とすると、死後の世界は存在しない(死んだら消滅する)と考えている人が「ご冥福をお祈りします」と言うのは、矛盾しています。
唯物論者で、死後の世界(霊界)も輪廻転生もありえない、死んだら終わり、と思っている人は、代わりにどういう言葉を使いますか?
「言葉の意味など深く考えず、何となく冥福という言葉を使っている」という回答も可です。
質問に対する直接的な回答にはなっていない(私は神の存在を信じているので、不可能)ため、ポイントは不要です。
日本人では、熱心に「宗教」をしている人は少数派だと思いますが、
一方で、多くの人は、なんらかの「信仰」を持っていると思います。
つまり、なかなか「宗教」という形態をとりにくいものの、「信仰」心は意外に高い。
実際、大師線だとか、成田線だとか、「宗教施設に行くための鉄道」まで、各地に出来ている国でもあります。
だから、たとえ日本であっても、本当の意味での「唯物論者」は、ほとんどいないのではないでしょうか?
「俺は、どっちかっていうと、唯物論だな」なんて言っている人も、実際には、「唯物論」の立場を貫けてはいない。
もし仮に、本当に「唯物論」の立場の人がいたとしたら、その人は、祈ることはないでしょし、
物理学以上の、潜在的、根本的な「意味」(たとえば、「自分がこの世に生を受けた“意味”」など)を考える事も
しないはずだと思います。
少し長くなりましたが、、(すみません。(^^; )
結論は、
唯物論者は、どんな言葉であっても、祈りはしない。
もし祈るのであれば、その人は、唯物論者ではない。
だと思います。
興味深い回答なのでポイント差し上げます。
潜在的に日本人の多くがアニミズム的発想を持っているのは確かだと思います。
もっとも、唯物論者であっても亡くなった方に何らかの表現はあると思いますので、さらにいろいろな回答を期待しています。
「安らかにお眠り下さい」はいかがでしょうか?
ちなみに「冥福」は仏教的な概念なので、仏教徒以外の方に使うのも違和感があると聞いたことがあります。
なるほど。
キリスト教やイスラム教や神道やゾロアスター教やヒンドゥー教の方の回答もお待ちしております。
こんにちは。興味深い質問ですね。
>キリスト教やイスラム教や神道やゾロアスター教やヒンドゥー教の方の回答もお待ちしております。
これらの宗教に属していないのですけれど、回答してよろしいでしょうか(恐縮)
亡くなった方に対して、その人の死を悲しみいたむこと、弔おうとする時に、「ご冥福を祈ります」と使ってしまいます。しかし私は特定の宗教に属していないので、そもそも「誰に祈るの?」「死後の転生を信じているの?」という問題にたしかにひっかかりますね。
他に言いようがないから、私はこの言葉を使っているのだと思います。例えは変ですが、朝の挨拶が「おはよう」なのと、食事のあとに「ごちそうさま」というのと、あまり変わりはないと思います。少しずれますが、文化圏が異なると、食事の前に祈る家庭はあっても、「いただきます」を何て訳そうか困ったりすることがあるかと思います。なんとなく、「冥福を祈る」も、英語圏の場合だと「安らかに眠れ」と訳すように思うのですが、眠る対象は「魂」なので、輪廻はともかく「魂」を信じているのかどうか、尋ねてみると、案外似たような答えが返ってくるかもしれませんね。
ちなみに、死ねば終わりの可能性が高いと信じているので、おそらく唯物論者に近い立場なのだと思いますが、「死んだことないから分からない」とも感じております。以上です。
やはり「魂」があることを前提とした言葉ですよね。
参考までに和英辞典より。soulの語が含まれます。
>唯物論者で、死後の世界(霊界)も輪廻転生もありえない、死んだら終わり、と思っている人は、代わりにどういう言葉を使いますか?
これって本当に「唯物論者」(?)なら、何も言わないんじゃない?だって言葉が届かないのだから。
死者に語りかけている時点で矛盾している。
仮にいうことがあるとすれば、それは自分の心の中に対してだけだと思う。
忘れる人もずっと想い続ける人もいるでしょう。これは唯物論者に限らず言えることだと思います。
つまり、唯物論者にとって死者とは「更新されることのない記憶」ということになりますね。
言い換えれば死者に語りかけるという行為は自己との対話ということになります。
私はひねくれた人間だから思うけど8割9割の人は自分の気持ちに整理をつけるために死者に言葉をかけているに
過ぎないと思う。(それが悪いことだとは全く思わないが)
本当に死者に語りかけている人なんているのでしょうか?死者になっても話さなきゃ伝わらないの?
それはそれで逆にさみしくないか?
厳密に言えば死者と話せるのはイタコとかユタとかだけ?
「死者に語りかけるという行為は自己との対話」という観点は興味深いです。
1:口頭で伝える場合(聞き手の気持ちを大きく考慮する必要がある場合)
→「ご愁傷様です」
2:著名人の訃報に際してブログなどで言及するとき(発言者の気持ち>故人・遺族の気持ち)
→「安らかにお眠り下さい」とか「安らかにお還りください」のような言い方
と使い分けています。
口頭で伝える場合など特に、唯物論者であるからこそとも言えますが、故人に限らず「言われた側」の気持ちや反応を考慮する必要があると考えているので、自分の思想よりも世間的によく使われていて当たり障りのない表現を優先して選びます。
冥福という言葉はご質問にもあるような理由で違和感を感じるので、ちょっと避けている、という程度です。
なお、私は輪廻転生は信じませんが食物連鎖は信じます。
なので過去、2の様な場合に「どうかきれいなお花を咲かせて下さい」というオリジナリティばりばりの表現を使ったことがあります。
(→死ぬ→土に還る→植物の養分になる→花が咲く[→実が成る→動物が食べる→老いて死ぬ]→……)
物質的輪廻転生として食物連鎖がイメージされることもありますね。
自分は特定の宗教を信望していませんが、
「ご冥福をお祈りします」「お悔やみ申し上げます」
とか、普通に使います。
基本的にはこれらの言葉は自分のために使うのではなく相手の為に使うものですので、
自分が何を信じているかではなく、相手が何を信望していたかに合わせた方が良いような気はします。
相手の考え方に合わせた言い方ということですね。形式的なものになってしまう可能性はありますが、実際的な考え方だと思います。
(冥福というものがあるとは思っていないにもかかわらず、相手が信じていたからその言葉を使うというとき、表現に実感があまり伴わないかもしれません。)
私は、
死後の世界は存在しない(死んだら消滅する)
のように考えていますが、お悔やみの言葉とは遺族を中心として生存している人に対する気遣いとして述べるものだと考えています。
お悔やみの言葉を述べるときに、自分の宗教観にふさわしい言葉を無理に使って表現すると、ともすると失礼に当たる可能性もあります。
ですから一般的な「ご冥福をお祈りします」を使います。
誰かにお悔やみを述べるのではなく自分ひとりで死者に語りかける、ということもあるかもしれませんがその場合はそういう枠組みを使って記憶や感情を整理しているんだろうな、と思います。
気遣い、礼儀として使う言葉という要素はありますね。
では、一般的にはそうなのですが、亡くなった方もご遺族もすべてバリバリの唯物論者である場合には、どう述べたらいんでしょうか。
たとえば、一家そろって唯物主義者の家族に「ご冥福をお祈りします」と弔意を告げた場合、確かに一般的な言い方なので悪気があると受け取られることはないでしょうが、それでも「冥福と言われても消滅したんだからなあ」と当惑されることはないでしょうか。
キリスト教徒(カトリック)です。
多分プロテスタントも同じ考えだと思いますが、よく分からないので
カトリックとして知っていることを書かせていただきます。
自分は生まれてすぐに洗礼を受けましたが、
「冥福を祈る」に相当する表現に出会ったことがありません。
キリスト教(カトリックだけ?)では「亡くなる」を「帰天(きてん)する」と表現するように、
悲しいことではないのです。
(とはいいつつ、やはり自分の身内に不幸が起きた瞬間は普通の日本人同様に悲しいです)
ということで、カトリック信者の遺族にかける言葉はいつも困ってしまうというのが本音です。
「ご愁傷様です」はキリスト教の趣旨からしてちょっと違う、
でも会っていきなり「こんにちは(こんばんは)」も変…。
個人的な意見ですが、このへんは信者の中でも揺れているようで、
先日もある掲示板で「冥福を祈りましょう」と発言したカトリック信者がいて
「それはいかがなものかと」という意見もありました。
補足ですが、一般的な日本人のお葬式に参列する際には
カトリック信者の私も「ご愁傷様です」「ご冥福をお祈りします」と使います。
長文ですみません。
カトリックでの追悼の決まり文句は特にないのですね。確かにカトリック信者同士で冥福を祈ってはまずいですね。
ウィキペディアにこんな記載がありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E5%A4%A9
帰天(きてん)とは、ローマ・カトリック教会の用語で、信者が天に帰ることを言う。プロテスタントでは、これを召天、正教会は永眠と言う。
カトリック教会では聖母マリアについて特別に被昇天と呼んでいる。聖母の被昇天の項目を参照。
この話は確か極東ブログで読んだ覚えがあるな、と思い検索してみたら、ありました。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2003/12/post.html
finalventさんによると、浄土真宗の門徒は「冥福」という言葉を使わないそうです。他宗でも同様な場合があるようですが。
考えてみると、「冥」というのは仏教というより、儒教くさいなという気がしないでもありません。
質問の回答ですが、僕自身の経験に照らして考えると、亡くなった方に対して「冥福を祈」ったことはないように思います。
僕が唯物論者であるかどうかはなんとも言えないのですが、死後の世界に関しては、積極的に信じてはいません。死後の世界のようなものは、その有無を自分自身で確かめるすべがないので、分からない(だから、態度を保留する)、というのが今のところの立場です。
分からないことに思い煩わされるのはやめておこう、とも考えているのですが、それはひょっとしたら、ある意味仏教徒的な考え方かもしれません。
ただ、亡くなった方に対して思うところがないわけでもなく、亡くなったという事実に対して悲しく思う気持ちはありますので、その気持ちを表現するのに「哀悼の意を表します」とは言うかもしれませんん。
あるいは「お悔やみを申し上げます」というのは、その本来の意味とは違うかもしれませんが、その方が亡くなられたことが悔やまれる、生きていればもっとその人と交流する事ができたのに、というようなニュアンスであるとするなら、使ったとしてもさほど違和感はありません。
このような言い回しは、「ご冥福をお祈りします」と同様に慣用句化した表現だとは思いますが、それゆえ遺族の方に対しても礼を失することもなく、自分の思想とも矛盾の少ない無難な表現ではあるでしょうね。仮にご遺族が唯物論者であっても、使って差し支えないような気もします。
逆に、「安らかにお眠り下さい」という言い回しには、個人的にちょっと違和感があります。眠るということ、あるいは休むということは、再び目覚める・動き始めるのだという含意を感じるので、それはないんじゃないのかな、と思うのです。それを良しとする宗教なり宗派なり信仰なりを否定するつもりは毛頭ありませんが。眠りと死を近しいものとして捉える考え方は、さほどおかしなものでもなく、起源も古そうですが、僕個人としては使うのにためらってしまう表現である、ということです。
人力検索での初回答ありがとうございます。
id:finalventさんも言及していましたか。
「冥」という言葉は、確かに仏教というより儒教、あるいは神道くさいような気もします。あるいはギリシア神話とかエジプト神話っぽいですよね。冥王ハーデスとか冥界の王オシリスとか。「冥福」を使うのは何宗なんでしょうね。仏教が日本に伝来してからの言葉ではないかという気もします。
哀悼の意、お悔やみ、いずれも相手が「亡くなったことを自分がどう思っているか」を示す言葉なので、大丈夫なのでしょう。
「安らかにお眠り下さい」はキリスト教的な表現かもしれません。
いろいろと参考になります。
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この回答に先立って、bunoumさんから「哀悼の意を表する」についてのブクマコメがありました。
id:bunoum 「哀悼の意を表する」のが無難だと思う。解答に出てきてないのが不思議。「死は悲しむべきことじゃない」という死生観まで含めたニュートラルな表現は難しそう。
既出の「哀悼の意を表する」やそれと同等の「逝去を悼みます」のほかに、「故人(あるいは具体的な人名)を偲ぶ」という表現があり、これは、故人の生前を回想するという意味ですから、死生観についてもかなりニュートラルな表現ではないかと思います。(多くの場合無宗教の)故人の遺志や遺族の意思として、葬儀が行われず「偲ぶ会」や「お別れ会」となる場合も結構ありますね(「偲ぶ会」や「お別れ会」は、著名人について密葬の後に別に行われる場合もあるので、かならずしもこれらの名称が無宗教を意味するというわけではありませんが)。
これはニュートラルですね。
信者ではないのですが。
東方正教会では決まった言い回し、というかお祈りがあります。「永遠の記憶」(In eternal memory)。神がその人を永遠に記憶するように、という意味です。神が忘れるということではなくて、神は永遠の存在ですから、神が記憶するということ自体が神が永遠の記憶をなすということだ、と理解しています。これは死者のための公祈祷(パニヒダ)の結びの祈りでもあります。
信者同士というか正教会に通っている人同士ならこれでいいのですが、そうでない方に対してはちょっと気を使いますね。たぶん通じないので。日本人の神父さんで、正教徒でない方に対しては「魂の安息をお祈りします」とブログ上でなさっておられた方がおりました。これは分かりやすくてしかも宗教を問わずに使えるなあと思います。
冥福は指摘があったように仏教的でややためらわれるのですが、とはいえ日本文化にどっぷり浸されている身としては、何も考えずに「ご冥福をお祈りします」といってしまう場合もありますね。習慣の力というところでしょうか。
とはいえ自分のことをふりかえれば、とくに遺族への場合は言葉をかける必要は必ずしもなくて、眼差しをかわすだけでその方の故人や遺族に対するお気持ちは伝わるものだと思っています。これは実は文字でもそうで、私は夫がなくなったときに大きくは公表しなかったのですが、何人かの方がウェブ日記で取り上げてくださいました。冥福を祈ると書かれた方はいなかったんじゃないかな。でも誰のことかおそらくはそのことを知っている人だけが分かるであろう抑制されたそれぞれのエントリに、故人に対する深いお志を感じて慰められたものです。だから実はどんな言葉を使うかということはことさらに考えなくてよいのだと思います。深い思いは、どうせき止めてもあふれ出てくるものだと思っています。
要は込める気持ちだというのは間違いないと思います。
誰に対して使うのかが
いまひとつわかりませんが、
想定しながら書いてみます。
1.周囲で誰かが亡くなった友人とまではいかない知人に対して
「ご愁傷様です。」
2.周囲で誰かが亡くなった友人に対して
「ご愁傷様です。」
「大変だったね、気をおとさないで。」など状況にあわせて。
3.たとえばblogなどで不特定多数に対して
# 秋葉原の件などについて、blogで触れたときに書いておく等
特に何も書きません。
なくなった事について、その人に対する何らかの期待があった場合には、
# 例えば作家の方がなくなって、もっとその人の本をよみたかった、とか
# 発言が好きな人で、もっとその人の発言をみたかった、とか
# 作ってるものがすばらしいと考えていて、もっと使いたかった、とか
どのくらい、どうして、残念か、などを書くかもしれません。
どう思ったのか書きます。
ここまで書いて振り返ってみると
そもそもその事について「どう思ったのか」を表現するのが
言葉だとおもっていて、誰かが無くなった→○○という発言をする、
という対応を、私はとっていないようです。
1の例などは、あえて言えばそうなるだろうなーと
思いつつも、少しだけ抵抗があったりします。
もっと読みたかった、というのは、相手に対する最大の弔意かもしれませんね。
「この度はまことにご愁傷様でした。謹んでお悔やみ申し上げます。」
といつも言っております。
これが最もポピュラーではないでしょうか。
これは遺族に対する表現ですよね。亡くなった人、本人に対してこう言うでしょうか?
ご遺族には使えますね。