例1)
あんこ あそこ あびこ アリコ あやこ あいこ
例2)
sit knit fit bit kit quit lit
問1) このような一音素が変わると意味が変わる特性を、言語学ではどのように呼ぶのでしょうか。
より正確にいえば、一音素が変わると、意味するもの(シニフィアン)が別のものとして認識されて、対応する意味(シニフィエ)が別のものになってしまう、というべきでしょうか。
問2) 一音素が変わると意味が変わるときに、きちんと音素が伝わるようにするために、人間はどのような努力をしているでしょうか。あるいは言語にはどのような誤り訂正機能があるでしょうか。
連続がアナログ、離散がデジタルではないのでしょうか
これはよろしいのではないでしょうか?
離散的な音素とは関係ありませんので問題ないですね。
離散的なアナログということになりますか?
何が離散的なアナログなのですか?
離散的な音素ですか?
音素を離散的にあらわしたものではないですよね。
離散的なアナログということになりますか?
通信路モデルで、
中間にコンピュータが介在 していて、
情報は主にディジタル情報と考えることにする
そのような情報源を、離散的M元情報源と定義する.
と言っていますので、
離散的な音素は定義の前提に当てはまらないのでデジタル信号とはならないです。
sibazyunさん、
貴重なコメントありがとうございました。
数ある哺乳動物の中で、人類だけが、音素という離散的符号を作り出して、コミュニケーションをはじめた。
それは、符号の種類を桁違いに増加させること、コミュニケーション効率を向上させることになったと考えられますね。
しかし、その符号変換装置、つまり、音素のつながりをシニフィエに結びつけて理解する個別脳内辞書が、個々の人間の経験の中でしか作り出せないから、言葉の意味が消えてしまう。
それによって、人類は、自分だけが偉くて、他の動植物はすべて人間のために存在しているなどというおろかな子供じみた自己中心的な考えをもつ危険性を常に隣り合わせで生きるようになった。
おそらく宗教が、人間の大脳新皮質のもっていない本能の知恵、是非や善悪を、無理やり人間に教え込む働きをもっていたのでしょうが、その宗教ですら、人間が伝えるものだから、うまく機能しつづけるわけではなかったということになりますでしょうか。
私が、人類の文明、あるいは文明の原罪というものに興味を持ち始めたのは、2002年のヨハネスブルグ環境サミットのときからです。
当時読んだ緒方正人著「チッソは私であった」(2001年), 西村肇・岡村達朗著「水俣病の科学」(2001年)、吉田司「夜の食国(おすくに)」(1986年)のどの本の中にも、「水俣病はチッソが悪いのではない。文明の原罪として生まれた」ということが書かれていて、文明とは何か、文明の原罪とは何かということを、考えてきました。
その結果として、西原克成博士や、島泰三博士(ちなみに島先生の著作には、はてな で質問してめぐりあいました)の研究とめぐり合い、言葉と裸という現生人類の最大の特徴の起原にこそ、文明の原罪は潜んでいるのではないかと思い始めたのです。
スプーナー誤法もはじめて耳にしました。いい間違いのパターンをいうのでしょうか。
トップダウン処理のような、そういう脳の働きがあることが、音響心理学でいわれているのですね。
一般の言語においても、起こるのでしょうね。
この分野の研究ってのは、詐欺師やメディア操作ともつながりそうだから、きっとどこかで研究が進んでいるのでしょうが、なかなか表に出てこないのかもしれませんね。
皆様ご協力本当にありがとうございます。
こんな話も聞いたことがあります。同時通訳者が一番困るのは、ジョークらしい。脈絡もない単語がいきなり出てきて、聞き間違いかなと、混乱するらしい。だから、はじめに、ジョークは使わないで欲しいと頼むらしい。
2)「トップダウン処理」ってやつですね。
何か入力があったら、それを既知の事に結びつけようとする脳の働きです。
私は音響心理学的な分野で習ったんですが、音以外の分野でも同じような現象が起こるようです。
1)「スプーナー誤法」に似てるな、とおもって探してみたら、「メタセシス(metathesis・音位転換)」とか「頭音転換」てのが出てきました。
この本の第1章、3 情報源のモデルと通信路のモデルに以下のような表現があります。
「通信路モデルで、人間が会話する場合には人間が、コンピュータから情報を伝送する場合にはコンピュータが情報源となる. しかし、現在の通信システムでは、中間にコンピュータが介在することが多く、そのなかで情報は主にディジタル情報と考えることにする. したがって、M種類の記号(シンボル)をアルファベットとし、情報源は、決められた時間ごとにその中の記号を次々と発生させるものと考える. そのような情報源を、離散的M元情報源と定義する. 離散的でない情報源は、連続情報源といわれる. その場合、発信される情報はアナログ信号である.」
以下ShinRaiのコメント:
この本に書いてあることは、「離散的な情報源は、ディジタル情報源である。連続情報源はアナログである」ということでしょうか。
だとすると、離散的な音素によってつくられる信号(記号)は、ディジタル信号ということになるでしょうか。
わたしの乏しい動物のコミュニケーションに関する知識で言うと、
「(音声的に)弁別がつく音素」によって、組み立てられているのは、人間の言語だけでしょうか。
人間の言語が「(音声的に)弁別がつく音素」によって組み立てられていることを、何と呼ぶのでしょうか。
またこんにちは。
ShinRaiさん、またお邪魔します!
問い2に関してですが、状況や文脈というrsc96074さんの指摘に加え、習慣や知識がものを言うと思いますね。それこそ、発音が多少違うけど五十音だと同じになる文面、(同音異語というべきか?)例えば、
ある村に毎朝ひとの顔を見ては「おお、神だ」と叫ぶ、ちょっと変わった人がいたとします。
しかし、ある朝その人は自分の庭に狼が入り込んだのを目撃して、「オオカミだ!」と叫んだとします。
他の村の人であればそれを「狼だ!」と認識するかも知れませんが、習慣的に「おお、神だ」という変な台詞をその人から聞かされている村人は、すぐには「狼が来た」いう意味だとは認識しないでしょう。
一休さんの「はしをわたるべからず」の話も似た類ですよね~。
問2ですが、人間は、状況や文脈で意味が通るか考えていると思います。というか、音そのものを聞いているというより、話の流れから、出て来そうな単語と照合しているだけと思います。つまり、音よりも意味を中心に聞いている。たとえば、
「昨日のニュースによると、マイロクソフトはYahoo!との合併を・・・」のような間違いでも、文脈から意味を考えれば、「マイロクソフト」じゃなくて、「マイクロソフト」だとすぐにわかります。
問2ですが、日本語の1(いち)と7(しち)などのように、似ている場合は、言い方を変えるという方法があります。「しち」というかわりに「なな」というなど。これは、中国語でもありますね。1(いー)7(ちー)と発音するので、1を「やお」と発音したりします
感情、意識、感覚が離散的だとかデジタルだとかは断言できないです。