国内で1000円をもっていて
それでお肉200g買えても
そのお肉が外国から来ていて
為替が
円安になると
1000円持っていても
10円のものしか買うことが出来なくなるというシステムが
資本主義化によるグローバル経済ではないだろうか・・??・・??
ヘン??
昨日、二日ぶりに(岡本さんが来ることになってる火曜日、
ミユキさんのメッセンジャーとして
ミユキさんへ母から電話をするようにと彼女の連れ子の谷崎氏が来たとき
私がいつも置いてる駐車場には山口系の人が車の中でエンジンをふかして
あれ??っと思って病院へ向かった・・
その日から母には日本の文化で育ったとは思えない若い看護婦さんが
夜勤を担当し、呼びもしないのに
ともかく、母にかかわろうと詰め所で待機・・
その日は母がいつも気持ちよく気使いしてくださってる方も
夜勤でしたが・・
主治医通じ、母に弟のお嫁さんを呼ぶように連絡があり
木曜、主治医に呼び出されたという形で
弟のお嫁さんがきて
母の前で
主治医と婦長は
帰宅後の看護の主役として
お嫁さんに介護指導したいとの要請があり
それをうつむいてうなだれて母は聞いていて
そのあと、私に来ないようにといったので
二日間、行かなかったけれど
うっかり、携帯を忘れていたので
とりに行くと
『どうしてたの?』と聞く・・
水曜には
別の療法士さんがリハビリしてくださったので
左足が前に動き始めていて
靴下なら靴の滑り止めがないので前に出る・・
大喜びで
翌日から、左だけは靴下のままで自分で車椅子の練習を朝からするといっていた・・
でも・・
昨日行くと・・
左足は動かないといって
年賀状をかくのに1センチくらいの束を
左手が使えないのに
一枚ずつ、書こうとせずに
束ねたままで書こうとし、
横へなだれると
字も斜めになっているのに
気づかなくなっている・・!?
でも、
応答パターンは定型パターンではまともで
初めてわたしは
主治医が病室回診しにきたところに遭遇したが・・
(おそらく・・??洗脳が完成し、自分が醜態、失態をさらけ出すリスクがなくなった??
もう一件、囲碁好きの方がやはり個室でいらっしゃるが
彼にも同じような
攻撃的な反応をしだすような言語療法がされてるのではないだろうか??・・???
また、昨日、東館で何人かが
キャッシュカード、現金など盗難があったそうですが
そのことも
伏されてる・・??
かつて、長女の出産で府立病院似たとき、
よその病棟で白いズボンをはいた水色のシャツを着た人が
盗難したのでないかと患者さんたちがいうので
すぐに、看護婦さんから
注意してくださいとの連絡があって
ちょうど夜、
当時、阪大一外で
勤務中のズボンのままお見舞いに来た主人が同じような服装だったので
大笑いしたことがある
つまり・・
病院内で事件があったときには
すみやかに、周知させるのがジョーシキ??・・??
ヘン??・・??)
古代朝廷の国家行事として
半期の晦日に
文武百官男女を祓所(そのひとつが八坂神社??の起源??)にあつまり
知らず知らずに犯していた罪や穢れを祓い、
人形の和紙に穢れを移して
加茂川の水に流して
心機一転を誓い
納涼を兼ね神様に捧げたものを食すしきたり?習慣が
応仁の乱以降、廃止され
それが民間の中で継承され
当初は日が決められておらず
加茂川などの納涼をかねて涼む(涼やかなまなざしVS濁った目つき、清涼・・)行事の
「水無月祓」『名越の祓』『夏祓』として伝承されていく
和泉式部『思うこと皆突きね(6月を水無月、『皆、月』にかけてる)とて
麻の葉をきりに切りても祓えつるかな』
『6月のつごもりに、
・・・三の皇子、中納言を給いて御祓えし、涼みたもう』
明系マッカツらが藤原家平家?公家貴族を
ペットとした??平安時代、
釣りどこ(床)を出した舟遊びとして
飲食した遊びに日本の神道文化史を改ざんしていく・・
ストイックな源氏イメージの改ざんのために??
光源氏を描く??
そして・・・・
古代から祓所とされていた現、八坂神社は
まずは、素戔鳴尊系の
橿原神宮系神武帝系勢力(樫の木を伐採して青銅器精製技術の武器をもっていた??)が
朝鮮渡来のカルトの牛頭山に祀るスサノオノミコト)の神霊を移してきて
八坂氏の氏神として創祀したのを
天智帝代に、社号を『感神院』と正し??
1868(M元)、再び、明系マッカツらが天皇を人質にしたときに
『八坂神社』と改名しなおし、現在にいたる・・??・・??
平安初期貞観年(859~76)、
マッカツらが生物兵器を散布させ??・・??
疫病が流行らせ
明系の海賊の拠点となっていた???播磨国から
朝鮮系のカルトの牛頭ゴズを
天王として
持ってきて鎮疫祭を行い
同時に、生物兵器を散布するのをやめ、
薬を鴨川の水に混ぜて飲ませたり沐浴させ??・・??
カルトのシンボルの牛の頭を神格化させ・・??・・??
祇園八坂神社にその神霊を移したというので
元祇園社とも言われる・・
祇園といえば・・・
明系マッカツの紀元前から戦略に使ってきたお得意の
時々の政財界有力者を招いて
遊女と酒でよいつぶしたり
ある意味?密室状態で??
何をしても疑われない環境の中・・・・??
その祇園の祇の意味・・は
そもそもが祭事にかかわるもの・・
八坂神社脇に祇園があることもおもしろい・・??・・??
なお・・竹内栖鳳(1864~1942)が東の横山大観(幕末の京都所司代になった会津藩の家老の一族??)に対抗し??・・・??
円山公園で住んで絵を描いたが・・・
1922一益の孫?滝川幸辰が独留学したとき栖鳳は58才・・あぶらがのってること・・
彼の大切にしていた?木製の二頭の鹿があったけれど
その角はキリギリス?のひげのように美しいラインをもっていて
とても優しい鹿・・・
本当は家の中で飾られていた??のを
渡辺組長下になって
山口系ヤクザが経済を牛耳ってから
庭に放置され無残な姿になってしまい
これも・・
日本の文化の原点である神道の大自然への繊細な思いが無残につぶされていってる・・??・??
兎も角・・・
何を言いたいかというと・・・
比叡山は
天台宗の山ではなく
日吉ヒエ神社として神道の山だった歴史文化を見失ってはいけないということ・・??
秀吉は北の政所を
一益と心通じ、
道頓の一族でもある浅井重維が
信長のもとで武士として参入させ
紹鴎こと津田宗達や番頭で娘婿の津田宗達が教えた侘び寂の心をしっかりと!
継承していた秀吉であったのが
忍者で明系工策員今井宗及が
江戸期には茶y四郎次郎代々として
裏千家から実権、軍事武器物流、経済、人事を掌握して
家康ですら
困った相手・・
その今井氏が
秀吉を
侘び寂とは正反対の
色情狂でなりあがり者で金勢力のシンボルとして
改ざんしていった・・・
(そもそも・・大奥制度を作ったのが
初代茶屋四郎次郎と光秀の親戚のお福)
それが一益と津田宗達がサポートした神道の継承者である信長で
真性カトリック勢力として実は栄←英国から??
ポルトガルのカトリックも
蘭系似非カトリックに対抗し
支援をしてもらい、
足利義輝将軍が
明系の北条氏に暗殺されてから
紹鴎に扮していた宗達が
義栄なる将軍人物に扮し?つくり??
信長に義昭を奉じさせ京都入りさせる・・??・・??
(天正10)6月、細川忠興の義父・光秀が
本能寺の変を起こし
信長暗殺するのに
誘われるが、
光秀の騙し討ちの誘いを拒否し、
妻・玉子(光秀の妹)を
丹後の味土野(現、京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉
(幽閉屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現存
義理の父・光秀を
謀反により見捨て、
光秀を滅亡させることになる
このとき、忠興は父の藤孝から
領国を譲られて
丹後宮津城主となった。
細川忠興(実はカトリック?)、
義父・明智光秀が本能寺の変を起こしたときも
正室のガラシャを離縁せず、
幽閉し
累の及ぶのを避けている
仏教伝来とともに入って
高僧らの勧めで?戦国大名に
一気に流行した衆道(同性愛)を好まず、
家中の者にも許さなかった←カトリック?
植木職人などに扮し?
工作員が侵入し
手討ち?
ガラシャとの3男2女のうち
後を継いだ忠利は、三男で
これが細川護煕元首相へ続く(注:熊本藩細川家Ⅷ藩主斉茲・・・
忠利の異母弟立孝系統・支藩宇土藩からの養子、
忠利の男系直系の子孫でなく、
以後の熊本藩主や細川護煕は
斉茲の男系の子孫である)
天正10(1582)10月、織田信長の大徳寺での葬儀の際、
秉炬(ヒンコ=葬儀の導師で、荼毘に付す役)焼香の役目だった笑嶺宗訢は、
衣装の間に短刀を隠し
信長の敵として?
秀吉とともに織田家の継子を
葬儀の席で
刺殺しようとしていたのを
弟子の蒲庵古渓が
強いて退席させ代わりに秉炬焼香の役を勤めた
天正11(1583):笑嶺宗訢(79)、
祖心本光禅師の号を賜り、死去
1584:イスパニア商船、平戸に来航
細川忠興(21)、織田信長、明智光秀の死後は
羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え
小牧・長久手の戦いに参加
天正13(1585)、羽柴秀吉、関白就任御礼の禁中茶会:
宗易、
町人の身分では参内できないというので
建前上?
正親町帝から
“利休”という居士号を与えられ
親王以下には利休が茶をたてている
細川忠興(22)、従四位下、侍従に叙任し、
秀吉から羽柴姓を与えられた
天正14、本当は
天王寺屋の津田宗及に扮した利休の
侘び寂び茶に師事した羽柴秀吉を
今井宗久が
宗及の妻(津田宗達(実は武野紹鷗に扮し
1566、今井宗“久”の手下の松永“久”秀が将軍暗殺後、
津田宗達(62)は死んだことにして??
義輝の弟の次期将軍の義昭に就任させるまでの足利義“栄”に扮していた)の娘、
那須の茶入を託されていた)から
那須の茶入(武器弾薬の流通を動かす指示をするときに
一種の暗号として??
紹鷗棚とともに
茶席に出した??・・??)を奪い、
津田宗及を脅迫して知りたいことをすべて白状させて自分がすっかり津田利休になりすましていき・・??
天正14年11/7(1586年12/17)、正親町帝オウギ(69、サポート者の安芸の国の信長方の毛利元就が
明系北条氏康説得していたのを
両者とも
明系今井宗久系伊達政宗系に毒殺病死?以降、極貧窮地に立たされている)を退任させ
明系後陽成帝を即位させ
羽柴秀吉に
豊臣の姓を賜わらせ
太政大臣にさせ
侘び寂びの秀吉、
西日本統一の祝いということで
北野大茶会:
秀吉を太政大臣として、
天正19、今井宗久(64)、
津田宗及(71)の影武者?or仮の姿である利休に成りすまし
裏千家の流祖となり
津田宗及を
自分の祖父方の姓の千阿弥の姓を冠させ
表千家として流祖・千利休宗易(つまり、表の利休こそが
一益エキの意を託され禁中茶会を仕切って
帝から利休(離宮?朝廷の意を伝える別邸の意??)の名を賜った本者の利休で
千利休宗易(71)として表千家の流祖とさせる )となりすまし、
僧・円如が播磨国広峰より
牛頭天王を勧請し
下河原の地に一宇を建て
朱雀天皇の承平4年(934年)、
祇園天神社と自称し
その傍らに薬師堂を創建し
観慶寺と言い
別称として祇園寺の名称も使ったため
ここから混同がおこる
その後、八坂氏が哀徴し
中世には感神院は
中国大陸系僧兵らの延暦寺の別院にされ
祇園社(現、梛(なぎ)神社)
は
日吉の末社えおかれてしまう・・
その結果!
叡山の僧徒が
日吉の神輿を奉じ
朝廷へ強訴する基地につかわれることとなる
八坂神社は・・
古来、疫病除けの神として
朝野の崇敬が篤く
祇園祭
もともとは
大祓い(6月晦日)の前の
6/7~14日まで祇園祭をしていた
延喜の式外社・・22社に列せられる
神領・・・60余ヶ所の多きに及ぶ
明治期、明系工策員の鹿島則文が就任し
伊勢神宮自体が明系の勢力の拠点にされてしまう・・
神仏分離により
寺院を廃し
神社のみが残った旧官幣大社。
1865(慶応2)9/1:谷三十郎(新撰組七番隊々長)が
八坂神社の祇園石段下で暗殺され、
屯所に連絡があり
篠原泰之進が遺体を検視し
致命傷から
左利きによるもので
明系?土方の蜜命を帯びた斉藤一が
犯人と断定した・・??
(大田知事出馬時には茨木高校同窓会が支援していた・・のに
名古屋の私学卒だという・・??
大田知事の旧姓は斉藤氏というそうですが・・??・・??
ヘン??・・・??
大田知事のご主人の職業が全く!明かされてないという不思議・・??
フツー、公人の場合は夫婦の職業など明らかにされてきたのに
不自然・・??・・??)
為替、
国内で1000円をもっていて
それでお肉200g買えても
そのお肉が外国から来ていて
為替が
円安になると
1000円持っていても
10円のものしか買うことが出来なくなるというシステムが
資本主義化によるグローバル経済ではないだろうか・・??・・??
ヘン??
昨日、二日ぶりに(岡本さんが来ることになってる火曜日、
ミユキさんのメッセンジャーとして
ミユキさんへ母から電話をするようにと彼女の連れ子の谷崎氏が来たとき
私がいつも置いてる駐車場には山口系の人が車の中でエンジンをふかして
あれ??っと思って病院へ向かった・・
その日から母には日本の文化で育ったとは思えない若い看護婦さんが
夜勤を担当し、呼びもしないのに
ともかく、母にかかわろうと詰め所で待機・・
その日は母がいつも気持ちよく気使いしてくださってる方も
夜勤でしたが・・
主治医通じ、母に弟のお嫁さんを呼ぶように連絡があり
木曜、主治医に呼び出されたという形で
弟のお嫁さんがきて
母の前で
主治医と婦長は
帰宅後の看護の主役として
お嫁さんに介護指導したいとの要請があり
それをうつむいてうなだれて母は聞いていて
そのあと、私に来ないようにといったので
二日間、行かなかったけれど
うっかり、携帯を忘れていたので
とりに行くと
『どうしてたの?』と聞く・・
水曜には
別の療法士さんがリハビリしてくださったので
左足が前に動き始めていて
靴下なら靴の滑り止めがないので前に出る・・
大喜びで
翌日から、左だけは靴下のままで自分で車椅子の練習を朝からするといっていた・・
でも・・
昨日行くと・・
左足は動かないといって
年賀状をかくのに1センチくらいの束を
左手が使えないのに
一枚ずつ、書こうとせずに
束ねたままで書こうとし、
横へなだれると
字も斜めになっているのに
気づかなくなっている・・!?
でも、
応答パターンは定型パターンではまともで
初めてわたしは
主治医が病室回診しにきたところに遭遇したが・・
(おそらく・・??洗脳が完成し、自分が醜態、失態をさらけ出すリスクがなくなった??
もう一件、囲碁好きの方がやはり個室でいらっしゃるが
彼にも同じような
攻撃的な反応をしだすような言語療法がされてるのではないだろうか??・・???
また、昨日、東館で何人かが
キャッシュカード、現金など盗難があったそうですが
そのことも
伏されてる・・??
かつて、長女の出産で府立病院似たとき、
よその病棟で白いズボンをはいた水色のシャツを着た人が
盗難したのでないかと患者さんたちがいうので
すぐに、看護婦さんから
注意してくださいとの連絡があって
ちょうど夜、
当時、阪大一外で
勤務中のズボンのままお見舞いに来た主人が同じような服装だったので
大笑いしたことがある
つまり・・
病院内で事件があったときには
すみやかに、周知させるのがジョーシキ??・・??
ヘン??・・??)
古代朝廷の国家行事として
半期の晦日に
文武百官男女を祓所(そのひとつが八坂神社??の起源??)にあつまり
知らず知らずに犯していた罪や穢れを祓い、
人形の和紙に穢れを移して
加茂川の水に流して
心機一転を誓い
納涼を兼ね神様に捧げたものを食すしきたり?習慣が
応仁の乱以降、廃止され
それが民間の中で継承され
当初は日が決められておらず
加茂川などの納涼をかねて涼む(涼やかなまなざしVS濁った目つき、清涼・・)行事の
「水無月祓」『名越の祓』『夏祓』として伝承されていく
和泉式部『思うこと皆突きね(6月を水無月、『皆、月』にかけてる)とて
麻の葉をきりに切りても祓えつるかな』
『6月のつごもりに、
・・・三の皇子、中納言を給いて御祓えし、涼みたもう』
明系マッカツらが藤原家平家?公家貴族を
ペットとした??平安時代、
釣りどこ(床)を出した舟遊びとして
飲食した遊びに日本の神道文化史を改ざんしていく・・
ストイックな源氏イメージの改ざんのために??
光源氏を描く??
そして・・・・
古代から祓所とされていた現、八坂神社は
まずは、素戔鳴尊系の
橿原神宮系神武帝系勢力(樫の木を伐採して青銅器精製技術の武器をもっていた??)が
朝鮮渡来のカルトの牛頭山に祀るスサノオノミコト)の神霊を移してきて
八坂氏の氏神として創祀したのを
天智帝代に、社号を『感神院』と正し??
1868(M元)、再び、明系マッカツらが天皇を人質にしたときに
『八坂神社』と改名しなおし、現在にいたる・・??・・??
平安初期貞観年(859~76)、
マッカツらが生物兵器を散布させ??・・??
疫病が流行らせ
明系の海賊の拠点となっていた???播磨国から
朝鮮系のカルトの牛頭ゴズを
天王として
持ってきて鎮疫祭を行い
同時に、生物兵器を散布するのをやめ、
薬を鴨川の水に混ぜて飲ませたり沐浴させ??・・??
カルトのシンボルの牛の頭を神格化させ・・??・・??
祇園八坂神社にその神霊を移したというので
元祇園社とも言われる・・
祇園といえば・・・
明系マッカツの紀元前から戦略に使ってきたお得意の
時々の政財界有力者を招いて
遊女と酒でよいつぶしたり
ある意味?密室状態で??
何をしても疑われない環境の中・・・・??
その祇園の祇の意味・・は
そもそもが祭事にかかわるもの・・
八坂神社脇に祇園があることもおもしろい・・??・・??
なお・・竹内栖鳳(1864~1942)が東の横山大観(幕末の京都所司代になった会津藩の家老の一族??)に対抗し??・・・??
円山公園で住んで絵を描いたが・・・
1922一益の孫?滝川幸辰が独留学したとき栖鳳は58才・・あぶらがのってること・・
彼の大切にしていた?木製の二頭の鹿があったけれど
その角はキリギリス?のひげのように美しいラインをもっていて
とても優しい鹿・・・
本当は家の中で飾られていた??のを
渡辺組長下になって
山口系ヤクザが経済を牛耳ってから
庭に放置され無残な姿になってしまい
これも・・
日本の文化の原点である神道の大自然への繊細な思いが無残につぶされていってる・・??・??
兎も角・・・
何を言いたいかというと・・・
比叡山は
天台宗の山ではなく
日吉ヒエ神社として神道の山だった歴史文化を見失ってはいけないということ・・??
秀吉は北の政所を
一益と心通じ、
道頓の一族でもある浅井重維が
信長のもとで武士として参入させ
紹鴎こと津田宗達や番頭で娘婿の津田宗達が教えた侘び寂の心をしっかりと!
継承していた秀吉であったのが
忍者で明系工策員今井宗及が
江戸期には茶y四郎次郎代々として
裏千家から実権、軍事武器物流、経済、人事を掌握して
家康ですら
困った相手・・
その今井氏が
秀吉を
侘び寂とは正反対の
色情狂でなりあがり者で金勢力のシンボルとして
改ざんしていった・・・
(そもそも・・大奥制度を作ったのが
初代茶屋四郎次郎と光秀の親戚のお福)
それが一益と津田宗達がサポートした神道の継承者である信長で
真性カトリック勢力として実は栄←英国から??
ポルトガルのカトリックも
蘭系似非カトリックに対抗し
支援をしてもらい、
足利義輝将軍が
明系の北条氏に暗殺されてから
紹鴎に扮していた宗達が
義栄なる将軍人物に扮し?つくり??
信長に義昭を奉じさせ京都入りさせる・・??・・??
(天正10)6月、細川忠興の義父・光秀が
本能寺の変を起こし
信長暗殺するのに
誘われるが、
光秀の騙し討ちの誘いを拒否し、
妻・玉子(光秀の妹)を
丹後の味土野(現、京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉
(幽閉屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現存
義理の父・光秀を
謀反により見捨て、
光秀を滅亡させることになる
このとき、忠興は父の藤孝から
領国を譲られて
丹後宮津城主となった。
細川忠興(実はカトリック?)、
義父・明智光秀が本能寺の変を起こしたときも
正室のガラシャを離縁せず、
幽閉し
累の及ぶのを避けている
仏教伝来とともに入って
高僧らの勧めで?戦国大名に
一気に流行した衆道(同性愛)を好まず、
家中の者にも許さなかった←カトリック?
植木職人などに扮し?
工作員が侵入し
手討ち?
ガラシャとの3男2女のうち
後を継いだ忠利は、三男で
これが細川護煕元首相へ続く(注:熊本藩細川家Ⅷ藩主斉茲・・・
忠利の異母弟立孝系統・支藩宇土藩からの養子、
忠利の男系直系の子孫でなく、
以後の熊本藩主や細川護煕は
斉茲の男系の子孫である)
天正10(1582)10月、織田信長の大徳寺での葬儀の際、
秉炬(ヒンコ=葬儀の導師で、荼毘に付す役)焼香の役目だった笑嶺宗訢は、
衣装の間に短刀を隠し
信長の敵として?
秀吉とともに織田家の継子を
葬儀の席で
刺殺しようとしていたのを
弟子の蒲庵古渓が
強いて退席させ代わりに秉炬焼香の役を勤めた
天正11(1583):笑嶺宗訢(79)、
祖心本光禅師の号を賜り、死去
1584:イスパニア商船、平戸に来航
細川忠興(21)、織田信長、明智光秀の死後は
羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え
小牧・長久手の戦いに参加
天正13(1585)、羽柴秀吉、関白就任御礼の禁中茶会:
宗易、
町人の身分では参内できないというので
建前上?
正親町帝から
“利休”という居士号を与えられ
親王以下には利休が茶をたてている
細川忠興(22)、従四位下、侍従に叙任し、
秀吉から羽柴姓を与えられた
天正14、本当は
天王寺屋の津田宗及に扮した利休の
侘び寂び茶に師事した羽柴秀吉を
今井宗久が
宗及の妻(津田宗達(実は武野紹鷗に扮し
1566、今井宗“久”の手下の松永“久”秀が将軍暗殺後、
津田宗達(62)は死んだことにして??
義輝の弟の次期将軍の義昭に就任させるまでの足利義“栄”に扮していた)の娘、
那須の茶入を託されていた)から
那須の茶入(武器弾薬の流通を動かす指示をするときに
一種の暗号として??
紹鷗棚とともに
茶席に出した??・・??)を奪い、
津田宗及を脅迫して知りたいことをすべて白状させて自分がすっかり津田利休になりすましていき・・??
天正14年11/7(1586年12/17)、正親町帝オウギ(69、サポート者の安芸の国の信長方の毛利元就が
明系北条氏康説得していたのを
両者とも
明系今井宗久系伊達政宗系に毒殺病死?以降、極貧窮地に立たされている)を退任させ
明系後陽成帝を即位させ
羽柴秀吉に
豊臣の姓を賜わらせ
太政大臣にさせ
侘び寂びの秀吉、
西日本統一の祝いということで
北野大茶会:
秀吉を太政大臣として、
天正19、今井宗久(64)、
津田宗及(71)の影武者?or仮の姿である利休に成りすまし
裏千家の流祖となり
津田宗及を
自分の祖父方の姓の千阿弥の姓を冠させ
表千家として流祖・千利休宗易(つまり、表の利休こそが
一益エキの意を託され禁中茶会を仕切って
帝から利休(離宮?朝廷の意を伝える別邸の意??)の名を賜った本者の利休で
千利休宗易(71)として表千家の流祖とさせる )となりすまし、
僧・円如が播磨国広峰より
牛頭天王を勧請し
下河原の地に一宇を建て
朱雀天皇の承平4年(934年)、
祇園天神社と自称し
その傍らに薬師堂を創建し
観慶寺と言い
別称として祇園寺の名称も使ったため
ここから混同がおこる
その後、八坂氏が哀徴し
中世には感神院は
中国大陸系僧兵らの延暦寺の別院にされ
祇園社(現、梛(なぎ)神社)
は
日吉の末社えおかれてしまう・・
その結果!
叡山の僧徒が
日吉の神輿を奉じ
朝廷へ強訴する基地につかわれることとなる
八坂神社は・・
古来、疫病除けの神として
朝野の崇敬が篤く
祇園祭
もともとは
大祓い(6月晦日)の前の
6/7~14日まで祇園祭をしていた
延喜の式外社・・22社に列せられる
神領・・・60余ヶ所の多きに及ぶ
明治期、明系工策員の鹿島則文が就任し
伊勢神宮自体が明系の勢力の拠点にされてしまう・・
神仏分離により
寺院を廃し
神社のみが残った旧官幣大社。
1865(慶応2)9/1:谷三十郎(新撰組七番隊々長)が
八坂神社の祇園石段下で暗殺され、
屯所に連絡があり
篠原泰之進が遺体を検視し
致命傷から
左利きによるもので
明系?土方の蜜命を帯びた斉藤一が
犯人と断定した・・??
(大田知事出馬時には茨木高校同窓会が支援していた・・のに
名古屋の私学卒だという・・??
大田知事の旧姓は斉藤氏というそうですが・・??・・??
ヘン??・・・??
大田知事のご主人の職業が全く!明かされてないという不思議・・??
フツー、公人の場合は夫婦の職業など明らかにされてきたのに
不自然・・??・・??)
為替、