当時の武将たちの色恋について、有名なお話があったら教えてください。
例えば・・・
淀殿と松の丸殿は、お花見の時に豊臣秀吉からの盃の順番をめぐって争った。
みたいな。
お願いしますm(__)m
日本の江戸幕府八代将軍である『徳川吉宗』。倹約家であった将軍は、現在に伝わる親しみやすい人柄からテレビでも『暴れん坊将軍』などの題材となっているし、色恋話もちらほら。しかし吉宗は、綺麗な女性を好まず、どちらかというと嫁に行き遅れたような女性ばかりを好んだそうです。吉宗は征夷大将軍になる少し前の22歳の時、1706年12月5日に伏見宮家の真宮理子(15)を正室として迎え入れました。この婚約は紀伊徳川家と伏見宮家という「家格」の婚約であったそうですが、理子はこの結婚に余り馴染めなかったようで、結婚から4年後の1710年6月30日に僅か18歳で亡くなってしまいます。死の数日前に第一子を流産していることから、これが原因であると考えられています。吉宗のただ一人の妻でした。というのは、この後に吉宗は5代将軍綱吉の養女竹姫を養女として迎え、結婚したいと考えていたのですが、これは周囲の反対により実現しませんでした。
http://www.moonage.info/entertainer/lovers/yoshimune&masako.html
戦国時代は武将の間でバイセクシャルが流行ってました。男も女も極めてこそ真の性の道を極めたことになるという理由です。
それを知ったどこかの武将が豊臣秀吉を接待するため、美少年と秀吉を2人きりにしたそうです。
一時間近く2人きりなった後、部屋から出てきたその美少年に、手配した武将は
「どうであったか?」と尋ねました。
するとその美少年はこう答えました。
「太閤殿下は私にこう、一言だけ仰られました。
そなたに姉はいないのか?と」
秀吉は男にいっさい興味がなかったことを示す、面白いエピソードだと思います。
他に明智光秀の娘珠(ガラシャ)にたいする細川忠興にたいする執着っぷりとか調べるといろいろ出てきますよ
日本の江戸幕府八代将軍である『徳川吉宗』。吉宗は征夷大将軍になる少し前の22歳の時、真宮理子(15)を正室として迎え入れました。しかし理子は結婚から4年後に僅か18歳で亡くなってしまいます。この後に吉宗は5代将軍綱吉の養女であった竹姫(20前後)を綱吉にお願いして、養女として迎え入れ、彼女と結婚したいと考えていたのですが、これは周囲の反対により実現しませんでした。吉宗の悲恋話として時折、取り上げられる女性です。
http://www.moonage.info/entertainer/lovers/yoshimune&takehime.ht...
織田信忠と松姫の悲恋。
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/strawhat/main/ishinage/matuhime.html
http://www.gokuh.jp/ghp/busho/fem_015.htm
史実かはさておきという逸話も多いことは否めませんが、
いろいろと知っている中でも、特に松姫の生涯は、とても心に残っています。
明智光秀と煕子夫人の話は比較的有名ですね。
美濃の妻木勘解由範煕の長女として生まれた煕子は、明智光秀と縁談がきまったあと、疱瘡にかかり美しかった顔にあばたができてしまいました。
妻木家にとってはつぶしたくない縁談だったようで、そこで、あばた顔の煕子の代わりに、結婚式の当日妹を直接明智家に向かわせましたが、光秀はこれを見抜き、煕子を妻に迎えたという逸話があります。当時、武将は側室を複数持つのが普通だった時代に、光秀は一人の側室も置かず、正室の煕子夫人だけを愛し抜いたそうです。(ちなみに徳川家康は21人側室がいましたw)
この夫婦に関しては、織田信長に仕える以前の貧しい時代に、熙子が自分の黒髪を売って夫の同僚を接待した話があったりして、非常に中のよい夫婦だったようです。
ちなみに、煕子は元々あばたができる以前は美女だったようで、娘の細川ガラシアも非常にまれなる美女だったようです。
googleで調べるとたくさん逸話が出てきますよ。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1B3GGGL_jaJP323JP323&q=...
あと、お好みかどうかわかりませんが、衆道の話だと、武田信玄が当時の小姓にあてたラブレターが現存したりもしています。
森蘭丸http://d.hatena.ne.jp/keyword/%bf%b9%cd%f6%b4%dd
森蘭丸~戦国を駆け抜けた若獅子~ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E8%98%AD%E4%B8%B8%E3%80%9...
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