例えば…「注文の多い料理店」等の作品にまつわる話、作者自身にまつわる話(作家になった経緯や周囲の人との関係)等々、いろいろ教えて下さい!
「アメニモ負ケズ」の詩碑について、(宮沢賢治と高村光太郎)
賢治の死去から3年後の1936年11月21日に、賢治が独居自炊した花巻市内の別宅跡に本作の詩碑が建立された。賢治の作品としては最初の文学碑である。有名な冒頭部分ではなく、「野原ノ松ノ」以下の後半部分が刻まれている。揮毫は生前より賢治を評価していた高村光太郎が当たった。ただし、脱漏がある事が後に判明し、1946年に戦時中から花巻に移住していた高村光太郎自身の手で追刻されている。詩碑の下には文圃堂版の全集や賢治の遺骨の一部も納められている。このうち遺骨については当時賢治の独立した墓碑がなく(現在の墓碑ができたのは宮沢家が改宗した1951年)、その代わりという意味合いもあった。
現在、花巻市で「賢治詩碑」というとこの碑の事を指す(バス停の名前にもなっている)。1946年以降、毎年賢治の命日である9月21日の夜に、碑前で「賢治祭」が行われている。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1470347...
以前、トリビアの泉で宮沢賢治が文通していた相手が男なのに、
女を装っていたというネタの中で、オチとして最後の手紙には
「○○殿」と女性の名前に「殿」を付けて、嫌みを表現したと言っていましたが、
賢治の好きだった事の1つに音楽がありました。
自分で作詞や作曲したり、1926年12月には東京にチェロやオルガンなどを習いに行くほどでした。
http://history.ktn8.com/%8B%7B%91%F2%8C%AB%8E%A1/%8c%ab%8e%a1%82...
こちらはいかがでしょうか。
●宮沢賢治の青春
>賢治は17才のとき鼻の手術のため岩手病院に入院し、そこで知った看護婦への恋の歌をいくつか作っている。退院後、彼は両親に看護婦と結婚したいとせがむが、この希望は、無論、容れられなかった。若すぎるからと父親に一蹴されたのである。
>親に反対されて賢治が看護婦への思いを断ち、その後の交渉が途絶えたらしい点は、高橋や保阪嘉内の場合と同様である。一見、彼は「去る者は日々に疎し」という人間関係を営んでいたように見える。だが、それが事実に反することは、彼の作品を見れば明らかで、彼の作品には、一対一の友人関係や兄妹関係をあつかったものが、異様なほど多いのだ(「銀河鉄道の夜」など)。彼の頭は、友人との関係、妹との関係で一杯になっていて、その他の問題を省みる余裕がなかったのだ。
http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/kennzi.html
●宮沢賢治
>エピソード
>教師時代、賢治はよく『ブッシュに行くぞ』と言って、生徒を花巻市内のそば屋『やぶ屋』へと連れ出していた(『薮(やぶ)』を英語やドイツ語に訳すと『ブッシュ』)。そこでは必ず天ぷらそばと三ツ矢サイダーを注文していた。『やぶ屋』は現存しており(店舗は当時の建物ではない)、同店のホームページに賢治の逸話が掲載されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%B...
●宮沢賢治とやぶ屋
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