目にしろ耳にしろ、日本の古典には味わわれるような文章がたいへんに多い。いわゆる美文と称されるものはその代表的なものであって、内容などはどうでもよく、ただ味わうために作られた、ちょうど見るための美しい日本料理のようなものであります。われわれはなんでも栄養があるものしか取ろうとしない時代に生まれていますから、目で見た美しさというものをほとんど考えませんが、文章というものは、味わっておいしく、しかも、栄養があるというものが、いちばんいい文章だということができましょう。 三島由紀夫 文章読本より
阿房と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそういうだけの話で、自分で勿論亜房などと考えてはいない。用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。何にも用事がないけれど、汽車に乗って大阪に行って来ようと思う。・・・美しい日本語に最もこだわった随筆家だと思います。