E.H.カーの『歴史とは何か』(岩波新書)の記述がもとになっているのかもしれません。
http://www.geocities.co.jp/hgonzaemon/EHCarr_What_is_Histroy.htm...
歴史上の未練を話題にして楽むことはいつでも出来ることです。しかし、これは決定論とは関係のないことです。決定論者なら、そういう事実が生ずるには、また別の原因がなければないであろう、と答えるほかはありますまい。同様に、こういう仮定は歴史とは関係のないものです。
また、東京大学法学部の塩川伸明教授は以下のように書いています。
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/carr.htm
過ぎ去った事象をそれ自体として考察し、ああすればよかったとか、こうしたのはまずかったと考えるのではなく、過去のことは既成事実として受けとめた上で、未来に向けてどのような予測を引き出せるかを考えることこそが重要だというのが彼の考えのようである。この点を最も明白に示すのが、本書の中でも有名な個所の一つである「未練学派('might-have-been' school of thougt)」批判(一四一頁以下)である。
「未練学派」批判はしばしば「歴史におけるもし(if)」の批判という風に理解されている。
「言い出しっぺ、出典、原典」を答えている訳では有りませんので、ポイントは不要です。
でも、背景は想像できそうです。
SFの考え方の一つに、「過去、未来を行き来できたとしても、歴史を変える行為は許されない」と言う掟があるらしいです。おそらくその頃のまたはそれ以前からの考え方だと思います。つまり誰でも思いつく考えであるが「もし、あの時こうだったら」を許してしまえば、パラレルワールドが生じて、現在の歴史が変わって、そう考えている本人自体が存在しない可能性があり、その考え自体「無意味」になり、そう考えていること自体、それまでの過去、歴史は変えられない、つまり「もし」は考えてもいいが「もし」はありえないと結論付けるわけです。その方が「もし」によって生じる、ややこしい現象を考えなくても良い。疑問に感じたことが手に負えないと考えれば「手を出さない・考えない」と言う怠慢思想ですね。現在は「パラレルワールド」なども真剣に研究している方も居られるようですので、馬鹿馬鹿しい考えになるのも近いと思います。もっと自由にいろいろな可能性を考えようでは有りませんか。科学でのシミュレーションはいろいろな場合を想定し、最適値を求めることではありませんか。全てを実際の試験や実行に頼っていては、時間も資源も資金も無くなり、それこそ「行き当たりばったり、成り行きまかせ、なるようになる、長い物には巻かれろ」の無気力が主流になります。
確かに質問への直接の回答ではありませんので、ポイント低めにさせていただきます。
でもこの「過去の歴史の改変」を禁ずるSFの設定は、関連する話題ですね。ただ、SFの場合は(本当は歴史が改変されてしまっているのに)いかに歴史を変えないようにするかというところが物語のおもしろさを生み出すのだと思います。戦国自衛隊とか、マイクル・ムアコックの『この人を見よ』とか。
また、歴史において、あえてIFを考えるという立場もあるようです。しかし、その場合でも枕詞のように「歴史にIFはないと言われますが……」等々と書かれているので、この質問をしてみたのです。
※質問受付中のコメント可にしておきました。「言い出しっぺ、出典、原典」以外の話はコメントの方でどうぞ。
「歴史にifは無い」とは、そもそも誰が言い出した?
という掲載のあるサイトがありました。
司馬遼太郎が言った言葉の可能性はありますが、詳しくは分かりませんでした。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1312531...
Yahoo!知恵袋でも確固たる結論は出なかったようですね。「歴史は”必然”の積み重ね」が原形の可能性もあるようですが……。
E.H.カーの『歴史とは何か』(岩波新書)の記述がもとになっているのかもしれません。
http://www.geocities.co.jp/hgonzaemon/EHCarr_What_is_Histroy.htm...
歴史上の未練を話題にして楽むことはいつでも出来ることです。しかし、これは決定論とは関係のないことです。決定論者なら、そういう事実が生ずるには、また別の原因がなければないであろう、と答えるほかはありますまい。同様に、こういう仮定は歴史とは関係のないものです。
また、東京大学法学部の塩川伸明教授は以下のように書いています。
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/carr.htm
過ぎ去った事象をそれ自体として考察し、ああすればよかったとか、こうしたのはまずかったと考えるのではなく、過去のことは既成事実として受けとめた上で、未来に向けてどのような予測を引き出せるかを考えることこそが重要だというのが彼の考えのようである。この点を最も明白に示すのが、本書の中でも有名な個所の一つである「未練学派('might-have-been' school of thougt)」批判(一四一頁以下)である。
「未練学派」批判はしばしば「歴史におけるもし(if)」の批判という風に理解されている。
核心に近づいてきたように思います。
『歴史とは何か』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E3%81%A...
What is History? Edward Hallett Carr 1961
回答していただいたページは、訳書の誤りを訳し直していますが、以下の部分は「歴史にifはない」という言葉をよく説明しているように思われます。
「歴史上の「あったかもしれぬ」を話題にして楽むことは常に可能です。しかし、このように別の原因を想定することは決定論とは何の関係もありません。というのは、それに対して決定論者は、もしそういう事が生じたとしたら、原因もまた違っていたはずだ、と言うだけだからです。また、このような想定問答と歴史とは何の関係もありません。」
「その具体的な現れとして、彼らは歴史を読みながら、起ったかも知れぬもっと快い事件について勝手気儘な想像をめぐらせたり、歴史家に腹を立てたりするのです。というのも、歴史家は何が起ったか、なぜ彼らの快い夢が実現しなかったかを明らかにするという自らの仕事を淡々とやり続けるだけだからです。」
----
二つめのページの記述を読むと、確かにこのE.H.カーの『歴史とは何か』における上記の記述が「「歴史におけるもし(if)」の批判」であると指摘されています。
とすると、現時点では、「歴史にmight-have-been(○○だったかもしれない)を導入しない」というE.H.カーが「歴史にifはない」の言い出しっぺ/出典と考えて間違いないように思われます。
E.H.カーの本は、訳書には問題が多いと指摘されていますので、原著にも当たってみたいと思います。
大東亜戦争秘話 陸軍の経済謀略戦 という当時の戦争の記事の
解説 「歴史にもしもはない」という章に、秋丸機関の実態が明らかになった時「あの報告書が受け入れられていれば日本は変わったのに」と多くの人が言った。本人はそれを言ったところで言い訳になるだけだと軍人としてのプライドが許さなかったのだろう。「歴史にもしもはない」と清く敗戦の責任の一端を負い沈黙を続けた。
と説明がありました。詳しくは下記にて。
「秋丸機関の実態が明らかになった時」というのは、この記述による限り「平成4(1992)年」の「前年の8月15日」とありますから、1991年のことと思われます。また、このページの冒頭に「秋丸次朗は戦後もこの件については沈黙を守り、やっと昭和54年、後世に伝えるためと書き記したが、戦後50年を経るまで、公開されなかった」とあります。したがって、「歴史にもしもはない」と秋丸氏が語ったのはE.H.カーの著書が出版された1961年(昭和36年)よりもかなり後ということになりますね。
ただし、この発言は「歴史に対する未練を否定する」という趣旨ですから、E.H.カーの言葉を原義に近い形で使った例と考えられ、非常に興味深く思われます。
核心に近づいてきたように思います。
『歴史とは何か』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E3%81%A...
What is History? Edward Hallett Carr 1961
回答していただいたページは、訳書の誤りを訳し直していますが、以下の部分は「歴史にifはない」という言葉をよく説明しているように思われます。
「歴史上の「あったかもしれぬ」を話題にして楽むことは常に可能です。しかし、このように別の原因を想定することは決定論とは何の関係もありません。というのは、それに対して決定論者は、もしそういう事が生じたとしたら、原因もまた違っていたはずだ、と言うだけだからです。また、このような想定問答と歴史とは何の関係もありません。」
「その具体的な現れとして、彼らは歴史を読みながら、起ったかも知れぬもっと快い事件について勝手気儘な想像をめぐらせたり、歴史家に腹を立てたりするのです。というのも、歴史家は何が起ったか、なぜ彼らの快い夢が実現しなかったかを明らかにするという自らの仕事を淡々とやり続けるだけだからです。」
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二つめのページの記述を読むと、確かにこのE.H.カーの『歴史とは何か』における上記の記述が「「歴史におけるもし(if)」の批判」であると指摘されています。
とすると、現時点では、「歴史にmight-have-been(○○だったかもしれない)を導入しない」というE.H.カーが「歴史にifはない」の言い出しっぺ/出典と考えて間違いないように思われます。
E.H.カーの本は、訳書には問題が多いと指摘されていますので、原著にも当たってみたいと思います。