1980年夏。
同じ中学に通っていた同級生MとYと私とで、「遠くに行こう」という話になりました。私たちの家は兵庫県西宮市。旅の行き先は「青森」。
関西に住む中学2年生。青森県に用事なんてあるはずがありません。でも青森。帰りに東京に寄って、合計4泊5日のプラン。
なぜ青森か。
それは、当時、大阪を夜に出て翌日昼に青森に着く急行「きたぐに」という列車があったから。
最初に私が、鉄道雑誌で「きたぐに」のルポを読んだのが始まりだったと思います。
で、「こんな急行列車がある。乗ってみたいなあ」とつぶやいた。それを聞きつけたM(クラスのリーダー格)が「それは面白い」と乗り気になり、それなら、小学校の頃から鉄道で一人旅をしていた(旅慣れていた)Yも呼ぼう、と、そんな流れだったと思います。
この計画、まずMの母親の知るところとなり、学校に「通報」されてしまいました。Yと私の母親も学校に呼び出されて、担任からもダメ出し。
しかし、私たちは折れませんでした。どうしても行きたい。危険なところには立ち寄らない。きちんとしたスケジュール表を事前に提出する。自分たちの貯金の範囲内で旅行をする・・・あらゆる条件を提示し、とにかく粘って、最終的に担任の先生からは、次の言葉を勝ち取りました。
「ええか?許可はしとらんのやで。ただ、何も言わんだけやからな。約束は守れ」。
しかし今度は親との交渉が難航。
結局、「日程を短縮するなら許す、2泊3日まで」というところまで譲歩せざるを得ませんでした。
で、青森は没。何しろ行くだけで2日かかります。(飛行機を使うという発想はなかったし、当時、東北新幹線は未開業でした。)
それから行き先は二転三転。でも最終的に決まったのが「四国」でした。
「四国島内を走る夜行列車があるので、それで宿代を浮かせられる」という狙いもありましたが、自分たちの住んでいる本州と海を隔てて離れている場所ということにも、何か憧れのような輝きを感じました。
1980年8月23日。
まず山陽本線を西へ。旅費節約のため、新幹線は使いません。普通列車の旅です。
とはいっても、まだ「青春18切符」が発売されていない時代でした。
当時は「周遊券」という割引切符があって、「松山・高知ミニ周遊券」を使いました。
【参考写真】当時の周遊券(本物)
![[f:id:iijiman:20100819195316j:image:w450] [f:id:iijiman:20100819195316j:image:w450]](http://f.hatena.ne.jp/images/fotolife/i/iijiman/20100819/20100819195316.jpg)
姫路から先は、私たちにとって未知の世界。
当時、山陽本線の普通列車に冷房なんてついていませんでした。
2段式の窓を全開にして(半分だけ開けられるのは知っていても、全開に出来るのを知っている人は意外に少なかった)、窓から少しだけ顔を出すMとY。
晩夏の風、時速100キロで吹き込む。それは通路側の席に座っていた私にも心地よさをもたらしました。
私たちは今、まだ行ったことのない土地に足を踏み入れ、見たことのない風景を見ている。
さて、岡山まで行って山陽本線から宇野線に乗り換え、宇野線の終点宇野から四国に向かいます。今なら岡山から高松まで、瀬戸大橋線の快速1本で四国に渡れます。でも当時は違います。瀬戸大橋はまだ基礎工事さえ始まっていませんでした。
本州と四国の間には国鉄の運営する「宇高連絡船」という船便があって、岡山県(本州側)の宇野という駅(港)から、香川県(四国側)の高松という駅まで、大きな船が往来していました。
岡山から宇野まで快速電車に乗り、宇野駅(港)から連絡船に乗ります。
宇野駅のブリッジを渡り、船に乗る。Mが言います。「一番前に行こう!」。そこは「四国に最も近い場所」。潮風の香る屋外のデッキ。目の前には瀬戸内の多島海が広がっていました。デッキの片隅に「讃岐うどん」のスタンドがあり、出汁の香りを漂わせていました。
ここで私たちは、1つ早とちりをしていました。
出航時刻になると、船は岸壁を少し離れたところで、くるくると回転を始めたのです。私たちが最前部だと思っていた場所は、実は最後部で、今降りたばかりの宇野駅が目の前にやってきました。
そして、それから船は四国を目指します。
宇野駅がだんだん小さくなる。本州が小さくなる。私たちの立っていた土地が、海を隔てて小さくなる。
高松に着いて私たちが最初にしたことは「讃岐うどんを食べる」ことでした。
国鉄高松駅の立ち食いうどんのスタンドへ。うまい。うますぎる。「ゴムのようだ」。Yが評します。讃岐うどんほど腰の強いうどんを食べたことは、私たちはなかったのです。
高松駅を出ると、すぐ近くに「玉藻公園」がありました。そこは高松城の跡で、お堀や庭園が残っているのですが、入園料が「10円」でした。(今はいくらだろう?)
10円というのは当時の中学生にとっても「お買い得感満点」。入園料を払って私たちは日本庭園を歩き(中学2年生にしては渋い趣味だ)、それから、次の列車の時間まで、お堀端の芝生に腰を下ろして時間を潰していました。今考えると、高松の町を歩いても面白かったのかもしれませんが、当時は「危なそうな場所には近づかない」という、親や先生との約束がありましたから、知らない町をむやみにうろうろする訳には行かなかったのです。
時間が来て高松駅に戻り、私たちは、予讃本線の列車に乗り込みました。
当時、四国の国鉄は全て非電化。電車がない。蒸気機関車は残っていませんでしたが、ディーゼルエンジンで走るディーゼルカーやディーゼル機関車の天下でした。
乗った車輛はキハ47。おそらくその年に作られた最新鋭。車体も車内もピカピカでした。
私たちは列車に乗り込むと、またも2段式の窓を全開にしました。ここにも冷房はありません。山陽本線の電車と違い、床下から、力強いエンジンの鼓動が伝わります。窓から吹き込む四国の風。少し香ばしい。ほのかにエンジンからの排気が混じっていました。讃岐平野には、まるで下から拳で突き上げたような、ぽっこりとした山がいくつもありました。
多度津という駅でしばらく停車した後、列車は2つに分割され、一方は松山行き、一方は高知方面行きになりました。私たちは高知行きに乗りました。多度津から土讃本線に入る列車です。
土讃本線も、琴平(「こんぴらさん」で有名な琴平)あたりまでは沿線も平野で、列車は快調に飛ばしていました。琴平を過ぎると少しずつ山が近づいてきました。
地図を見ると分かりますが、土讃本線というのは、四国山地を縦断して、瀬戸内側と太平洋側を結んでいます。
列車の歩みは次第に遅くなりました。上り勾配です。トンネルに入ると冷やりとした風が、開け放った窓から遠慮なしに吹き付けました。風にはエンジンからの煤煙(すす)が混じって、なんだか凄いことになってきました。窓際に座っていたMとYが、トンネルに入る度に、日よけのブラインドを下げます。ブラインドに点々と煤の黒い粒が付いていきました。どうやら私は、そのブラインドの隙間から入り込んだ煤煙を、1粒ほど吸い込んだようです。喉が痛い。うがいをしようと思ったのですが、水も飲み物持っていません。そうだ、列車にはトイレがあるではないか。隣の車輛にあったトイレの手洗い用の水でうがいをしてみましたが、今考えるとそれがかえってマズかったかもしれません。喉の痛みはかえって強くなりました。
「食塩水でうがいが出来るといいんだけれどなあ」と私が言うと、
「塩入の切符やろうか?」Yが言います。「あるの?塩」
Yが見せたのは、途中の停車駅「塩入駅」で買った切符。むかつく私。
阿波池田という駅に着いて「これがあの(甲子園で有名な)池田高校の池田かあ」など3人で感心しました。高い山に囲まれているけれど、意外に大きな町でした。
阿波池田を出ると、やがて線路は、吉野川が刻んだ景勝「大歩危小歩危」に沿うようになります。
MとYは絶好調に機嫌がよく、カメラを持つ仕草をしては「シャッターチャンスは今だ!」「いや、今だ!」などと叫んでいました。今(の中学生)なら、携帯電話のカメラで写真を撮っていたかもしれません。しかし、1980年当時にそのようなものはなく、ただ、流れて行く景色を見送るばかりでした。私はと言えば、喉が痛くて絶不調です。
「喉が痛い時には炭酸水でうがいをするとよい」とY。
「それで治る?」
「いや、単に気持ちいいだけだけ。やらないよりまし」。
しかし、普通列車の車内に炭酸水の自動販売機はなく、列車はますます山深いところへと入って行きます。
やがて列車は、土讃本線の「新改(しんがい)」という駅に着きました。
私たちはそこで列車を降りました。
なぜか。ここが高松(のうどん)に続く、1日目の重要な観光ポイントだったからです。
といっても、観光施設がある訳ではありません。
新改駅は急な勾配の途中にあるため、スイッチバックという特殊な配線になっています。
そのスイッチバックを見てみたい、というのが、ここで降りた理由でした。Yの予備知識に基づく計画でした。
【参考資料・スイッチバック・Wikipedia】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%8...
新改駅に着いたのは、夕方の、まだ少し明るい頃でした。
列車はまず、本線から分岐した引き込み線に入ります。そして、おもむろにバックして、もう1本の、ホームのある引き込み線に入ります。これがスイッチバックです。そしてそのホームに着いたら、車掌はドアを開きます。
駅前には1件の雑貨屋がありました。雑貨屋は列車が出るとすぐに店を仕舞ってしまいました。
【参考資料・GoogleMap新改駅】
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=%E...
【参考資料・wikipedia新改駅】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%94%B9%E9%A7%85
(2010年現在、雑貨屋は閉店しているようです。)
とりあえず私たちは、線路沿い歩いていき、スイッチバックの分岐点を見物に行きました。山懐深いその場所で、銀色に輝くレールが複雑な幾何学模様を描いていました。なるほどこれがスイッチバックか、と。
で、それからどうするか。
何もすることがありません。
次の列車まで2時間近くありました。
夕闇はますます迫り、ついにあたりは真っ暗になってしまいました。
私たちは新改駅に戻りました。
昔は駅員が居たらしく、切符売り場の跡のようなものがありましたが、板で塞がれていました。
待合室には木のベンチがあり、心細い光を落とす蛍光灯には、自分たちの街では見たこともないような巨大な蛾が、バタバタと音を立てて集まっていました。
私はというと、とうとう熱を出してしまいました。
「お前はそこ(ベンチ)で横になって寝とれ」Mの指示に従って私はベンチに横たわりました。
MとYはとりとめもない話を続けていましたが、やがてクラスの女の子の話になりました。
「・・・で、うちのクラスのH子やけど、あいつほんとは性格悪くて、友達だったS子がまだ生理になってないこと知って『Sちゃん遅れてるぅ』とか言いよんねん」
「人は見た目では分からんちゅうやっちゃな」
その話にだけは参加したいと思って体を起こすと「お前はとにかく寝とれ」と、Mに諭されました。
どれくらい時間が経ったでしょう。いや、どれくらいも何も、時刻表によれば私たちはたった2時間しか新改駅に居なかったのですが、もっと長い時間、そこに居たような気がしました。
やがて山奥から線路を刻む音が聴こえてきました。乗り継ぎの高知行き普通列車です。
その列車も、私たちが乗って来た列車と同じく、一旦引き込み線に入って、バックでホームに入って来た訳ですが・・・先頭は旧型客車。一番後ろ(発車すると先頭になる)は機関車のDF50。朱色の車体と大きなエンジン音が、私たちを「闇の底から救い上げに来てくれた」ように心強い。
【参考写真】DF50高松運転所仕様(模型)
![[f:id:iijiman:20100514144053j:image:w450] [f:id:iijiman:20100514144053j:image:w450]](http://f.hatena.ne.jp/images/fotolife/i/iijiman/20100514/20100514144053.jpg)
機関車の次に連結されていたのも、旧型客車。オハ61系。
旧型客車、とか、オハ61系とかいっても、分からない人も多いと思いますが、一言で言うと、大井川鉄道の蒸気機関車の後ろにつながっているようなクラシックな車輛です。オハ61系というのは、ある意味で、その中でも、ひときわ渋い車輛です。(ちなみに大井川鉄道では所有していない)
【参考資料・Wikipedia・国鉄60系客車オハ61系
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%8460%E7%B3%BB%E5%AE...
旧型客車といっても色々ありまして、蛍光灯を装備して明るい内装に改装された車輛もあれば、照明は薄暗い白熱電球、車内の壁は木目にニス塗りという車輛もあります。
新改駅にやって来たのは、実に、後者でした。天井では白熱電球がオレンジ色のフィラメントから弱々しい光を投げかけています。壁は天然木。今思うと、ある意味ではデラックスな仕様でしょうか?でも当時は単なる「ボロ」にしか見えませんでした。
しかもオハ61系というのは、座席の背もたれも板張り、木目にニス塗り。背もたれにクッションがありません。
壁といい座席といい、そこは木目に支配された世界。白熱電球にぼんやりと照らし出された木目が、おどろおどろしい何かを連想させます。乗客はゼロ。
「幽霊列車や!」Mが叫びました。
幽霊列車は私たちを乗せると、音もなく走り始めました。エンジンが機関車に集約されているため、旧型客車は時に、驚くほど静かに走り出すことがあります。(機関士の腕前にもよる。)
私たちは、あまりにも恐ろしい1両目を走り抜け、2両目に移動しました。またしてもオハ61系。1両目と全く同じ光景が目に飛び込んできます。乗客は2~3人くらいは居たでしょうか。3両目、4両目、5両目。全てオハ61系、お客さん数人、幽霊列車。
6両目の終わりで私たちは急停止しました。一番後ろの車輛は、ドアがなく、ぷっつり通路が途切れ、足元から銀色の線路が流れ出して伸びていました。実際、当時の国鉄ではこの旧型客車の最後部からの転落事故というのが、稀ながら起きていました。
【参考写真】オハ61系オハフ61形式(編成の最後尾に連結されることが多い。列車の最後尾はこんな感じ。)
![[f:id:iijiman:20100819234236j:image:w450] [f:id:iijiman:20100819234236j:image:w450]](http://f.hatena.ne.jp/images/fotolife/i/iijiman/20100819/20100819234236.jpg)
私たちは車内に戻り、覚悟を決めて幽霊列車に揺られることにしました。
まあ、慣れてしまえばこれはこれで面白いなという気持ちになってきました。
とにかく空いていましたから、1人1ボックス。
「お前は寝とれ」。またもMの指示で私は座席に横になりました。
~~~
「で、そこでヒヨワのiijiman君がいよいよ熱を出して・・・」
「ヒヨワちゃうわい」
(笑)
「僕たちは急遽、高知で宿に泊まることにしました」
「駅前の観光案内所というところで紹介してもらったのは、ユースホステルというところで、泊まるには身分証明が必要だと言われました」
(しずまる)
「そこで、僕(←M)だけが生徒手帳を持っていたので、僕たちは無事にそこに泊まることが出来ました。1500円くらいでした」
「ところがそこは、行ってみると、大学生みたいな人が沢山居て、凄く怖くて」
(笑)
「僕たちは部屋から一歩も出られませんでした」
2学期。夏休み明け最初のホームルーム。
「この夏休みの思い出を1人1つずつ発表しなさい」という時間がありました。
私もMも、四国旅行の話をしました。(Yは違うクラスだった)
担任の先生は、少しハラハラしながら聞いていたようでしたが、最後ににっこりと笑ってくれました。
私たちの旅は、その後、高知から松山までツーマンバス(運転手だけでなく車掌さんのいるバス)に乗って車掌さんの話を聞いたり、松山城に登ってMが俳句を投稿してみたり、まあいろいろあった訳ですが、長くなるので略します。
中2の夏の、初めての友達同士だけの旅。
一番印象に残ったのは、やっぱり、あの「新改駅と幽霊列車」です。
1980年夏。
同じ中学に通っていた同級生MとYと私とで、「遠くに行こう」という話になりました。私たちの家は兵庫県西宮市。旅の行き先は「青森」。
関西に住む中学2年生。青森県に用事なんてあるはずがありません。でも青森。帰りに東京に寄って、合計4泊5日のプラン。
なぜ青森か。
それは、当時、大阪を夜に出て翌日昼に青森に着く急行「きたぐに」という列車があったから。
最初に私が、鉄道雑誌で「きたぐに」のルポを読んだのが始まりだったと思います。
で、「こんな急行列車がある。乗ってみたいなあ」とつぶやいた。それを聞きつけたM(クラスのリーダー格)が「それは面白い」と乗り気になり、それなら、小学校の頃から鉄道で一人旅をしていた(旅慣れていた)Yも呼ぼう、と、そんな流れだったと思います。
この計画、まずMの母親の知るところとなり、学校に「通報」されてしまいました。Yと私の母親も学校に呼び出されて、担任からもダメ出し。
しかし、私たちは折れませんでした。どうしても行きたい。危険なところには立ち寄らない。きちんとしたスケジュール表を事前に提出する。自分たちの貯金の範囲内で旅行をする・・・あらゆる条件を提示し、とにかく粘って、最終的に担任の先生からは、次の言葉を勝ち取りました。
「ええか?許可はしとらんのやで。ただ、何も言わんだけやからな。約束は守れ」。
しかし今度は親との交渉が難航。
結局、「日程を短縮するなら許す、2泊3日まで」というところまで譲歩せざるを得ませんでした。
で、青森は没。何しろ行くだけで2日かかります。(飛行機を使うという発想はなかったし、当時、東北新幹線は未開業でした。)
それから行き先は二転三転。でも最終的に決まったのが「四国」でした。
「四国島内を走る夜行列車があるので、それで宿代を浮かせられる」という狙いもありましたが、自分たちの住んでいる本州と海を隔てて離れている場所ということにも、何か憧れのような輝きを感じました。
1980年8月23日。
まず山陽本線を西へ。旅費節約のため、新幹線は使いません。普通列車の旅です。
とはいっても、まだ「青春18切符」が発売されていない時代でした。
当時は「周遊券」という割引切符があって、「松山・高知ミニ周遊券」を使いました。
【参考写真】当時の周遊券(本物)
姫路から先は、私たちにとって未知の世界。
当時、山陽本線の普通列車に冷房なんてついていませんでした。
2段式の窓を全開にして(半分だけ開けられるのは知っていても、全開に出来るのを知っている人は意外に少なかった)、窓から少しだけ顔を出すMとY。
晩夏の風、時速100キロで吹き込む。それは通路側の席に座っていた私にも心地よさをもたらしました。
私たちは今、まだ行ったことのない土地に足を踏み入れ、見たことのない風景を見ている。
さて、岡山まで行って山陽本線から宇野線に乗り換え、宇野線の終点宇野から四国に向かいます。今なら岡山から高松まで、瀬戸大橋線の快速1本で四国に渡れます。でも当時は違います。瀬戸大橋はまだ基礎工事さえ始まっていませんでした。
本州と四国の間には国鉄の運営する「宇高連絡船」という船便があって、岡山県(本州側)の宇野という駅(港)から、香川県(四国側)の高松という駅まで、大きな船が往来していました。
岡山から宇野まで快速電車に乗り、宇野駅(港)から連絡船に乗ります。
宇野駅のブリッジを渡り、船に乗る。Mが言います。「一番前に行こう!」。そこは「四国に最も近い場所」。潮風の香る屋外のデッキ。目の前には瀬戸内の多島海が広がっていました。デッキの片隅に「讃岐うどん」のスタンドがあり、出汁の香りを漂わせていました。
ここで私たちは、1つ早とちりをしていました。
出航時刻になると、船は岸壁を少し離れたところで、くるくると回転を始めたのです。私たちが最前部だと思っていた場所は、実は最後部で、今降りたばかりの宇野駅が目の前にやってきました。
そして、それから船は四国を目指します。
宇野駅がだんだん小さくなる。本州が小さくなる。私たちの立っていた土地が、海を隔てて小さくなる。
高松に着いて私たちが最初にしたことは「讃岐うどんを食べる」ことでした。
国鉄高松駅の立ち食いうどんのスタンドへ。うまい。うますぎる。「ゴムのようだ」。Yが評します。讃岐うどんほど腰の強いうどんを食べたことは、私たちはなかったのです。
高松駅を出ると、すぐ近くに「玉藻公園」がありました。そこは高松城の跡で、お堀や庭園が残っているのですが、入園料が「10円」でした。(今はいくらだろう?)
10円というのは当時の中学生にとっても「お買い得感満点」。入園料を払って私たちは日本庭園を歩き(中学2年生にしては渋い趣味だ)、それから、次の列車の時間まで、お堀端の芝生に腰を下ろして時間を潰していました。今考えると、高松の町を歩いても面白かったのかもしれませんが、当時は「危なそうな場所には近づかない」という、親や先生との約束がありましたから、知らない町をむやみにうろうろする訳には行かなかったのです。
時間が来て高松駅に戻り、私たちは、予讃本線の列車に乗り込みました。
当時、四国の国鉄は全て非電化。電車がない。蒸気機関車は残っていませんでしたが、ディーゼルエンジンで走るディーゼルカーやディーゼル機関車の天下でした。
乗った車輛はキハ47。おそらくその年に作られた最新鋭。車体も車内もピカピカでした。
私たちは列車に乗り込むと、またも2段式の窓を全開にしました。ここにも冷房はありません。山陽本線の電車と違い、床下から、力強いエンジンの鼓動が伝わります。窓から吹き込む四国の風。少し香ばしい。ほのかにエンジンからの排気が混じっていました。讃岐平野には、まるで下から拳で突き上げたような、ぽっこりとした山がいくつもありました。
多度津という駅でしばらく停車した後、列車は2つに分割され、一方は松山行き、一方は高知方面行きになりました。私たちは高知行きに乗りました。多度津から土讃本線に入る列車です。
土讃本線も、琴平(「こんぴらさん」で有名な琴平)あたりまでは沿線も平野で、列車は快調に飛ばしていました。琴平を過ぎると少しずつ山が近づいてきました。
地図を見ると分かりますが、土讃本線というのは、四国山地を縦断して、瀬戸内側と太平洋側を結んでいます。
列車の歩みは次第に遅くなりました。上り勾配です。トンネルに入ると冷やりとした風が、開け放った窓から遠慮なしに吹き付けました。風にはエンジンからの煤煙(すす)が混じって、なんだか凄いことになってきました。窓際に座っていたMとYが、トンネルに入る度に、日よけのブラインドを下げます。ブラインドに点々と煤の黒い粒が付いていきました。どうやら私は、そのブラインドの隙間から入り込んだ煤煙を、1粒ほど吸い込んだようです。喉が痛い。うがいをしようと思ったのですが、水も飲み物持っていません。そうだ、列車にはトイレがあるではないか。隣の車輛にあったトイレの手洗い用の水でうがいをしてみましたが、今考えるとそれがかえってマズかったかもしれません。喉の痛みはかえって強くなりました。
「食塩水でうがいが出来るといいんだけれどなあ」と私が言うと、
「塩入の切符やろうか?」Yが言います。「あるの?塩」
Yが見せたのは、途中の停車駅「塩入駅」で買った切符。むかつく私。
阿波池田という駅に着いて「これがあの(甲子園で有名な)池田高校の池田かあ」など3人で感心しました。高い山に囲まれているけれど、意外に大きな町でした。
阿波池田を出ると、やがて線路は、吉野川が刻んだ景勝「大歩危小歩危」に沿うようになります。
MとYは絶好調に機嫌がよく、カメラを持つ仕草をしては「シャッターチャンスは今だ!」「いや、今だ!」などと叫んでいました。今(の中学生)なら、携帯電話のカメラで写真を撮っていたかもしれません。しかし、1980年当時にそのようなものはなく、ただ、流れて行く景色を見送るばかりでした。私はと言えば、喉が痛くて絶不調です。
「喉が痛い時には炭酸水でうがいをするとよい」とY。
「それで治る?」
「いや、単に気持ちいいだけだけ。やらないよりまし」。
しかし、普通列車の車内に炭酸水の自動販売機はなく、列車はますます山深いところへと入って行きます。
やがて列車は、土讃本線の「新改(しんがい)」という駅に着きました。
私たちはそこで列車を降りました。
なぜか。ここが高松(のうどん)に続く、1日目の重要な観光ポイントだったからです。
といっても、観光施設がある訳ではありません。
新改駅は急な勾配の途中にあるため、スイッチバックという特殊な配線になっています。
そのスイッチバックを見てみたい、というのが、ここで降りた理由でした。Yの予備知識に基づく計画でした。
【参考資料・スイッチバック・Wikipedia】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%8...
新改駅に着いたのは、夕方の、まだ少し明るい頃でした。
列車はまず、本線から分岐した引き込み線に入ります。そして、おもむろにバックして、もう1本の、ホームのある引き込み線に入ります。これがスイッチバックです。そしてそのホームに着いたら、車掌はドアを開きます。
駅前には1件の雑貨屋がありました。雑貨屋は列車が出るとすぐに店を仕舞ってしまいました。
【参考資料・GoogleMap新改駅】
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=%E...
【参考資料・wikipedia新改駅】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%94%B9%E9%A7%85
(2010年現在、雑貨屋は閉店しているようです。)
とりあえず私たちは、線路沿い歩いていき、スイッチバックの分岐点を見物に行きました。山懐深いその場所で、銀色に輝くレールが複雑な幾何学模様を描いていました。なるほどこれがスイッチバックか、と。
で、それからどうするか。
何もすることがありません。
次の列車まで2時間近くありました。
夕闇はますます迫り、ついにあたりは真っ暗になってしまいました。
私たちは新改駅に戻りました。
昔は駅員が居たらしく、切符売り場の跡のようなものがありましたが、板で塞がれていました。
待合室には木のベンチがあり、心細い光を落とす蛍光灯には、自分たちの街では見たこともないような巨大な蛾が、バタバタと音を立てて集まっていました。
私はというと、とうとう熱を出してしまいました。
「お前はそこ(ベンチ)で横になって寝とれ」Mの指示に従って私はベンチに横たわりました。
MとYはとりとめもない話を続けていましたが、やがてクラスの女の子の話になりました。
「・・・で、うちのクラスのH子やけど、あいつほんとは性格悪くて、友達だったS子がまだ生理になってないこと知って『Sちゃん遅れてるぅ』とか言いよんねん」
「人は見た目では分からんちゅうやっちゃな」
その話にだけは参加したいと思って体を起こすと「お前はとにかく寝とれ」と、Mに諭されました。
どれくらい時間が経ったでしょう。いや、どれくらいも何も、時刻表によれば私たちはたった2時間しか新改駅に居なかったのですが、もっと長い時間、そこに居たような気がしました。
やがて山奥から線路を刻む音が聴こえてきました。乗り継ぎの高知行き普通列車です。
その列車も、私たちが乗って来た列車と同じく、一旦引き込み線に入って、バックでホームに入って来た訳ですが・・・先頭は旧型客車。一番後ろ(発車すると先頭になる)は機関車のDF50。朱色の車体と大きなエンジン音が、私たちを「闇の底から救い上げに来てくれた」ように心強い。
【参考写真】DF50高松運転所仕様(模型)
機関車の次に連結されていたのも、旧型客車。オハ61系。
旧型客車、とか、オハ61系とかいっても、分からない人も多いと思いますが、一言で言うと、大井川鉄道の蒸気機関車の後ろにつながっているようなクラシックな車輛です。オハ61系というのは、ある意味で、その中でも、ひときわ渋い車輛です。(ちなみに大井川鉄道では所有していない)
【参考資料・Wikipedia・国鉄60系客車オハ61系
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%8460%E7%B3%BB%E5%AE...
旧型客車といっても色々ありまして、蛍光灯を装備して明るい内装に改装された車輛もあれば、照明は薄暗い白熱電球、車内の壁は木目にニス塗りという車輛もあります。
新改駅にやって来たのは、実に、後者でした。天井では白熱電球がオレンジ色のフィラメントから弱々しい光を投げかけています。壁は天然木。今思うと、ある意味ではデラックスな仕様でしょうか?でも当時は単なる「ボロ」にしか見えませんでした。
しかもオハ61系というのは、座席の背もたれも板張り、木目にニス塗り。背もたれにクッションがありません。
壁といい座席といい、そこは木目に支配された世界。白熱電球にぼんやりと照らし出された木目が、おどろおどろしい何かを連想させます。乗客はゼロ。
「幽霊列車や!」Mが叫びました。
幽霊列車は私たちを乗せると、音もなく走り始めました。エンジンが機関車に集約されているため、旧型客車は時に、驚くほど静かに走り出すことがあります。(機関士の腕前にもよる。)
私たちは、あまりにも恐ろしい1両目を走り抜け、2両目に移動しました。またしてもオハ61系。1両目と全く同じ光景が目に飛び込んできます。乗客は2~3人くらいは居たでしょうか。3両目、4両目、5両目。全てオハ61系、お客さん数人、幽霊列車。
6両目の終わりで私たちは急停止しました。一番後ろの車輛は、ドアがなく、ぷっつり通路が途切れ、足元から銀色の線路が流れ出して伸びていました。実際、当時の国鉄ではこの旧型客車の最後部からの転落事故というのが、稀ながら起きていました。
【参考写真】オハ61系オハフ61形式(編成の最後尾に連結されることが多い。列車の最後尾はこんな感じ。)
私たちは車内に戻り、覚悟を決めて幽霊列車に揺られることにしました。
まあ、慣れてしまえばこれはこれで面白いなという気持ちになってきました。
とにかく空いていましたから、1人1ボックス。
「お前は寝とれ」。またもMの指示で私は座席に横になりました。
~~~
「で、そこでヒヨワのiijiman君がいよいよ熱を出して・・・」
「ヒヨワちゃうわい」
(笑)
「僕たちは急遽、高知で宿に泊まることにしました」
「駅前の観光案内所というところで紹介してもらったのは、ユースホステルというところで、泊まるには身分証明が必要だと言われました」
(しずまる)
「そこで、僕(←M)だけが生徒手帳を持っていたので、僕たちは無事にそこに泊まることが出来ました。1500円くらいでした」
「ところがそこは、行ってみると、大学生みたいな人が沢山居て、凄く怖くて」
(笑)
「僕たちは部屋から一歩も出られませんでした」
2学期。夏休み明け最初のホームルーム。
「この夏休みの思い出を1人1つずつ発表しなさい」という時間がありました。
私もMも、四国旅行の話をしました。(Yは違うクラスだった)
担任の先生は、少しハラハラしながら聞いていたようでしたが、最後ににっこりと笑ってくれました。
私たちの旅は、その後、高知から松山までツーマンバス(運転手だけでなく車掌さんのいるバス)に乗って車掌さんの話を聞いたり、松山城に登ってMが俳句を投稿してみたり、まあいろいろあった訳ですが、長くなるので略します。
中2の夏の、初めての友達同士だけの旅。
一番印象に残ったのは、やっぱり、あの「新改駅と幽霊列車」です。