たとえば社長が背任行為をしていたので辞任、というような場合はある程度理解できるのですが、社員の背任行為による不祥事などで社長が監督責任を取って辞める、というのは逆に無責任なようにも思えます。失敗した責任者が、その失敗の後始末をするのではなく、ただ単に辞め、後任に後始末をさせるということには、非常に疑問を感じます。業績悪化の責任を取って辞めます、というのは、後任者へのいじめにも思われます。
しかし、日本では一般に「問題があったら責任者が辞めることが責任の取り方」とされているように思います。そこで質問です。
・なぜ「辞任」が責任をとることになるのでしょうか。あるいは、世間はなぜ辞任を求めるのでしょうか。
・辞任が責任をとることになったのは、いつごろ、どういう考え方からでしょうか。日本史・世界史・思想史的な回答をお願いします。解任は辞任に含みません。
・問題発生直後にはあえて辞任をせず、後始末をしてから進退を決めたというリーダー(社長や政治家など)の例はありますか。
できるだけ個人の考えではなく、歴史学・心理学・社会学・民俗学等々に基づく学術的な回答を求めます。
とりあえずは、最近の世界の辞任から
中国「食の安全」担当閣僚が異例の引責辞任
http://sankei.jp.msn.com/world/china/080922/chn0809222332005-n1....
有害物質のメラミンが粉ミルクなどに混入され、乳幼児5人が死亡した事件の責任を取ったもようです。
http://www.israel-radionews.com/2007/01/post_272.html
イスラエルのダン・ハルーツ参謀総長もレバノン侵攻に関する責任を取って辞任しています。
少しさかのぼりますとガリポリの戦いの大敗で、当時海軍大臣だったチャーチル、またハーバート・ヘンリー・アスキス首相も責任を問われ辞職しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B...
これを見ると引責辞任というのは、日本に限ったことではないようです。
では「辞任」とは何か、というのをネットでさかのぼってみてみました。
日本古代、中世においては、ネットでみる限りあまり引責辞任という形での辞任は見当たりませんでした(ネットでの限られた例ですので、古代、中世史に詳しい方でその例をご存知の方は教えていただけるとうれしいです)。
圧倒的に多いのが
(1)子孫(あるいは自身)を高いポストにつけるための辞任 です
http://www.toride.com/~yuga/gen/gen3-11.html
内大臣左大将であった藤原(妙音院)入道師長が太政大臣を狙うために大将を辞任なさった。
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/12.html
姉小路顕朝
正嘉二(1258)年、二条定高女との問に生まれた忠方を右少弁に推すために権中納言を辞任。
葉室資頼
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/30.html
暦仁元(1238)年、権中納言を辞し、子息右中弁季頼の宰相への昇進を願ったが、過分であるとして許されなかった
宝治二(1248)年に中納言を辞して季頼を右大弁に還補、子息に望みを託すが、季頼は結局参議に昇ることができなかった
源雅言
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/51.html
建長六(1254)年に父が権中納言を辞する替わりとして右少弁になる。
文永七(1270)年、子息雅憲を五位蔵人に申任して権中納言を辞す。
高位にある父が辞任する代わりに息子を推す事により、官位の昇進が保証される、という習慣があったようです。
次は(2)(派閥の異なる)政権が替わったことによる辞任 です
中御門経継
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/26.html
日野俊光
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/41.html
吉田経長
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/56.html
これは特に宮廷では多く、天皇の皇統が変わると職を辞したり出家したりしていたようです。
次に (3)ブーイングを避けるための辞任 です
中御門経任
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/27.html
分不相応な出世をしたために貴族の間から不満が続出、それを避けるために一時辞任した、という形です。
次に(4)失政、または政敵・世間の非難による辞職
どちらかといえば政争の結果と言えそうですが
楊嗣復
http://www.toride.com/~fengchu/jisho-y.html
唐の滅亡の遠因ともされた、陰謀、失脚、罷免相次ぐすさまじい牛李の党争の渦中にあった人ですが、
李徳裕派の鄭覃や陳夷行に朋党を組んだとして責められ、辞任を上表したが、文宗は却って鄭覃や陳夷行を罷免した。
引責辞任というより、政敵から身を守るため先んじて辞職したという形でしょうか。
藤原登任
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%99%BB%E4%BB%B...
前九年の役の発端になった戦を仕掛け、鬼切部の戦で大敗した人ですが、引責辞任か更迭か、史料にははっきりした記述はありません。
http://www.ucalgary.ca/~xyang/zen9nen/zkn-1.htm
□□登任(なりたう)、件(くだん)の頼良(よりよし)等(ら)を誅(ちう)することを得ず。
http://www.st.rim.or.jp/~success/mutuwaki.htm#1
太守藤原の朝臣登任数千の兵を発してこれを攻む。・・・太守の軍敗績し死者甚だ多し。
これに於いて朝廷議有りて、追討将軍を撰ぶ。
おそらく「朝廷の議」の結果の更迭であって、自ら引責辞任をした、という形ではなさそうです。
江戸期にはもっと多くの辞任がありそうですが、主だったもののみ
田沼意次
http://www.01.246.ne.jp/~reki127/index.rekitan-29.html
家治の死に驚いた田沼は引責辞任の目的で辞表を提出。しかし幕府からは受け取りを拒絶され、かえって幕府から罷免の沙汰を受けた。田沼はこれを甘んじて受けた。そして田沼派の幕府内部からの一掃が一通り片付いた9月8日に将軍薨去が公表された。
つまり、田沼を辞めさせたのは将軍の命令であることにしたかった幕府としては将軍に死なれてしまっては困るので死の報を隠して生きていることにし、さも将軍の命で田沼が辞めさせられたような形にしたのである。
http://oniheru.fc2web.com/jinbutsu/tanuma_okitsugu.htm
相次ぐ天災は、世論も田沼に逆風に吹いた。とくに天災は為政者の政治のやりかたに天が警告として起すものという考え方が当時の一般的な考え方だったから、人々は田沼の政治が悪いから天災が起きるんだと考えた。
・・・
家治を「占拠」した反田沼派は将軍の命令と称して意次の政策を停止。そして老中職を罷免した。そしてそのあとで家治の死去を公表した。おそらく反田沼派が家治の死去を隠して様々な命令を下したのであろう。
・・・
失脚した意次は所領も没収された。
遠州相良5万7千石から、奥州下村1万石に減封。相良城は破却された。そして意次は隠居。失意の内に70歳で死去した。後には「汚職政治家」という汚名が残った。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1126077...
家治の死を隠して門閥派は将軍の名において意次の老中辞任を強要しました。一説には三家三卿らが意次を取り囲み、刀を突きつけて無理やり辞職願を書かせたともいわれています。
田沼の場合、辞職したのかはネットでははっきりしませんでしたが、政策の失敗による引責辞任というより、政敵による事実上の追放と言った方がよいでしょう。
あとを継いだ老中も
松平定信
http://sito.ehoh.net/hanseikaikaku4.html
寛政5年(1793)、老中首座・将軍補佐を罷免に近い形で辞任した後、白河藩の殖産興業に打ち込む
水野忠邦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%82%A...
二人とも事実上の罷免、ということでしょうが、形としては辞任の形をとったのでしょうか。引責というより、政敵による追い落としという色彩が強いように思います。
改革つながりで上杉鷹山の改革を
竹俣当綱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%BF%A3%E5%BD%93%E7%B6%B...
改革の主導者であったが、専制的で取り巻きをかかえ、公私混同な振る舞いも多く、また側近政治や改革施策の中には森平右衛門時代の施策を踏襲したものもあった。
安永9年(1780年)に辞職届けを出したものの、天明2年(1782年)に公費の私的流用の罪や藩祖上杉謙信の忌日に酒宴をしていたという不敬罪など11か条の不行跡を理由に隠居及び蟄居を命じられる。
莅戸善政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8E%85%E6%88%B8%E5%96%84%E6%94%B...
天明2年(1782年)に竹俣が不行跡故に隠居及び蟄居命じられた翌年の天明3年(1783年)に本人に失態はなかったものの、小姓頭を辞職の上、隠居する。
こちらもどうも言いがかりめいた理由なので、政争の結果と考えていいように思います。ただ莅戸に関しては、この前の政争で失脚しそうになったとき自死を覚悟したといいますから、ドライな政争の勝敗というより何か主君に対しての責任感、申し訳なさもあったかもしれません。
次に幕末肥後藩の藩校改革の失敗の例です。
http://wwwhou1.meijo-u.ac.jp/housei2/semi/2007soturon/pdf/%E7%89...
月一回親睦のため酒宴を開いていたのであるが、この酒宴が逆効果を出し退寮者が続出した。この状況から反対派家老松井一派の画策により、混乱の責任を問い天保十年に奉行である下津休也を辞任させ、翌月に小楠は塾長を解任され江戸遊学を命ぜられた
これはまさに現代風の引責辞任に近いものですが、明確に政争の結果でもあります。
明治期
井上馨
http://kotobank.jp/word/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%A6%A8
4年大蔵大輔となり,廃藩置県後の中央財政の確立,銀行,会社の創設に努めた。しかし大蔵省と井上グループの勢力増大に対する反発も強く,尾去沢銅山私有事件を追及され,6年5月辞職。
12年外務卿(のち外務大臣)。
20年本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため,交渉を中止し外務大臣を辞任した。
菊池大麓
http://www.sakanouenokumo.jp/dic/archives/2006/01/post_426.html
1901年文相に就任したが、教科書疑獄事件により引責辞任した。
これはまさに今で言う引責辞任そのものかと思います。
そして戦後のライシャワー大使刺傷事件
http://showa.mainichi.jp/news/1964/03/post-9818.html
早川崇自治大臣兼国家公安委員長はその翌日25日に早くも引責辞任しています。
http://wapedia.mobi/ja/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E5%B4%87
その翌日の国会答弁です。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0512/04603260512017c...
○和田博雄君 ・・・
この事件によって日本の国際的な信用ははなはだしく傷つけられたのであります。これは事実であります。なぜ日本だけにこのような難件が起こったかについて、政治を行ないます君はえりを正して厳粛に反省をしなければならないと私は思います。(拍手)それなくして日本の国際信用を回復することはむずかしいでありましょう。公安委員長の辞任によって責任の問題は解決したというような安易な態度をとることは、責任を回避するにもひとしいものだと思います。池田首相は、政府の最高責任者として、いかにこの責任を感じ、またいかにして責任を明らかにするかを、まずお尋ねしたいと思います
・・・
国務大臣(池田勇人君)
・・・
なお、今回の事件によりまして、すでに御承知のごとく、私よりジョンソン大統領に、まことに申しわけない、遺憾のことでございますと手紙を出しましたところ、ジョンソン大統領より、この事件によって日米間の友情と理解がそこなわれることはないと確信するという、非常にありがたいお返事をいただきました。また、アメリカの世論を見ましても、ある非常に有力な新聞は、ライシャワー大使に同情すると同時に、日本国民に同情する、それは、今回の刺傷を起こしたあの青年の気持ちは日本全国民の気持ちとかけ離れておる、日本国民はそういう気持ちを持っていない、したがって、この事件に対して日本国民がうろたえ、かつ非常に困っていることを見るから、同情するという社説を掲げております。私は、これによって何にもわれわれの責任がなくなったとは思いません。私は、アメリカ国民のこの気持ちが全世界に渡り、そして政府も国民も、政治家をはじめとして日本人全部が再びこういうことが起こらないように努力してこそ、初めてこのアメリカの同情にこたえ、国民の心配にこたえるゆえんだと考えておるのであります。
今回公安委員長の辞任を認めましたのも、本事件の重大性を考えまして、政治的に関係の深い方がおやめになることは、われわれが二度と起こさない気持ちをあらわす意味において、私は辞任を認めた次第でございます。
まさに今回のご質問の通り、辞任によって責任の問題は解決したというような安易な態度を問うているわけですが、辞任に関しては、アメリカに対して姿勢を示す、ということになっていると思います。
ここまで通して見てきましたが、古代、中世には引責辞任というのはあまりなかったのではないか、という印象を持ちました。もちろん失政を政敵に追及されたことはあると思いますが、それ以前に、皇統が変わると不利になると見てさっさと自らやめてしまい、雌伏して次の機会を待つ、という感じがありました。そこには世間の圧力による苦渋の決断というより、政争の中のドライな判断を感じます(実際宮中などでは大納言を引き受けたりやめたりを繰り返している人もいたようです)。
近世に入り、苛烈な政争が幕府、各藩内で繰り広げられたようですが、それで辞任した政治家も、世間の非難の針の筵の上にいたというより、政敵の陰湿な追い落としにより追放された、というような経緯に見えます。
つまり、江戸期までの辞任は政争の結果であって、世間の圧力というものはあくまで宮中、あるいは幕府内のものに限られていたのではないかと推測します。
そこで特徴的なのが柳沢吉保の判断です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%90%89%E4%BF%9...
宝永6年2月19日(1709年3月29日)、権勢の後ろ盾とも言うべき綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。代わって新将軍家宣とその儒者新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。こうした状況を敏感に察知して6月3日(7月9日)、自ら幕府の役職を辞するとともに長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居し、以降は保山と号した。結果、その後吉里の領地は甲府藩から郡山藩に移されたものの、柳沢家15万石の知行が減封されることはなかった。
これは前述した
(2)(派閥の異なる)政権が替わったことによる辞任
(3)ブーイングを避けるための辞任(吉保がなり上がりであったことに対し)
の合わせ技でもありますが、
(1)子孫(あるいは自身)を高いポストにつけるための辞任
でもあるような気がします。
自らを犠牲にして先んじて辞職することで、子孫の安寧が図られた、と見てよいような気もするのです。
これは
(4)失政、または政敵・世間の非難による辞職
の際もなされているように思います。なるべく早めに辞職することにより、自家、あるいはお家(藩、幕府)を守る、という形です。
近代に入り、引責辞任が増えてくるのは議会制民主主義、ジャーナリズムの発展により批判の機会が増えた、批判する勢力が多くなったことからでしょうが、やはりその形の中にも(1)のかたちがあるような気がします。身を捨てて政府、お国を守る、という。
近年はどうも薄暗い形の引責辞任が増えているような感じがします。
バブルのころですが、住友の天皇と呼ばれた磯田一郎も政界との癒着を探られないために「イトマンのことは墓まで持っていく」と、世間の要求とは真逆に、いち早く辞任してしまいました。これもまた、政界、住友、という母体を守るために自らを犠牲にしたパターンの一つ、のような気がします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E7%94%B0%E4%B8%80%E9%83%8...
ライシャワー事件での早川氏も、自らの職務を全うできなかったというよりは、アメリカに対して日本という国を守るために辞任した例かと思います。
それが責任を取ることになるか、といえば、これまでの例を見るとその人物が反省、という形ではないかと思いますし、辞任要求も、近代以前は政敵の私的な利益の部分も否めないかと思います。が、官職が莫大な利益を持っていた時期から考えると、その人物にまつわる人脈、利権を一掃できる、という意味ではいいかもしれません。明治の教科書疑獄事件などはまさにそういう勢力一掃といった空気が社会にも議会にもあったようですし、現在、世界的にも辞任はそういう意味を一部持っているかと思います。反省、あるいは責任を取る、というのはその人物がするのではなく、その組織が長い年月で示していく、という形なのでしょう。上の例からは遺伝子の伝達のようなものをイメージしましたが、ここでは細胞の新陳代謝といったイメージでしょうか。
あるいは
田沼意次などに見られるような「徳を失った為政者」に対する天の警告、「革命」(古代中国的意味での)という形でなら、首のすげかえ、為政者の交替、ということで、天に対して責任をとったといえるかも知れません。日本、特に近代以降は辞任した政治家がすぐ出てくる例が多いので、ずいぶんぬるい革命ですが。
近年の辞職は、以前からあった、自分を捨てて子孫(あるいはお家を守る)といった、トカゲの尻尾きりの面が強くなってきたように思います。情報隠しという問題も大きくなっています。辞職はしてもかまいませんが、その後の責任追及、真相解明はなされるべきかと思います。辞職が真相の封印に使われるのであれば、それは大変に問題かと思います。辞職が政争の結果であったなら、昭和の「松岡人事」のような、つまり辞職自体無理やりの冤罪である可能性もあるので、二つの意味でことの経緯、責任の所在は明らかにすべきかと思います。
最後に、
・問題発生直後にはあえて辞任をせず、後始末をしてから進退を決めたというリーダー(社長や政治家など)の例はありますか。
というご質問ですが、残念ながらそういう人物は探せませんでした(戦後の企業については見ていないので、民間の中にはそういう社長がいるかもしれません)。
近い人物としては
ルキウス・コルネリウス・スッラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A6%E3%82%B...
初志貫徹、潔く辞めた、ということではイメージ的に合っていますが、世間に非難されたかどうかはわからず、上に上げたような苛烈な政争の末政敵を倒しただけですので、責任を全うしたというより政争に勝利した、という方が正確かもしれません。
鈴木商店の金子直吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E7%9B%B4%E5%90%8...
この人はまさにメインバンクの台湾銀行から辞職勧告された人なのですが、その後もずっと鈴木に仕え、鈴木が崩壊した後も何とか建て直しを図ろうとしました。が・・・。
人格的には私利私欲のない立派な商人だと思いますが、この時代、巨大化した鈴木商店にとっては、老害になってしまったのではないかという気がします。
頑張り抜いたリーダーというのは私も知りたい気がしますので、機会があったらまた探したいと思います。
前提として、「優秀な人材が控えている」という「常識」が、暗黙裏にあるからでしょう。特に団塊世代を前後して、「自分がその椅子に座るには、まず追い落とさなければならない」という無意識的な共謀関係があるようにも思われます(1960年代の労働闘争や学生運動とも通底する)。
辞任が責任を取ることになる(と言える)のは、
・人は老化とともに衰えるから。
指揮監督能力の落ちた者は排除して、より優秀な者に刷新する。
というサイクルは、生物学的にも必然的なものでしょう。
オイディプスコンプレックスもそのひとつ。
社員の問題発覚は、その一つの契機ともみれなくもない。
2007年問題が指摘された昨今の社員教育の怠慢が顕著になる前は、自己保身のために後塵の指導を意図的に放棄したり、梯子を外すようなことは、それほど多くはなかった(と思われる)。それには敗戦後の指導者層の総退陣や、戦前の価値否定の中で、過去の経験を元にした先例主義の後ろ盾で自己保身のできる環境でもなかった。そんな側面もあったでしょう。
同時に、若者から向上心が無くなったと指摘され始めた新人類世代以降、重責を負ってまで責任者に成りたがるより、そこそこの責任でそれなりの生活で満足できる者が増えたこともある。ここに、偉いままで居たい者と、特に学びたくない者との間の共犯関係が成立していたと言えよう。社会が安定してくれば、それでもさほど問題にはならないが故にこの問題は深刻化した。
質問者のように、辞任が潔さの証拠ではなく、無責任であるとしか、もはや見えなくなったのは、以前のように、トップがいつ辞めても、誰でも代わりが務められるように虎視眈々と待ち構えている者が居なくなったことによって、いきなり辞められても、その穴を埋め合わせられるだけの準備を整えた人間が育っていない…ということが、目に付くようになってきたからでしょうか。
故に、最後の質問にあるような事例はむしろ、過去より最近の方が多いような気がします。発覚と同時に辞任を示唆しても、すぐに辞めたということは、最近の事例ではあまりないように記憶してますが…。
http://q.hatena.ne.jp/1253072655 ダミー
もちろんその他に、政敵やライバル企業が潰れてくれた方が都合の良い者たちが、ことさら問題を煽り、辞任を迫る世論をあえて喚起する…といった側面のあることも、無視はできません。
ほかに適任者がいくらでもいるのだから、失敗した者はさっさと切ってしまってよい=辞任させても大丈夫、という発想でしょうか。
実例による年表で何か見えてくるのかもしれませんね。
とりあえずは、最近の世界の辞任から
中国「食の安全」担当閣僚が異例の引責辞任
http://sankei.jp.msn.com/world/china/080922/chn0809222332005-n1....
有害物質のメラミンが粉ミルクなどに混入され、乳幼児5人が死亡した事件の責任を取ったもようです。
http://www.israel-radionews.com/2007/01/post_272.html
イスラエルのダン・ハルーツ参謀総長もレバノン侵攻に関する責任を取って辞任しています。
少しさかのぼりますとガリポリの戦いの大敗で、当時海軍大臣だったチャーチル、またハーバート・ヘンリー・アスキス首相も責任を問われ辞職しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B...
これを見ると引責辞任というのは、日本に限ったことではないようです。
では「辞任」とは何か、というのをネットでさかのぼってみてみました。
日本古代、中世においては、ネットでみる限りあまり引責辞任という形での辞任は見当たりませんでした(ネットでの限られた例ですので、古代、中世史に詳しい方でその例をご存知の方は教えていただけるとうれしいです)。
圧倒的に多いのが
(1)子孫(あるいは自身)を高いポストにつけるための辞任 です
http://www.toride.com/~yuga/gen/gen3-11.html
内大臣左大将であった藤原(妙音院)入道師長が太政大臣を狙うために大将を辞任なさった。
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/12.html
姉小路顕朝
正嘉二(1258)年、二条定高女との問に生まれた忠方を右少弁に推すために権中納言を辞任。
葉室資頼
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/30.html
暦仁元(1238)年、権中納言を辞し、子息右中弁季頼の宰相への昇進を願ったが、過分であるとして許されなかった
宝治二(1248)年に中納言を辞して季頼を右大弁に還補、子息に望みを託すが、季頼は結局参議に昇ることができなかった
源雅言
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/51.html
建長六(1254)年に父が権中納言を辞する替わりとして右少弁になる。
文永七(1270)年、子息雅憲を五位蔵人に申任して権中納言を辞す。
高位にある父が辞任する代わりに息子を推す事により、官位の昇進が保証される、という習慣があったようです。
次は(2)(派閥の異なる)政権が替わったことによる辞任 です
中御門経継
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/26.html
日野俊光
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/41.html
吉田経長
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/56.html
これは特に宮廷では多く、天皇の皇統が変わると職を辞したり出家したりしていたようです。
次に (3)ブーイングを避けるための辞任 です
中御門経任
http://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/27.html
分不相応な出世をしたために貴族の間から不満が続出、それを避けるために一時辞任した、という形です。
次に(4)失政、または政敵・世間の非難による辞職
どちらかといえば政争の結果と言えそうですが
楊嗣復
http://www.toride.com/~fengchu/jisho-y.html
唐の滅亡の遠因ともされた、陰謀、失脚、罷免相次ぐすさまじい牛李の党争の渦中にあった人ですが、
李徳裕派の鄭覃や陳夷行に朋党を組んだとして責められ、辞任を上表したが、文宗は却って鄭覃や陳夷行を罷免した。
引責辞任というより、政敵から身を守るため先んじて辞職したという形でしょうか。
藤原登任
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%99%BB%E4%BB%B...
前九年の役の発端になった戦を仕掛け、鬼切部の戦で大敗した人ですが、引責辞任か更迭か、史料にははっきりした記述はありません。
http://www.ucalgary.ca/~xyang/zen9nen/zkn-1.htm
□□登任(なりたう)、件(くだん)の頼良(よりよし)等(ら)を誅(ちう)することを得ず。
http://www.st.rim.or.jp/~success/mutuwaki.htm#1
太守藤原の朝臣登任数千の兵を発してこれを攻む。・・・太守の軍敗績し死者甚だ多し。
これに於いて朝廷議有りて、追討将軍を撰ぶ。
おそらく「朝廷の議」の結果の更迭であって、自ら引責辞任をした、という形ではなさそうです。
江戸期にはもっと多くの辞任がありそうですが、主だったもののみ
田沼意次
http://www.01.246.ne.jp/~reki127/index.rekitan-29.html
家治の死に驚いた田沼は引責辞任の目的で辞表を提出。しかし幕府からは受け取りを拒絶され、かえって幕府から罷免の沙汰を受けた。田沼はこれを甘んじて受けた。そして田沼派の幕府内部からの一掃が一通り片付いた9月8日に将軍薨去が公表された。
つまり、田沼を辞めさせたのは将軍の命令であることにしたかった幕府としては将軍に死なれてしまっては困るので死の報を隠して生きていることにし、さも将軍の命で田沼が辞めさせられたような形にしたのである。
http://oniheru.fc2web.com/jinbutsu/tanuma_okitsugu.htm
相次ぐ天災は、世論も田沼に逆風に吹いた。とくに天災は為政者の政治のやりかたに天が警告として起すものという考え方が当時の一般的な考え方だったから、人々は田沼の政治が悪いから天災が起きるんだと考えた。
・・・
家治を「占拠」した反田沼派は将軍の命令と称して意次の政策を停止。そして老中職を罷免した。そしてそのあとで家治の死去を公表した。おそらく反田沼派が家治の死去を隠して様々な命令を下したのであろう。
・・・
失脚した意次は所領も没収された。
遠州相良5万7千石から、奥州下村1万石に減封。相良城は破却された。そして意次は隠居。失意の内に70歳で死去した。後には「汚職政治家」という汚名が残った。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1126077...
家治の死を隠して門閥派は将軍の名において意次の老中辞任を強要しました。一説には三家三卿らが意次を取り囲み、刀を突きつけて無理やり辞職願を書かせたともいわれています。
田沼の場合、辞職したのかはネットでははっきりしませんでしたが、政策の失敗による引責辞任というより、政敵による事実上の追放と言った方がよいでしょう。
あとを継いだ老中も
松平定信
http://sito.ehoh.net/hanseikaikaku4.html
寛政5年(1793)、老中首座・将軍補佐を罷免に近い形で辞任した後、白河藩の殖産興業に打ち込む
水野忠邦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%82%A...
二人とも事実上の罷免、ということでしょうが、形としては辞任の形をとったのでしょうか。引責というより、政敵による追い落としという色彩が強いように思います。
改革つながりで上杉鷹山の改革を
竹俣当綱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%BF%A3%E5%BD%93%E7%B6%B...
改革の主導者であったが、専制的で取り巻きをかかえ、公私混同な振る舞いも多く、また側近政治や改革施策の中には森平右衛門時代の施策を踏襲したものもあった。
安永9年(1780年)に辞職届けを出したものの、天明2年(1782年)に公費の私的流用の罪や藩祖上杉謙信の忌日に酒宴をしていたという不敬罪など11か条の不行跡を理由に隠居及び蟄居を命じられる。
莅戸善政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8E%85%E6%88%B8%E5%96%84%E6%94%B...
天明2年(1782年)に竹俣が不行跡故に隠居及び蟄居命じられた翌年の天明3年(1783年)に本人に失態はなかったものの、小姓頭を辞職の上、隠居する。
こちらもどうも言いがかりめいた理由なので、政争の結果と考えていいように思います。ただ莅戸に関しては、この前の政争で失脚しそうになったとき自死を覚悟したといいますから、ドライな政争の勝敗というより何か主君に対しての責任感、申し訳なさもあったかもしれません。
次に幕末肥後藩の藩校改革の失敗の例です。
http://wwwhou1.meijo-u.ac.jp/housei2/semi/2007soturon/pdf/%E7%89...
月一回親睦のため酒宴を開いていたのであるが、この酒宴が逆効果を出し退寮者が続出した。この状況から反対派家老松井一派の画策により、混乱の責任を問い天保十年に奉行である下津休也を辞任させ、翌月に小楠は塾長を解任され江戸遊学を命ぜられた
これはまさに現代風の引責辞任に近いものですが、明確に政争の結果でもあります。
明治期
井上馨
http://kotobank.jp/word/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%A6%A8
4年大蔵大輔となり,廃藩置県後の中央財政の確立,銀行,会社の創設に努めた。しかし大蔵省と井上グループの勢力増大に対する反発も強く,尾去沢銅山私有事件を追及され,6年5月辞職。
12年外務卿(のち外務大臣)。
20年本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため,交渉を中止し外務大臣を辞任した。
菊池大麓
http://www.sakanouenokumo.jp/dic/archives/2006/01/post_426.html
1901年文相に就任したが、教科書疑獄事件により引責辞任した。
これはまさに今で言う引責辞任そのものかと思います。
そして戦後のライシャワー大使刺傷事件
http://showa.mainichi.jp/news/1964/03/post-9818.html
早川崇自治大臣兼国家公安委員長はその翌日25日に早くも引責辞任しています。
http://wapedia.mobi/ja/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E5%B4%87
その翌日の国会答弁です。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0512/04603260512017c...
○和田博雄君 ・・・
この事件によって日本の国際的な信用ははなはだしく傷つけられたのであります。これは事実であります。なぜ日本だけにこのような難件が起こったかについて、政治を行ないます君はえりを正して厳粛に反省をしなければならないと私は思います。(拍手)それなくして日本の国際信用を回復することはむずかしいでありましょう。公安委員長の辞任によって責任の問題は解決したというような安易な態度をとることは、責任を回避するにもひとしいものだと思います。池田首相は、政府の最高責任者として、いかにこの責任を感じ、またいかにして責任を明らかにするかを、まずお尋ねしたいと思います
・・・
国務大臣(池田勇人君)
・・・
なお、今回の事件によりまして、すでに御承知のごとく、私よりジョンソン大統領に、まことに申しわけない、遺憾のことでございますと手紙を出しましたところ、ジョンソン大統領より、この事件によって日米間の友情と理解がそこなわれることはないと確信するという、非常にありがたいお返事をいただきました。また、アメリカの世論を見ましても、ある非常に有力な新聞は、ライシャワー大使に同情すると同時に、日本国民に同情する、それは、今回の刺傷を起こしたあの青年の気持ちは日本全国民の気持ちとかけ離れておる、日本国民はそういう気持ちを持っていない、したがって、この事件に対して日本国民がうろたえ、かつ非常に困っていることを見るから、同情するという社説を掲げております。私は、これによって何にもわれわれの責任がなくなったとは思いません。私は、アメリカ国民のこの気持ちが全世界に渡り、そして政府も国民も、政治家をはじめとして日本人全部が再びこういうことが起こらないように努力してこそ、初めてこのアメリカの同情にこたえ、国民の心配にこたえるゆえんだと考えておるのであります。
今回公安委員長の辞任を認めましたのも、本事件の重大性を考えまして、政治的に関係の深い方がおやめになることは、われわれが二度と起こさない気持ちをあらわす意味において、私は辞任を認めた次第でございます。
まさに今回のご質問の通り、辞任によって責任の問題は解決したというような安易な態度を問うているわけですが、辞任に関しては、アメリカに対して姿勢を示す、ということになっていると思います。
ここまで通して見てきましたが、古代、中世には引責辞任というのはあまりなかったのではないか、という印象を持ちました。もちろん失政を政敵に追及されたことはあると思いますが、それ以前に、皇統が変わると不利になると見てさっさと自らやめてしまい、雌伏して次の機会を待つ、という感じがありました。そこには世間の圧力による苦渋の決断というより、政争の中のドライな判断を感じます(実際宮中などでは大納言を引き受けたりやめたりを繰り返している人もいたようです)。
近世に入り、苛烈な政争が幕府、各藩内で繰り広げられたようですが、それで辞任した政治家も、世間の非難の針の筵の上にいたというより、政敵の陰湿な追い落としにより追放された、というような経緯に見えます。
つまり、江戸期までの辞任は政争の結果であって、世間の圧力というものはあくまで宮中、あるいは幕府内のものに限られていたのではないかと推測します。
そこで特徴的なのが柳沢吉保の判断です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%90%89%E4%BF%9...
宝永6年2月19日(1709年3月29日)、権勢の後ろ盾とも言うべき綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。代わって新将軍家宣とその儒者新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。こうした状況を敏感に察知して6月3日(7月9日)、自ら幕府の役職を辞するとともに長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居し、以降は保山と号した。結果、その後吉里の領地は甲府藩から郡山藩に移されたものの、柳沢家15万石の知行が減封されることはなかった。
これは前述した
(2)(派閥の異なる)政権が替わったことによる辞任
(3)ブーイングを避けるための辞任(吉保がなり上がりであったことに対し)
の合わせ技でもありますが、
(1)子孫(あるいは自身)を高いポストにつけるための辞任
でもあるような気がします。
自らを犠牲にして先んじて辞職することで、子孫の安寧が図られた、と見てよいような気もするのです。
これは
(4)失政、または政敵・世間の非難による辞職
の際もなされているように思います。なるべく早めに辞職することにより、自家、あるいはお家(藩、幕府)を守る、という形です。
近代に入り、引責辞任が増えてくるのは議会制民主主義、ジャーナリズムの発展により批判の機会が増えた、批判する勢力が多くなったことからでしょうが、やはりその形の中にも(1)のかたちがあるような気がします。身を捨てて政府、お国を守る、という。
近年はどうも薄暗い形の引責辞任が増えているような感じがします。
バブルのころですが、住友の天皇と呼ばれた磯田一郎も政界との癒着を探られないために「イトマンのことは墓まで持っていく」と、世間の要求とは真逆に、いち早く辞任してしまいました。これもまた、政界、住友、という母体を守るために自らを犠牲にしたパターンの一つ、のような気がします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E7%94%B0%E4%B8%80%E9%83%8...
ライシャワー事件での早川氏も、自らの職務を全うできなかったというよりは、アメリカに対して日本という国を守るために辞任した例かと思います。
それが責任を取ることになるか、といえば、これまでの例を見るとその人物が反省、という形ではないかと思いますし、辞任要求も、近代以前は政敵の私的な利益の部分も否めないかと思います。が、官職が莫大な利益を持っていた時期から考えると、その人物にまつわる人脈、利権を一掃できる、という意味ではいいかもしれません。明治の教科書疑獄事件などはまさにそういう勢力一掃といった空気が社会にも議会にもあったようですし、現在、世界的にも辞任はそういう意味を一部持っているかと思います。反省、あるいは責任を取る、というのはその人物がするのではなく、その組織が長い年月で示していく、という形なのでしょう。上の例からは遺伝子の伝達のようなものをイメージしましたが、ここでは細胞の新陳代謝といったイメージでしょうか。
あるいは
田沼意次などに見られるような「徳を失った為政者」に対する天の警告、「革命」(古代中国的意味での)という形でなら、首のすげかえ、為政者の交替、ということで、天に対して責任をとったといえるかも知れません。日本、特に近代以降は辞任した政治家がすぐ出てくる例が多いので、ずいぶんぬるい革命ですが。
近年の辞職は、以前からあった、自分を捨てて子孫(あるいはお家を守る)といった、トカゲの尻尾きりの面が強くなってきたように思います。情報隠しという問題も大きくなっています。辞職はしてもかまいませんが、その後の責任追及、真相解明はなされるべきかと思います。辞職が真相の封印に使われるのであれば、それは大変に問題かと思います。辞職が政争の結果であったなら、昭和の「松岡人事」のような、つまり辞職自体無理やりの冤罪である可能性もあるので、二つの意味でことの経緯、責任の所在は明らかにすべきかと思います。
最後に、
・問題発生直後にはあえて辞任をせず、後始末をしてから進退を決めたというリーダー(社長や政治家など)の例はありますか。
というご質問ですが、残念ながらそういう人物は探せませんでした(戦後の企業については見ていないので、民間の中にはそういう社長がいるかもしれません)。
近い人物としては
ルキウス・コルネリウス・スッラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A6%E3%82%B...
初志貫徹、潔く辞めた、ということではイメージ的に合っていますが、世間に非難されたかどうかはわからず、上に上げたような苛烈な政争の末政敵を倒しただけですので、責任を全うしたというより政争に勝利した、という方が正確かもしれません。
鈴木商店の金子直吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E7%9B%B4%E5%90%8...
この人はまさにメインバンクの台湾銀行から辞職勧告された人なのですが、その後もずっと鈴木に仕え、鈴木が崩壊した後も何とか建て直しを図ろうとしました。が・・・。
人格的には私利私欲のない立派な商人だと思いますが、この時代、巨大化した鈴木商店にとっては、老害になってしまったのではないかという気がします。
頑張り抜いたリーダーというのは私も知りたい気がしますので、機会があったらまた探したいと思います。
たくさんの例をありがとうございます!
どうやら、後始末をどうしろという以前に、「お前とその仲間が居座ることの方が問題だ」という周囲の声が大きいのだというように思われます。池田勇人内閣の例は少々毛色が違いますが。
あとは、「ポスト」というもの自体が、非常に大きな利権であると認識されているようにも思います。
いろいろ考えるためのデータをいただきました。ありがとうございます。
たくさんの例をありがとうございます!
どうやら、後始末をどうしろという以前に、「お前とその仲間が居座ることの方が問題だ」という周囲の声が大きいのだというように思われます。池田勇人内閣の例は少々毛色が違いますが。
あとは、「ポスト」というもの自体が、非常に大きな利権であると認識されているようにも思います。
いろいろ考えるためのデータをいただきました。ありがとうございます。