確かに坂本龍馬はいろいろと優れた人だと思います。
しかし、これだけ評価が偏っていると、逆に不審に思います。
問一)日本人の坂本龍馬崇拝はどこから始まったのでしょうか。
問二)坂本龍馬に批判的な歴史家・思想家等はいるでしょうか。
箱石大「坂本龍馬の人物像をめぐって」(歴史評論 第530号)
戦後における龍馬の人物像(=フィクションとしての龍馬像)は、出版・放送などのマスメディアを媒介とした歴史小説・テレビ時代劇によって創出され、歴史研究者の歴史叙述よりも影響力を持った。(『歴史評論』第530号、45ページ)
諸先学の成果を批判的に継承し、フィクションとしての現代的龍馬像を克服して新しい龍馬の実像を追求することは、同時に明治維新史像の再構築を志向することにもなるだろう。そして、マス・メディアにおける龍馬像のあり方についても、これが国民の歴史意識の形成に重大な影響を与えている以上、今後も無関心ではいられないのである。(『歴史評論』第530号、52ページ)
マリアス・ジャンセン「明治維新と坂本龍馬」
佐々木が驚いたのは、龍馬が徳川の裏をかくためなら、どんな突飛な手段でも取る気でいることだった。1865年、長崎で浦上の天主教徒が参列してカトリックのミサが行われた。浦上の教徒は数百年にわたる幕府の厳しい詮議と迫害を潜って生き残った一団であるが龍馬はこれをみて、キリスト教を倒幕に利用する可能性を真剣に考えたのであった。龍馬は佐々木に言っている。『いま薩長両藩と進めている計画が万一失敗したときは、次にやるべきことはキリスト教を利用して人心を扇動することだ。その結果混乱が起これば幕府は倒れるだろう。316ページ
松浦玲「検証・龍馬伝説」
大政奉還論は龍馬の発明ではありませんよと私などが横から言っても耳には入らない。司馬さんが龍馬に対するサービスとして「驚天動地の奇手」と書いたことが、或る種の読者の側では、実際の大政奉還を龍馬が殆ど一人で実現したかのごとき思い込みにつながり、・・・
松浦玲「歴史小説と歴史学は違う 司馬史観を持ち込む愚」(『Ronza』3巻5号、1997年)
現在流通している坂本龍馬のイメージの多くは『竜馬がゆく』で創られた。たいていの読者はそれが史実だと信じるから、それは司馬さんの創作ですと指摘しても、なかなか分かってもらえない。大多数の読者は『竜馬がゆく』で坂本龍馬が分かり明治維新が分かった気になっているのである。21ページ
(補足です。)
龍馬ブームについて 高知県立坂本龍馬記念館
龍馬は維新後、何度も龍馬ブームによって復活します。
その最初は、1883(明治16)年です。坂崎紫瀾(高知出身)が書いた『汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)』が、高知の『土陽新聞』に掲載され、大評判となります。これは、自由民権運動に参加していた坂崎が、薩長に牛耳られていた明治政府に、忘れられた土佐藩の立場を再認識させる意味もあったようです。
それから、1890(明治23)年に勝海舟がまとめた『追賛一話』という資料が当館にあります。様々な歴史上の偉人について、海舟が一言コメントしたものですが、龍馬については、西郷を釣り鐘に例えた話を持ち出し、このような見事な例えができる龍馬もたいした人物だと書いています。さらに、「(坂本)氏の行った事業は既に世の中に広く知れ渡っているので、あえて褒め称えることはしない」と付け加えています。これによると、明治23年には龍馬は、全国的にかなり有名だったと考えられます。
次に龍馬ブームが起こるのは、日露戦争の時です。日本海でロシアのバルチック艦隊と戦う前に、龍馬が皇后陛下の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」というようなことを話したそうで、これが全国の新聞に掲載されました。皇后陛下はこの人物を知らなかったのですが、当時の宮内大臣の田中光顕(高知出身)が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになり、龍馬は一躍、海軍の神様となって脚光を浴びました。これも最初の坂崎と同じく、海軍は薩摩、陸軍は長州に牛耳られ、入る余地のない土佐が龍馬を利用したものです。
その次の龍馬ブームは、大正デモクラシーの時です。大政奉還の基となった船中八策の第二条目に、「万機宜しく公議に決すべき事」とありますが、これがデモクラシーの先駆と考えられます。さらに、大政奉還により平和的に倒幕を成し遂げた平和革命論者のイメージも定着します。
こうして、平和的なイメージが定着しつつあった龍馬ですが、昭和3年に桂浜に銅像が建立された時には、除幕式に海軍・陸軍両方の兵士が参列し、駆逐艦まで碇泊しました。さらに、第二次世界大戦中は県下の銅像はほとんど供出されたにも関わらず、龍馬と慎太郎は天皇のために働いた人物ということで、二人の銅像は残されました。
そして現代に至り、司馬遼太郎さんが『竜馬がゆく』で取り上げ、現代の龍馬ブームが起こりました。これまで、薩長同盟の立役者、自由民権運動の先駆者、海軍の先駆者、デモクラシーの先駆者、平和革命論者、尊王家など、色々な形で政治に利用されてきた龍馬を解放し、司馬さんなりの明るく自由な龍馬像を作り上げたことが、広く受け入れられた要因ではないかと考えます。以上のように、龍馬はそれぞれの時代で、様々な形で注目されていました。
問一)
坂本龍馬は司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』により一般的に知られるようになりました。
一般的にイメージされる人物像はこの小説がもとになっている様です。
問二)
評論家・八幡和郎は著書『本当は偉くない? 歴史人物 日本を動かした70人の通信簿』、
『幕末藩主の通知表―八幡和郎が幕末の藩主・志士たち200人を徹底検証! 』で
坂本龍馬は過大評価であると述べています。
http://www.yawata88.com/jiji17501.htm
http://www.amazon.co.jp/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E8%97%A9%E4%B8%BB%E3%...
1)司馬遼太郎史観は見直しが必要そうですね。
2)八幡氏の著書は面白そうです。「評価」なので個々に見解が変わるとしても、そういう画一的でない視点が知られるのはよいですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%A...
次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。日本海海戦の直前に、龍馬が皇后の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという話である。皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣の田中光顕が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになったと言われる。真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となる。
むしろ生前より死後に有名になった人物であり、司馬遼太郎の作品を始め、小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、それらは実際の龍馬とかけ離れているのではないかという指摘は多い。歴史家の中に、特にそのような指摘をする人は多く、松浦玲などが代表格[2]。ちなみに、龍馬の伝記を書いた歴史家としては、平尾道雄・池田敬正・飛鳥井雅道などが代表的[3]。その他、詳しくは「文献」の項目を参照のこと。
Wikipediaからもう一歩進んだ回答を希望します。「全国紙」の詳細や、松浦令氏の具体的な指摘内容などはわかるでしょうか。
問一
古くは、勝海舟が明治になってから、明治政府の連中より、
竜馬の方が優秀だったと吹聴してたことがあげられます。
現在の龍馬のイメージを確定したのは「竜馬がゆく」でしょう。
読み物をとおして、龍馬像が完全に定着したようです。
あと、こんな話もあるようです。崇拝というか単なる話題になっていたようですが。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1124208...
問二
龍馬“像”批判は珍しくないかと思います。
Wikiからのコピーですが、
「小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、それらは実際の龍馬と
かけ離れているのではないかという指摘は多い。歴史家の中に、特にそのような
指摘をする人は多く、松浦玲などが代表格。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%A...
他にも普通の個人が書いたものでもこういうのはよく目にします。
知恵袋やwikipediaではなく、できるだけ原典・出典に近い情報を求めます。なお、ウィキペディアをウィキと略すのは誤りですので、改めるようにしてください。
あやつられた龍馬―明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%82%84%E3%81%A4%E3%82%89%E3%...
こんな本もあるね。で、
問1>
日本国内での諜報活動を容易にするために、
龍馬のような人物を英雄視する価値観が、
戦後政治の中で都合がよかった。
CIAと某新聞社との関係とか、戦後
力を持った様々な勢力とも重なってみえる。
問2>
ちなみに上記の本は特に批判的な本
ってわけではなかったけどね。
陰謀論はご遠慮ください。
箱石大「坂本龍馬の人物像をめぐって」(歴史評論 第530号)
戦後における龍馬の人物像(=フィクションとしての龍馬像)は、出版・放送などのマスメディアを媒介とした歴史小説・テレビ時代劇によって創出され、歴史研究者の歴史叙述よりも影響力を持った。(『歴史評論』第530号、45ページ)
諸先学の成果を批判的に継承し、フィクションとしての現代的龍馬像を克服して新しい龍馬の実像を追求することは、同時に明治維新史像の再構築を志向することにもなるだろう。そして、マス・メディアにおける龍馬像のあり方についても、これが国民の歴史意識の形成に重大な影響を与えている以上、今後も無関心ではいられないのである。(『歴史評論』第530号、52ページ)
マリアス・ジャンセン「明治維新と坂本龍馬」
佐々木が驚いたのは、龍馬が徳川の裏をかくためなら、どんな突飛な手段でも取る気でいることだった。1865年、長崎で浦上の天主教徒が参列してカトリックのミサが行われた。浦上の教徒は数百年にわたる幕府の厳しい詮議と迫害を潜って生き残った一団であるが龍馬はこれをみて、キリスト教を倒幕に利用する可能性を真剣に考えたのであった。龍馬は佐々木に言っている。『いま薩長両藩と進めている計画が万一失敗したときは、次にやるべきことはキリスト教を利用して人心を扇動することだ。その結果混乱が起これば幕府は倒れるだろう。316ページ
松浦玲「検証・龍馬伝説」
大政奉還論は龍馬の発明ではありませんよと私などが横から言っても耳には入らない。司馬さんが龍馬に対するサービスとして「驚天動地の奇手」と書いたことが、或る種の読者の側では、実際の大政奉還を龍馬が殆ど一人で実現したかのごとき思い込みにつながり、・・・
松浦玲「歴史小説と歴史学は違う 司馬史観を持ち込む愚」(『Ronza』3巻5号、1997年)
現在流通している坂本龍馬のイメージの多くは『竜馬がゆく』で創られた。たいていの読者はそれが史実だと信じるから、それは司馬さんの創作ですと指摘しても、なかなか分かってもらえない。大多数の読者は『竜馬がゆく』で坂本龍馬が分かり明治維新が分かった気になっているのである。21ページ
(補足です。)
龍馬ブームについて 高知県立坂本龍馬記念館
龍馬は維新後、何度も龍馬ブームによって復活します。
その最初は、1883(明治16)年です。坂崎紫瀾(高知出身)が書いた『汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)』が、高知の『土陽新聞』に掲載され、大評判となります。これは、自由民権運動に参加していた坂崎が、薩長に牛耳られていた明治政府に、忘れられた土佐藩の立場を再認識させる意味もあったようです。
それから、1890(明治23)年に勝海舟がまとめた『追賛一話』という資料が当館にあります。様々な歴史上の偉人について、海舟が一言コメントしたものですが、龍馬については、西郷を釣り鐘に例えた話を持ち出し、このような見事な例えができる龍馬もたいした人物だと書いています。さらに、「(坂本)氏の行った事業は既に世の中に広く知れ渡っているので、あえて褒め称えることはしない」と付け加えています。これによると、明治23年には龍馬は、全国的にかなり有名だったと考えられます。
次に龍馬ブームが起こるのは、日露戦争の時です。日本海でロシアのバルチック艦隊と戦う前に、龍馬が皇后陛下の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」というようなことを話したそうで、これが全国の新聞に掲載されました。皇后陛下はこの人物を知らなかったのですが、当時の宮内大臣の田中光顕(高知出身)が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになり、龍馬は一躍、海軍の神様となって脚光を浴びました。これも最初の坂崎と同じく、海軍は薩摩、陸軍は長州に牛耳られ、入る余地のない土佐が龍馬を利用したものです。
その次の龍馬ブームは、大正デモクラシーの時です。大政奉還の基となった船中八策の第二条目に、「万機宜しく公議に決すべき事」とありますが、これがデモクラシーの先駆と考えられます。さらに、大政奉還により平和的に倒幕を成し遂げた平和革命論者のイメージも定着します。
こうして、平和的なイメージが定着しつつあった龍馬ですが、昭和3年に桂浜に銅像が建立された時には、除幕式に海軍・陸軍両方の兵士が参列し、駆逐艦まで碇泊しました。さらに、第二次世界大戦中は県下の銅像はほとんど供出されたにも関わらず、龍馬と慎太郎は天皇のために働いた人物ということで、二人の銅像は残されました。
そして現代に至り、司馬遼太郎さんが『竜馬がゆく』で取り上げ、現代の龍馬ブームが起こりました。これまで、薩長同盟の立役者、自由民権運動の先駆者、海軍の先駆者、デモクラシーの先駆者、平和革命論者、尊王家など、色々な形で政治に利用されてきた龍馬を解放し、司馬さんなりの明るく自由な龍馬像を作り上げたことが、広く受け入れられた要因ではないかと考えます。以上のように、龍馬はそれぞれの時代で、様々な形で注目されていました。
ありがとうございます!
非常にくわしく、またここからさらにたどっていけそうです。
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