしれません。地動説が正しいとされる根拠は突き詰めれば、より簡単に説明できる理論が正しいと推定しようというオッカムのカミソリの原理に依存していると私は理解しています。
しかし、オッカム原理が科学の真理ではないことが仮に判明し、実は「天動説」こそが真の原理で「地動説」は間違っていた、ということが再発見された場合、脳がそれを理解し納得するまでには時間もかかり、かつ社会がそれを常識として認知するまでには10年以上の時間がかかることでしょう。(特殊相対論などがそうでした。)
このような意味で、発見については ①同一個人の脳の中のパラダイムシフトには、既存のプログラムを走らせつつ、全く原理の異なるプログラムへの書き換えを行う困難さがある。 ②社会としての危機管理の面から、新しいパラダイムにすぐに飛びつくことには健全な抵抗反応(抗原抗体反応のようなもの)があり、発見、が発見と認知されるまでには多くの時間を要する という2点ゆえに、発見の出現と認知の頻度は低いといえます。一方、学習は脳の機能や学習の欲求とも合致して広く行われる、というアンバランスが起きている、ということで理解しては如何でしょうか。
少々オーソドックスすぎて面白くないかもしれませんし、ジョンロック云々は踏まえておりませんが、回答と致します。
http://q.hatena.ne.jp/1209780730
アドレスはダミーです。
ちなみに、『他者の声 実在の声』の「15 ジョン・ロックへ、あるいは論理学の(…)」は目を通しておりませんので、回答内容が質問者の意図と食い違っている場合はポイント不要です。
>発見と学習との間には、この意味(新発見をすることは、その発見を学習したり模倣したりすることより難しい)での不均衡がありますが、そもそもなぜそのような不均衡がありうるのか、どのような説明が考えられますか?
私達の「学習」はその全てが小さな「発見」を基本とし、その繰り返しによって知識として吸収されます。その人にとっては「学習する事全てが新発見」なのですが、個々の知識と人類全体の知識、個々の人生と人類全体の歴史を比較した場合には、その絶対量の差はまさに歴然としています。なので、我々個人はまずこれまで知らなかった人類全体の知識を次々に「発見」していきながらその発見法について「学習」していきます。獲得した知識の量や質によって、我々の探究心は様々な方向へ伸びていきます。その中で「自分達が何を知らないか」ということについてどれだけ深く内省できるか(”無知の知”の探求)によって、新しい「発見」を得る為の思考手段を獲得できるかどうかが決まるといえます。あとは時間の問題なので、運が良い人は人類が今まで知らなかった「発見」に辿り着く機会に遭遇するというだけに過ぎないと思います。
「学習」がなければ、接する全てがその人にとっては全てが毎回「発見」となりうる訳ですが、「学習」しなければ「発見」できないと言う事実もまた、一見矛盾しながらも同時に存在する訳です。発見のレベルの違いだと言われればそうですが、ただおそらく後者の意味合いを強調すれば、そういった不均衡につながるのではないでしょうか?「学習」が単なる知識の拾い集めと言う意味で解釈すれば、そういうことになるかと。
話がずれますが、「巨人の肩~」の話を読んで思ったのは、巨人の肩に乗って見えるのは”森全体とその向こう”であって、そこに生えている木々のそこに息づく動物達の存在に気付くとは限らない、ということでした。一見良く見えているようでも、万能ではないということでしょうか。実は、発見のためには巨人から降りる勇気も必要という教えなのかも。
何だかとりとめも無い内容になってしまいまして申し訳ありません。
御粗末さまでした。
(注意/私は以下で、カギカッコ「」を、回答からの引用の意味で首尾一貫し用いています。また、二重カギカッコ『』は、totsuanさんの言う「発見」「学習」の引用であることを示します)
「運が良い人は人類が今まで知らなかった『発見』に辿り着く機会に遭遇するというだけ」。本当にそうでしょうか。
惑星の楕円軌道の発見を例にとりましょう。ケプラー以前の2000年間、惑星の軌道が真円であることはその真偽を云々する余地のない当然のこと、自然なことでした。なぜなら、真円軌道であることが《真理》として『発見』(ここでのこの語は、totsuanさんの使う二つの意味での「発見」の、どちらとも矛盾しない)されていたから。惑星軌道が真円であることを土台の知識として、天文学の『学習』も『発見』もなされた、周転円という術語がケプラー以前のコペルニクス天文学にあるように。つまり、近代のある時期以前のヨーロッパ世界の人間が、われわれは惑星が真円軌道ではないことを知らないではないかという「内省」に至ること、totsuanさん描く知識-発見-学習観では、このことができないのではないでしょうか。
ありうる反論はこうです。しかし、自分の目での観察によって得られた、惑星軌道に関するさまざまな『発見』を虚心坦懐に整理すれば、真円軌道の理論では説明できないことが出てくるはずだ、したがってその矛盾の『発見』が「内省」を導き、楕円軌道の『発見』に至ることができる。
いいえ、それでは単純すぎるのです。totsuanさんの知識-発見-学習観では「内省」によって未知であった新たな『発見』を付け足すと言うにとどまり、「内省」が、既知の、知識や『発見』や「発見法」や『学習』、をどのように却下しうるのか定かではない。言い換えると、「内省」が新たな『発見』を導いたとして、それは正しい理論の『発見』ではないかもしれない、なぜなら、『発見』されたあらゆるデータ、たとえこのデータが完全に正確だとしても、そこからデータ間の矛盾を解消するべく真円軌道の新理論に修正しようと人は考えることができるし、またケプラー以前の天文学者は実際そうしていたから。そう、それまでの『発見』『学習』ゆえに。
再びありうる反論。だがどうしたところで、誤った理論はいつかの日か未知のデータの『発見』によって破られるのではないか?いいえ、その保証もない。未知だったデータをもとりあえず説明できる、真円軌道の新しい修正理論の『発見』がえんえんと繰り返されるだけかもしれない。そして、このことを否定したければ、totsuanさんの穴埋め型知識観あるいは建て増し型知識観を訂正し、「内省」がどこかで知識や『発見』や「発見法」や『学習』の否定をする可能性について言及しなければならない。「巨人から降りる」と比喩で仄めかされている事柄を明晰にしなければならない。
以上の議論から、私の意見の述べます。この、既存理論その他の否定から出発することにこそ、人類の知識に対する新発見の困難があり、運の良さではすますことのできない洞察や英知がかかわっている。
これまた長く難解な返信、おつきあいいただきありがとうございました。
示された参考文献を読んでいないし、脳科学・心理学ともずれるのですが。
そもそも、研究には様々なアプローチがあり得るから、ではないでしょうか。
例えば、脚気の原因については、伝染病であるという説もあれば、栄養の問題であるという説もありました。
(もちろんビタミンの欠乏が原因なのですが、研究の初期には、微量しか必要ないが人体に必須の物質=ビタミンというものが存在することも知られていませんでした)
あるいは、安価で安定、人間にはそこそこ無害な殺虫剤であるDDTを発見するためには、膨大な数の有機化合物を合成しては試験する、という過程を経ねばなりませんでした。
(もちろん、完全にしらみつぶしにしたのではなく、見込みのありそうな範囲を推定しながら進めたわけですが)
脚気の原因がビタミンB1の欠乏であり、ジクロロジフェニルトリクロロエタンが殺虫剤として効果的である、という単一の“正解”が知られてしまえば、それを学習するのは造作もないことです。
しかし、未発見の状況、複数~無数の“正解候補”があり、その中のどれが“正解”なのか知られていない状況では、それを学習できないのは当然ではないでしょうか。
「発見」とは、ただ天才的なアイデアによってなされるのではなく、地道な研究が必要だから、だと思うのですが。
(もちろん、アイデアも重要ですが)
あるいは、加硫ゴムの発見のように、全く偶然の出来事によって発見されるものもありますが、それもまあ同様で。
偶然の出来事が起こるまで待たねばならない。
それとも、ご質問は、もっと純粋にワンアイデアに近いもの、例えば、自動車が普及し始めてから、自動車にバックミラーがとりつけられるまで80年くらいかかった(T型フォードにもついてない)とか、レンズで視力が補正できることが発見されてから、それを頭に固定する(つるつき眼鏡の発明。ただ、初期のものは、革のベルトを頭の後で結ぶ方式だった)ことをだれかが思いつくまで200年くらいかかったとかいう話でしょうか。
(「発見」というより「発明」に近い話ですが)
言い換えれば、知った人が
「どうして今まで思いつかなかったんだろう!」
と叫ぶようなもの。
それであれば、思うに、(すでに言われていますが)発見は既存のもの、つまり、すでに学習した内容を疑うところから始めなければならないから、ではないでしょうか。
私たちは、つるつき眼鏡を眼鏡の完成型として当然視しています。
しかし、それは、片眼鏡や柄付眼鏡が一般的だった時代の人たちもそうだったはずで、ひょっとすると、実は今よりはるかに合理的な眼鏡の形がありうるのかも知れません。
しかし、私たちはそれがどんなものか知らないし、「研究」のように系統的な手順を踏んで「発見」することもできません。
どこをどう変更するか、という可能性は無限にあり得、その中から、手探りで発見せねばならないのです。
もしも将来、その「超眼鏡」が発明されたら、見た人は
「どうして今まで思いつかなかったんだろう!」
と叫ぶでしょうが、実はそれは、無限の改良可能性の中から拾い出されたものです。
無限の可能性を同時に検討する能力があれば、直ちに思いつくことができるでしょうが、人間の脳はそういう力を持っていません。
そもそも、ほとんどの人は、与えられた眼鏡の形に満足して、改良の可能性を検討しようなんて考えません。
学習が人間にとって有益なツールである以上、学習した内容を根本的に改善できないか、いちいち疑ってかかるのは効率が悪いからです。ほとんどの場合は。
いわば「巨人の肩」から見える木々のどれに実がなっているのかを確かめるのが研究。
巨人の肩から見るよりマシな方法を見つけるのがアイデアなんじゃないでしょうか。
いずれにせよ、答えが見つかった後でそれを学習するのは容易だが、単一の解答が定まっていない段階でそれを発見するのは困難、ということなのではないでしょうか。
とんちんかんな意見でしたらすみません。
「単一の“正解”が知られてしまえば、それを学習するのは造作もないこと」なのはなぜでしょうか。常に容易いとは限りませんよね。
名高いゲーデルの不完全性定理は、最初に論文として発表されたとき、こう題されていました。「プリンキピア・マテマティカとその関連体系における形式的に決定不可能な命題について」。不完全性定理をわざわざ論文タイトルまで述べてとりあげた意図は次の通りです。この論文の日本語訳は手に入れやすく(岩波文庫に入ってます)、また不完全性定理とはなにかということは比較的よく知られているが、誤解され語られたことも少なくない、当の論文を読んで証明の正確な知識を得ようとしたところで難解極まりない。誤解されていないものの難解な証明の類例だっていくらでもあります、フェルマーの大定理の証明、ポアンカレ予想の証明。さて、これでも、学習が容易いと言えるか。
上の言及の重要点を取り違えてはいけませんから、急いで付け足しましょう。「答えが見つかった後でそれを学習するのは容易だが、単一の解答が定まっていない段階でそれを発見するのは困難」、それはとりあえずよろしい。しかしながらなぜ、新発見に対して学習は相対的に容易いのか、その問いを深めるためには、新発見や学習の、その過程をつぶさに調べなければ。論理学や数学の証明を例に挙げた理由は、これらの分野は結論に至る論証を学ばねば学んだことにならない、このことを強調しやすかったから。フェルマーの大定理は、まあ確かに、三平方の定理に似ているため結論を知るだけならすごく簡単なんです。見落とすべきではないのは、結論プラス論証、このひとまとまりを学ぶ過程。filinionさんは、結論の学習や発見のみをここで考えるにとどまっている、そのように見えましたので、こういった議論がいるだろうと思いました。
考えるべき問題はいまや、次のように定式化されます。新発見の過程は難しく、それに較べ学習の過程は容易い。なぜか。
再度、実例をひきながらの論旨明快な回答に感謝します。
2回目の回答をさせて頂きます。
>惑星の楕円軌道の発見を例にとりましょう。
>われわれは惑星が真円軌道ではないことを知らないではないかという「内省」に至ること
>「内省」によって未知であった新たな『発見』を付け足すと言うにとどまり、「内省」が、既知の、知識や『発見』や「発見法」や『学習』、をどのように却下しうるのか定かではない。
>言い換えると、「内省」が新たな『発見』を導いたとして、それは正しい理論の『発見』ではないかもしれない
>『発見』されたあらゆるデータ、たとえこのデータが完全に正確だとしても、そこからデータ間の矛盾を解消するべく真円軌道の新理論に修正しようと人は考えることができるし、またケプラー以前の天文学者は実際そうしていたから。そう、それまでの『発見』『学習』ゆえに。
説明不足/言葉足らずが部分もあり、質問者の方が捉えていらっしゃる「私の意見の方向性」が少し違うように感じられたので、補足させて頂きます。まず、質問者が使われている『発見』とは、「普遍性を持つ真理」のみを対象としたもののように感じられます。一方、私が最初の意見で使用した「知識」の中身についてですが、これには普遍性のあるもの/ないもの全てが包括されます(※即ち、私がここで言う「知識」全体は人間の思考過程全体から抽出された一種のデータベースと捉えています)。なので、私が述べている「知識」全体が洗練されれば、質問者が考えている「発見」/「知識」に到達すると思われます。従って、質問者の方が提示された惑星軌道に関する例示がそもそも私の意見を拒絶する事にはならないように思いました。「真円軌道を土台とした古代天文学」は普遍性を持たなかったにせよ、一つの学問として「知識」化された情報の集合体であり、それを今まで知らなかった昔の一般の人達にとっては、やはり「発見」になると思われます。ここで、
a)そこから更に深く知ろうとする人 b)興味を示さずに放置する人
に分かれると思いますが、別にa)の人がそこから「発見」したことが最終的に間違ってようと、真理を「発見」した人が現れてその真理が人類に全体に受け入れられるまでは「発見」としての価値があるわけです。「”無知の知”の探求」と言う表現は適切ではなかったかもしれません。私がこの表現で言いたかったのは、自分の知識を何処まで根源的に理解できているか/自分の知識をどこまで自由に使いこなせているかを確認する作業/確認できる能力について、なのですが・・・この表現ですら私の言いたい事を100%表しているものではありません(うぅん、難しい)。
>「運が良い人は人類が今まで知らなかった『発見』に辿り着く機会に遭遇するというだけ」。本当にそうでしょうか。
この点については、質問者が自ら
>だがどうしたところで、誤った理論はいつかの日か未知のデータの『発見』によって破られるのではないか?いいえ、その保証もない。
>未知だったデータをもとりあえず説明できる、真円軌道の新しい修正理論の『発見』がえんえんと繰り返されるだけかもしれない。
と仰った事で、これら「発見」に至る過程が確率論を基礎とした”仮定”の上に成り立っている事を示しているように思えるのですが如何でしょうか?
>既存理論その他の否定から出発することにこそ、人類の知識に対する新発見の困難があり、・・・
この見解もまた、私が「”無知の知”の探求」で表現したかった事の一つに過ぎません。何かを否定する為には、己が知識の内容を完全に把握した上での逆転的発想が必要となります。
>運の良さではすますことのできない洞察や英知がかかわっている。
洞察や英知が関わっている事は否定しませんし、発見の基礎にこれら個人の資質が関わっているのは確かです。しかし、こういった素質の有無もいわば”運の良し悪し”とは言えないでしょうか?ベンゼン環構造の発見者は、2匹の蛇が互いの尾を食い合う夢をヒントに思いついたとされていますし、新商品の開発者達が一見本筋と関係ないイベントを契機にアイデアを浮かばせたと言う話をよく聞きます。洞察力から生まれたんだ、と言えるかもしれませんが、そういう能力のある人が特定のイベントに出くわすことで化学反応的に発見に至るという”幸運”は考慮すべきなのではないでしょうか。
>穴埋め型知識観あるいは建て増し型知識観を訂正し、「内省」がどこかで知識や『発見』や「発見法」や『学習』の否定をする可能性について言及しなければならない。「巨人から降りる」と比喩で仄めかされている事柄を明晰にしなければならない。
これについては、時間があれば再度説明させてください。単なる思い付きの部分もあったので、聞き流してくれる程度で良かったのですが、改めて突っ込まれるとちゃんと説明しなきゃ、とは思うんですけどね。今はちょっと時間が無いので。
今回はさらに取り留めなく、しかも噛み合っていない感じがしていますが、ひとまずここまで。
時間があれば、また再回答致しますがどうなることやら。
今回の文章の中から、質問者の方が少しでも私の考えを正しく読み取って頂けると幸いです。
御粗末さまでした。
再回答の第一の論点について。
二重カギの『発見』は、今の議論で問題になるだろう普遍性の考慮を見越した上で、記述に用いました。ですので、『発見』は、ある知的共同体に拒否されない事柄を見つけ出すこと、と定義できます。この定義は、totsuan さんの与えた知識の定義と本質的に同じと見ています。
再回答の第二と第四の論点について。
新発見の偶然性を全否定するつもりはありません。したがって、「確率論を基礎とした”仮定”」を私の議論や例示から一切排斥する必要もない。
しかしなお、totsuanさんが見積もっているであろう、新発見の偶然性や幸運を、私はいくらかあるいはかなりの程度、否定したいとは考えています。第四の論点で言及された、先天的資質の有無や社会的背景を、新発見に要されたまったくの僥倖と言うことまでは、諸手をあげて受け入れます。そこから先のことには、必然性を言いたい。いわば、ケクレによるベンゼンの環状構造の発見と、夢で着想を得たこととの間に潜む、必然的要素をすくいあげたい。この例から少し極端に言えば、ケクレは夢に見ずとも輪状のものを見れば閃く知的状態にあったのではないか。その知的状態での待機に行き着くまでの洞察とは何だったのか。それがまさに、ケクレをしてベンゼンの環状構造を発見せしめた必然性。
私は第四の論点に興味を持ちました。いや、「本当にそうでしょうか」と述べたときには既に、新発見の偶然性を、そしてより以上に必然性を睨んで、返信したつもりです。
アリストテレス『形而上学』第一文にはこうあります。「すべての人間は生まれながらにして知ることを欲する」。
一般に、「なぜ?」は二つの使い方を区別する必要があります。原因への問いと、理由への問いです。私の質問の意図からすれば、「そもそもなぜ人はなにかを知ろうとするのか?」という問いへの生理学的・脳科学的原因、私の語彙でいう人間の自然本性上の原因、の説明は求められていません。『他者の声 実在の声』という書名を質問欄で示しただけですませてしまった私の過誤でしたが、つまり、自然科学の言語での、「新発見は学習より難しい、あるいは頻度が低い。なぜか。」という問いへの回答を求めていたのではありません。私の質問では、上述のアリストテレスの言葉を当面は問題ない前提として受け入れている、だから「脳の本質」を持ち出すまでもない、ということです。また、以上は、質問と直接かかわりない注釈、時勢に逆らい反-脳科学に立つ私のような変わり者もいる、と理解してくださったならそれで結構です。
では本題。
パラダイムに言及するのはとても妥当です。学習は既存のパラダイムの内部で行われる、それはいわば知的満足を伴うパズル解きである。しかしそれに対し、新発見はパラダイム転換を要する。また、パラダイム転換は既存のパラダイムに依拠しながら進められ非効率的、それゆえパラダイム転換は学習より困難であり、新発見は困難である。前半をこのように要約しました。
第一に、結論について私の意見を述べます。Andoreさんの示した①の結論は議論と例から帰結しており理解できましたが、それに較べて②の結論は唐突に思われます。②の結論が間違っていると言っているのではなく、そもそもの問いに対して「社会としての危機管理」を言うなら、①同様の議論や例が必要だったのではないか、ということです。
次に①の結論について検討します。Andoreさんの回答には、なぜパラダイム転換は困難か、という問いが残されています。言い換えると、「脳に基本プログラムの書き換えを要求する」ことと、発見が「非常な困難と混乱を伴」うこととの関係が言われ残されています。なんとなくプログラム書き換えって難しそう、という感覚的なことでなら、私もパラダイム転換の困難さを理解できますが。また、学習が脳の「機能をフル活用」であるなら、結構難しいことのように聞こえますし、ではそれならパラダイム転換の「困難さと非効率さ」はなぜ学習のそれを上回るのか、という論点も、学習なんて今のプログラムを走らせてりゃいいだからこら楽だ、という常識的感覚に依拠した理解の内にとどまっているように思われます。
既存の枠組みでは理解できないことを理解したいと欲し、新たな枠組みを希求することは人間のサガです、そういうことこそが得意だったり大きな楽しみだったり、という人間がいることも、人類の宿命であり、そうあるべき多様性です。しかしそういう人間が実は少数派だからこそ、学習の方が「広く行われる」と言えるのですが、ではなぜ少数なのか。これも重要な論点のはずです。
私の返信に対する再反論、再回答はもちろん望むところです。
というより、私のこんな質問(しかも長く難解な返信つき!)に付き合ってくださっただけで、ありがとうと言いたい。