どうやったら、これらがすばらしいということがわかるようになりますか?
これらは、ただのでたらめ、子供のもの、精神に障害がある人のもの、未開の民族のもの、先史時代もの、などとよく似ていますが、これらとはやはり違うものなのでしょうか?
ダヴィンチやラファエロがすばらしいというのはなるほどわかるのですが、一見でたらめのような作品が素晴らしいと言われている理由がわかりません。教えて下さい。
新しい価値観を与えてくれるからすばらしい。と私は思います。
反対に、ダヴィンチやラファエロなど写実的なものがすばらしいとは思えません。
写実的だとなにがすばらしいのですか?技術?
「新しい価値観」とはどういうものでしょうか?
例えばキャンバス一面にぐちゃぐちゃぐちゃーっとめちゃくちゃに書き殴っているような絵があるとしてそれのどこが新しい価値観なんでしょうか?
ただのでたらめとしか思えませんが。
ダヴィンチやラファエロを写実的というのはどうかと思いますが、まぁ、とりあえずそうするとして、確かに技術は素晴らしいと思いますが、その技術がなんのためにあるのかというと、鑑賞者をうっとりさせるというか、ああ、きれいだなぁとか、ああ、すばらしいなぁとか思わせるためであって、そして、概ね、ダヴィンチやラファエロを見て人は、ああ、美しいとか、ああ、すばらしいとか思うと思うんですけど、ピカソや現代アートをはじめとする、なんだかわけのわからない作品というのは、なかには感動する人もいるだろうけど、かなりの割合の人がなんだこれは?となるように思うのです。
なぜ、理解できる人がそのわけのわからないものが理解できて、感動できるのか、というのが知りたいのです。
好みは人それぞれありますよね。モーツァルトを美しく聴こえる人もいれば、うるさいと思う人や眠いと思う人もいるわけです。したがって、本当に素晴らしいかどうかは誰もわからないと言えます。
私は、発言権がある人が評価したら評価が高くなるのだと思います。デタラメな絵は幼稚園児にも描けますが、それを芸術だと誰かが言って、その発言が評価されているのです。
好みは人それぞれというのは当たり前の話ですが、この問題はそういう風には解決できないと思います。
というか、この質問は、ピカソや現代アートが好きだ、というひとに、あんな一見でたらめに見える作品のどこがどういうふうにすばらしいので好きである、ということを説明して欲しいと思ってしているのです。
なるほど、非常に興味深い疑問をお持ちと見受けました。
私も幼少の頃「ピカソのような絵を描くね」と言われて困惑したことがあります。
褒めているのかけなしているのか。
20世紀の近代までの西洋絵画というのは視点が定まっていましたが、日本の水墨画には西洋の近代の絵画のような「遠近法」はありません。近代の画家が19世紀後半に日本の絵を見てパニックになったのもなんとなく理解できるのです。では、古代エジプトの人物絵には正面を向いている絵がありません。あれは正面から描く技術がなかったからなのでしょうか?いえ、今ではどうやらそうではないと言う説が主流を占めているわけです。
実は、美術というものは「目の前にあるものを受け入れる」ということは前提ではあるのですが、その作品が作られる必然・展示する環境・将来へ向けたメッセージ、これらを含めて一つの作品としてとらえることが「現代の美術」に求められたものであるようです。
私がピカソの絵をすごい!!と思ったのは30年近く昔、東京国立近代美術館のピカソ展でやっていた講堂でのピカソの絵画の映画を見たときでした。
その映画ではなぜキュービズムが生まれるのかということをツブヤキながら描いていました。「今、右からの顔を描いているが、左から見たものを重ねたらどうなるか・・・」みたいなことを延々と喋りながら作品が完成していきました。
なるほど、作品には文脈があるんだということをそこで知らされました。
具象物を描いた作品もそれなりにすばらしいものであることは事実ですが、それは光画術(写真)の登場と共にその意義は薄れてしまいました。
油絵も、乾性油で顔料を練って作ったもので、当時の最先端の技術を使って表現したものですが、今ではの手段は「コンピュータ」と「液晶」技術で代替されるようになったりしています。その中で遠近法とか人物画の表現方法など変わらないものもある一方で「なんでこれがアート?」というものが生まれては消えという歴史を繰り返しています。その中で残った一部の作品が後世に伝わるアートとなるのだと思います。
アートとテクノロジーの関係を見ると、「アルス」「テクネ」という語源にさかのぼり、現代の芸術という意味の英語の<art>(アート)にあたる言葉はギリシア時代にはなく、ローマ時代になって<ars>(アルス)という言葉ができました。 じつは、ギリシア時代には<techne>(テクネ)という現代の技術 <technics>(テクニック)に当たる言葉じつは、ギリシア時代には<techne>(テクネ)という現代の技術 <technics>(テクニック)に当たる言葉が、その<art>(芸術)と<technics>(技術)の両方を意味していましたが、そのギリシア時代の言葉<techne>がもつ二重性が<表現>という世界の中で明確に分離していったと言えます。
芸術表現に「一貫したパターン」を求めることが芸術なのか、「異端であること」に美を求めるのか、そういったことも含めて現代のアートの意義が問われているのかと思います。
もちろん、ご指摘の「精神的」な問題「脳科学」で分析される諸問題、そういったこともアートと人々の生活の問題として掲げられていることは事実だと思います。この問題は20世紀までに「学問体系」ができてしまったことで、人類の課題を見失ってしまったことにつながっているとも言われています。そういったことを再構築してあたらしい価値体系を築こうとしたものが「バウハウス」運動にはじまる諸系譜(MITメディアラボ・ZKM・アルスエレクトロニカセンターなどなど)であったり、昨今はやりの「オフミュージアム」(越後妻有国際トリエンナーレ・瀬戸内国際芸術祭のようなもの)運動だったりします。
多様化を許すこと、旧来の枠を正しいと決めつけないこと、これこそが「アート」の本質なのではないのかと思います。
うん、長いですけど読み応えありました。ちょっとした授業を受けた気分です。ありがとうございます。
「作品には文脈がある」という言葉が心に残りました。ということは、ある作品自体、それ単体では、その作品のすばらしさはわからない、ということでしょうか?
これだけ長文を読んでも、いまいち、なぜピカソのようなでたらめアートが素晴らしいのか、という理由がわかりませんでした。
ピカソの場合、彼が天才であるからです。確かに抽象画は多くの人は実際には理解できていないと思います。しかし、最初から抽象画を描いていたのではなく、当初は写実的な絵を描き、いくつかの賞も獲得しています。その才能を見出した画商が抽象画をも援助したため現在の名声を得ることができたのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%B...
ピカソは天才だとか、人の好みはそれぞれとか、そういうのは自分の求めてる答えではないです。なるほど彼は天才だし、人の好みはそれぞれでしょう。ただ、それはそれだけの話です。
自分が知りたいのは、「抽象画は多くの人は実際には理解できていない」というこの部分です。どうやったらこれが理解できるのか、ということです。
天才ではなく、凡人にもわかるように、説明して欲しい、ということです。
あなたと似たようなことを思ったことがあります。
不思議でもあり、表現が良くないかもしれないけれど怖さも感じました。
考えて「見る」理解しようとするのが間違っているのかもしれませんね。
実際に目の前で見ると迫力があり、説明なんていらない、と言いますよね。
とはいえ、考えてしまいますよね・・・
似たような質問があり、回答者の中からこう書いている人がいました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1416622...
優れたところはコンポジションです。
構成力です。構成力とは数学的な美しさです。
そして絵画に対する姿勢、完璧な画家です。
歴史的価値や評価者の理解のなさなども手伝って「ゲルニカ」が屈指の傑作などとされていますが
凄いのは20代後半に描いた「アビニョンの娘たち」です。
http://www.moma.org/collection/conservation/demoiselles/index.ht...
勝手な予想ですが具象絵画を数多く描いた
10代後半にほぼ悟りを開いてあとは実践のみということだったのではないでしょうか。
抽象絵画とはぐちゃぐちゃというものではなく
捨象(不純物を取り除く)という行為をして成立します。
その度合いにより、作品の良さが決まります。
ダイヤモンドみたいなものです。
ピカソを問わず現存高価な絵画は
ネームバリューなどではなく作品として純度の高いものが多いですよ。
同じような質問をしたリンクですね。ありがとうございます。
この方の回答はなかなか興味深いですね。こういう風な回答を、もっともっとして欲しいと思っています。
私的には、ピカソの絵は誰にもまねができない絵だからすばらしいんだと思いますね・・・。
そして、ピカソの絵は見るというか感じ取るものなのかもしれません。
他の画家さんとは違う見方をして、ピカソが感じたままに描く、
それを、感じ取ることができたとき心から
ピカソの絵って凄いって思えるのかも知れません。
ふむ・・・、誰にも真似できないから素晴らしいですか。しかし、誰も真似できないけど素晴らしくも何ともないってのもあるような気もしますけど。
感じ取るっていうのはあまり好きな表現じゃないですね。なんというかロマン主義的な霊感みたいな感じで。
ピカソは(ってべつにピカソだけの質問じゃないんですけど)、もっと考えてたと思いますよ。
まぁそれはいいんですけど、「他の画家さんとは違う見方をして」っていう、まさにここですよ。どういう見方をしていたんでしょうか?
自問自答 ~ 元美術学生の過去回答より ~
むかしわたしも、課題レポートの「空間の次元」では、ピカソの複写
《葡萄とギター》を添えて提出したことがあります。
本人が、チンプンカンプンなのに、なぜか「優」に採点されました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5163165.html (No.1)
論より正視 ~ 不毛の空論 ~
ピカソを見て「わかる」と云いたい人が、決して何も学ばないように、
芸術の概念は抽象にあり、実用や効率を求めるのは、あらぬ誤解です。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5887216.html (No.4)
絶対音楽の条件 ~ なにも足せない、なにも引きだせない ~
現代芸術は、それぞれつぎの作品によって、役割を終えています。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2730553.html (No.5)
未来芸術論 ~ 仲介者の退場 ~
人類にとって(空間の把握能力は)とても重要なのに、絵画技法は、
写真術やCGIの出現で、ほとんど実用性を失ないつつあります。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1216636.html (No.5)
現代日本では、水木しげるの自伝的作品が参考になると思います。
過去の関連質問から(各分野の芸術作品について)。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4689800.html (No.10)
自分との対話 ~ わが心を覗きこむとき ~
音楽や美術や文字で心やすらぐのは、作らない人たちだけだ。
彼らは、芸術家が金ほしさに作ったと思いこんで、金を払った分だけ
うっとりする権利があると信じている。本人に払っていないのに。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1897529.html (No.3)
わたしは、一に音楽、二に絵画、三に文字を愛してやまない。
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A5%D4%A5...
about ピカソ ↑My ブログ ↓at はてな
http://q.hatena.ne.jp/list?word=%E3%83%94%E3%82%AB%E3%82%BD
なんかリンクがいっぱいですがよくわかりません。
ていうか、一応、リンク先をいくつか見てみましたが、自分が求めている答えではないようです。
ピカソの絵は確かに一見デタラメみたいなのが多いですが、私は好きです。
違う方面から見るとあの絵は何と言うか…不思議な世界に引きづられる様な感じがするのです。(変人だとよく友人に言われます)
様するに人個人の見方。と言う訳じゃないでしょうか。
人それぞれとか好みの問題とか、そういうのは答えにならないって、何度書けばいいんだろう・・・。
その、「不思議な世界」とか、「個人の見方」とかいうところをちゃんと言葉で説明して欲しいです。
おそらく従来型の美術が好ましいというのには、
「描画対象が美しいから複写である絵が好ましい」というのと、「絵が安心感、安定感を与えてくれて好ましい」というのがあり、後者の代表例は「聖母像」などでしょう。
現代型の美術には、次があると思います。(全てとはいいませんが)
・「描画対象はないが、できあがったものは美しい、好ましい」・・・たとえば、モンドリアンの抽象画など、線分と平面分割の結果としてはやはり「美的センス」に訴えると思います。
・「絵が不安心感、不安定感を与えてくれて、それが現代社会を象徴しているようで、ちょっと怖い、違和感があるが、しかし、それなりに好ましい」・・・たとえば、ダリの描く、ゆがんだ事物などです。
美的センス、ですか・・・。はぁ、これまた「天才」とか「好みは人それぞれ」と似ていて、それを言われるとおしまい、みたいなところがありますねえ。
しかし、こういう分析的な説明は好きです。
ダリなどは普通におもしろいと思いますねぇ。だからちょっとこれは自分が想定している意味不明なでたらめな現代アートみたいなのとは違うかも知れません。
絵画は個人の趣味があるので、無理に理解しない方がいいと思います。
気に入っているものだけを見ればいいし、わからないならそのままでいいかもしれません。
いやいやいやいや(笑)。理解しない方がいいとか説得されても・・・。理解したいから質問したんであってですね。
それに、自分は信じてるんです。わからないものというのは、個人の趣味とか、好みとか、才能とかではなくて、ちゃんと説明すれば、必ずわかるんだって。
もしわからないとすれば、それは説明する人が下手なんです。もちろん、難解なことを易しく説明することほど難しいものはありませんが。
ジャズで言うと、コード進行に忠実なビバップと呼ばれるスタイルから、モード、クールと聞いていくと、最初は不協和音に聞こえていたものがだんだん普通に聞こえてきます。そのうちフリージャズだってちゃんと「理解」出来るようになります。
他人の演奏を聞くだけじゃなくて、自分で演奏してみるとより良く「理解」できるようになります。
また、英語で書かれ詩を読んで感動する為には、まず英語自体を自然に理解する必要があります。
理解した上で、さらに好みは人それぞれ別れるでしょう。
英語を理解出来ない人に、その詩の本質的な良さを伝える事は難しいのです。
絵画でも同じ事ではないでしょうか。
ピカソや現代アートを理解する為には、それらを理解する為の回路を頭の中に組み込む必要があります。
現代アートをたくさん見て、可能であればご自分でもチャレンジしてみてください。
で、もし理解できたなら、今度は私にその良さを説明してみてください。
私にはピカソの良なんてちっとも理解出来ないので・・・
回答ありがとうございます。不思議な回答ですね。
そうすると、ピカソや現代アートは、それ単体ではわけのわからないもので当たり前ということなんでしょうか?それはそれでちょっと悲しいですね。
絵画に話を限ると、それはなによりもぱっと一目見て、あっ!っと思ったりするものだと思うのですが(本だとずーっと読み進めないといけない)、それが、「文脈」だとか、「回路」だとか、「理解」などを必要とするものなんでしょうか?
私個人的に思うんですが、
例えば、ピーマンを美味いと感じる人もいれば嫌いな人もいるわけですが、
そもそもピーマンなんて苦いんだから美味いわけないんですよ。普通生き物が嫌うはずの苦味なんだから。
ピーマンと同じ味で、見た目がうんこだったら、100人が99~100人は不味いっていうでしょう?
にも関わらず、あれを美味いもんだと言う人変わりもんが出てきて、
そのうち「ピーマンを美味いと感じるようになれば大人の舌になった証拠だ」とか、
「苦味のある野菜というのは体に良いものなんだ」とか、
挙句の果てには「良薬口に苦し、だからピーマンも苦い」だとかなんとか言われて、
その影響で結局大体の人は、大人になったらピーマンでも美味いと感じてるんじゃないかと思うんですよね。
何が言いたいかと言うと、人間の味覚は意識に左右されやすいってことで、
みんなが美味いと言えば美味く感じるし、体に良いと言われればそんな気がするんですよね。
だから納豆食ったら痩せるなんて言われりゃアホみたいに食うわけで。
そもそもアレも、納豆食って痩せたいか?って話ですよ。痩せたいなら何も食わなきゃいいのに。
とにかく、人間てのは大勢の人や信頼のある人が何か言うと、本来の自分の目的を忘れて流されちゃうことが多いんだと思います。
ピカソの絵なんかもこれと同じで、美しいとか美しくないとか、そういう次元の前に、
そもそもあんなのただの絵なんですよ。紙にインクが付いてるだけ。
でもそれを見て、こいつの才能は凄いとか(ピカソの才能がすごくてもそいつには何の関係もない)、
ピカソが伝えたかったことを受け取って共感なり感動なり勝手にしてうるうるきちゃうようなプラトニックな人間が、
これは価値のあるもんだと勝手に決めつけたんです。
これは本来ならそいつの主観で終わるだけのはずのもんなのですが、
例えばそいつが影響力あったりとか、そいつが口が上手くてその主張に釣られて感動しちゃったりした人間が増えていけば、
必然的にピカソの絵は良いもんだってことになるわけなんじゃないですかね。
あと、人間ってのは他の動物と違って、食うこととか寝ることとかヤルこととか、
そういう基本的な欲求以外の部分に欲求が強いのは、心が裕福な証というか、人間的にレベルが高い、
みたいな風潮ってありません?
だから、きざな勘違い野郎は「俺こういう絵好きなんだよね~」とかほざくじゃないですか。
ああいう勘違いが発展していくと、訳わかんない絵でも、それを逆に評価すれば、評価した方も凄いとか言われるようになって、
そうなったらもう誰も今更絵なんかしょーもないとは言えないですし、多分だんだんみんな本当に凄いもののように思えてくるんでしょうね。
突然話飛びますけど、なんか「一軒家を買う」ってことが男として一人前、みたいな風潮もありますよね?
極論言えば、これも同じだと思うんですよ。
日本のクソ小さい家を、今から死ぬまで、みたいなローン組まされて買っちゃって、
冷静に考えたら完全にアホですよ?
本来、一軒家なんかいります?マンションでいいじゃん、別に。
それが、建設業界だか銀行だか知りませんけど、どっかの業界の鬼のような宣伝のおかげで、
日本のお父さん達は、死ぬまでその家の金に縛られてもいいくらい一軒家が欲しくなっちゃってるわけですよ。
そう考えていくと、ピカソも家もゲーム機もテレビもネットも、全部一緒。
本当に必要で価値のあるものなんて、この世に無いんです。
大体それ全部考えてたら、生きるってなんなの?みたいなことに行き着いちゃうわけですし。
だから、この質問に対する私なりの答えとしては、
>>わけのわからない、意味不明の、でたらめのような作品がすばらしいと言われるのはなぜですか?
宣伝効果がうまく作用したから。
これに尽きると思います。
道端に落ちてる石一個でも、宣伝効果によっては凄い価値になります。
この世で本当に価値のあるものなんて、愛だけなのです。
うん、長いけど、ある意味これも不思議な回答ですね。最後の一行で済まされる回答を、ここまで長引かせる能力。堪能いたしました。
で、悪いんですけど、自分はそうは思わないんです。まぁ、そういう面があること、かなりの多くの人がそういう影響を受けてしまうこと、それはわかります。
でも、自分が質問しているのは、そうではなく、宣伝からではなく、本当に感動している人、本当にわかっている人、そういう人がいると思っていて、そういう人の意見が聞きたいのです。
書画、彫刻、工芸品、骨董、音楽、その他ほとんどの芸術に関して、作品や上演を見ても(私の場合、生でなくて、写真、せいぜい20cm×20cm程度の小さなコピーやテレビ放送などになりますが)素晴らしさを実感できません。音楽演奏の場合、演奏者のタイミングや音程が大きくずれたりすれば変だとは思いますが、一定のレベル(非常に低いレベル、アマチュアの初心者レベル)以上になると、その音楽性の優劣がほとんどわかりません。(じっくり聞きたい、再度聞きたい、CDでも欲しい、途中で聞くのを止めたくなるという好き嫌いは起きることはありますが、同じ作曲家のクラシック作品だと、演奏の違いさえも私には区別がつきません)
放送大学で、同じ曲の4種のピアノ演奏を聴かせてどれが良いかを判定させた結果を説明していましたが、判定者が初心者の場合と、上級者の場合では、演奏の優劣(うまい・へた)の順位が違ってくるそうです。おそらく鑑賞力というのは、その人の経験に相当左右されるものだと思います。熟達していない人、ド素人には、上の方の優劣はわからないと思って良いと思います。
演歌はわかるけれど、イージリスニングは聞くことがある、ポップスなら好きで聞いているよ、という経験値だと、現代音楽は[これはまともな演奏じゃない]と感じてしまうのだと思うのです。
書画(絵画や書)でも同じだと思います。私の場合、具象画であれば整っているか色調がどうかなどで好き嫌いは出ますが、優れた作品かどうかについては、展示会等の入賞品と選外とでも力量差などを全く識別できません。抽象画に至っては話になりません。仮に1000万円クラスの絵画が友人宅に掲示してあっても、1万円程度で購入されたものと、何ら変わることのない印象で(無印象で)私は何も気づかないでしょう。
書についても、展覧会の金賞、入賞作品のどこが良いのか、さっぱりわかりません。
現代彫刻のオブジェなど、でたらめで、私でも作れそうないい加減さと思えてしまいます。
絵画や書、彫刻、工芸品でも、素人が制作したもの作品と、ある程度名を知られている作家の作品とを、現物を見て、優劣を識別できるようになるには、鑑賞者のレベルが必要なのだと思います。
美術書には鑑賞のポイントとか評論家が見た優れたところの解説などが掲載されていますが、こうしたものは既にある程度の鑑賞力を持っている人でないと、実のところちんぷんかんぷんです。
美術史の本を読んだり、ある作家についての美術書でその作品傾向の変遷を読むと、何となく理解できたような気になったリしますが、作品を前にして何か感じるようにはなりません。美術史の説明、作品や技術的な特徴を読んで理解したつもりになっているのは、単に言葉の概念であって、ずぶのど素人の美術に対する鑑賞力を上げてくれたことにはならないと、私は思っています。
これは、美術、芸術に限ったことではなくて、経済学理論、物理学理論、社会学の研究論文、バイオ研究の内容に関しても、何も知らない人は、最高の研究や優れた理論を説明してもらっても、それが優れたものか、偽論か、二番煎じで&いい加減な説明なのか、識別することができません。ある程度までしっかりと基礎から勉強し、研究してきたような人でないと、価値を理解することができないのと同じだと思います。
ずぶの素人で、美術センスも持ち合わせていない人にとっては、ピカソや現代アートでも無価値に近い場合があるでしょう。
ヴィンチやラファエロだって、有名な人の作品だと記憶にすり込まれているものと似ていると判定しているだけで、駆け出しの偽造作家が材料費と手間代合計2万円で売っているものと全然区別できないこともあると思います。
衣服や家具でも、良いもの、普及品、安物を識別するには、識別のポイントを聞くだけでは不十分な場合が多いと思います。
役者でも佳い役者と大根を識別できない観客は多いですが、舞台や映画作りを長くやっている関係者はそのあたりの識別はつくようです。(興行やビジネス上の成功と役者としての大根とは別ですから、関係者がビジネスを成功させる上で重要な大根を[大根]と公言するようなことはないと思います)
現在絵画やピカソの絵はガキの絵と区別がつかない、精神障害者が描いたものと違うんだろうかと思える状態だと、その素晴らしさを理解するポイントの説明を詳しくしてもらっても、おそらく、『ああ、この絵はすごい!』と感じることはできないと思います。
自分にわからないものは、『わからない(けれど、これはすごい作品と言われているものだ)』というので十分じゃないですか。どの点が優れて素晴らしいのか実感もできないのに、説明だけ覚えてもあまり意味ないと思います。
自分にわからないのが悔しい、とにかくわかるようになりたいと強い希望や欲求が体内にあるのであれば、手近に見ることができる色々な絵画の現物を多く見て、その作品を説明してもらうことが良いと思います。あまりにも有名な作家の作品でなくて、どの町にも何人かはいる程度の作品を見ながら、その作品について説明してくれる人から鑑賞の手引きというか評やコメントを聞いて、再度その作品をよく見るという経験を繰り返すと、絵画を志している人の鑑賞力に近づいていけると思います。おそらく50人に一人、100人に一人という程度まで鑑賞力が上がれば、有名な作家の作品が並の作品とは違うのだと自分で感じてしまうようになると思います。そうなれば、好き嫌いとは違うレベルで、ピカソや現代絵画を見ることができるようになるのではないでしょうか。
そんな面倒なことはしたくない。とにかくピカソの絵画の何が優れているのか知りたいと言うのであれば、言葉中心のはてなではなくて、図書館で解説や鑑賞のポイントなどもついている美術書をご覧になってはどうでしょうか。
すごいですね。長文ですが全部読みました。
どなたかも書かれていたかもしれませんが、ピカソや現代アートのようなものは、それ単体では、すばらしさはわからないということですかね。文脈とか、いろいろ、勉強が必要なようで。
ただ、それはやっぱりちょっと悲しいですね。
自分の質問というのはだいたい、ちょっと無茶があるかとも思うんですが、そういう、文脈とか、どうとか、作品外のことではなしに、作品そのものから感じ取った言葉にならない感動のようなものを、言葉にして欲しい、そういう質問です。
「ダヴィンチやラファエロがすばらしいというのはなるほどわかるのですが」
と書いていますが、ほんとうにわかるのでしょうか?
「子供のもの、精神に障害がある人のもの、未開の民族のもの、先史時代もの、」
は、すばらしくないというのも理解に苦しみます。
ダヴィンチやラファエロが素晴らしいとわかるなら、
「子供のもの、精神に障害がある人のもの、未開の民族のもの、先史時代もの、」
の素晴らしさもわかるはずです。
あなたは絵に「美」ではなく「権威」を見ているだけなので、美の新しい形を示されるとわからなくなってしまうのだと思います。
私にはフェルメールもピカソも別に違和感なく美しく見えます。
問題は、作品ではなくあなたの側にあると思います。
「私にはフェルメールもピカソも別に違和感なく美しく見えます。」
だったらそれを説明してください。
「問題は、作品ではなくあなたの側にあると思います。」
そりゃそうでしょう。なにも問題がなければそもそも質問しませんよ。
写真であれば100人見た多くの人が同じものをみたと感じるかもしれませんが、絵画の場合人によって受け取り方は違うのではないでしょうか。
同じ人を描いた場合でも中世の流行は、出来るだけ写真の代わりになるような、もしくは美男、美女を描く事に重きを置いていたかもしれませんが、現代絵画の時代、つまり私たちの時代では価値観は多種多様で、例えば私はその人を写真的に描くのではなく出来るだけ内面を絵画にしてみせたいと思うかもしれません。例えばの話、内面を見せようと思うと、対象をそのまま描くのではなく、心象表現的(つまりわけの分からないような絵)になるかもしれません。
私が現代絵画を見ていつも思うのは絵の書き手さんとの対話で同じものを、違う角度からまったく別の価値観で画家なりのアプローチで描く事、またその新しい解釈の価値観の提案を行う事に感動を覚えますね。
ふむふむ、回答ありがとうございます。だんだん、コメントを返す気力がなくって来ました。すみません。でも、よい回答だと思います。
芸術の本質は単なる美しさの追求ではなく、
人の心を揺さぶること(広い意味での)感動の追求です。
もちろん、いわゆる美しさも、感動を与えますが、
例えば、喜劇だけでなく悲劇も芸術となります。
ムンクとか、ダリ、エッシャーなどの売りは、単なる美しさでは
なく、不安感とか不思議感といったものですが、これは解り易い
と思います。
さて、ピカソですが、一見子供の落書きのような、キュービズム
と呼ばれる手法で、絵の主題を訴えている訳です。
人の感性は様々ですから、キュービスムに対する感じ方も色々
でよいと思います。正直いって私も、ピカソの絵を欲しいとは
思いません。
しかし、確かにインパクトはありますね。特にピカソみたいなの
が大手を振って現れる前の時代の絵が並んでいる中に並べると、
さらに衝撃的だったでしょう。結構、みんな、くらくらと心を揺
さぶられてしまったと。あるいは、しばらく口を半開きにして
固まってしまったとか。
まあ、おどかした方の勝ち。しかも最初にやった人の勝ちですね。
発明や発見も同じで、一番最初であるが故に、値打ちがある。
子供の落書きみたいなのに、高価な絵ということで、さらに心を
揺らされる訳ですが、それも含めて、芸術の原初的な基本を、上手
く押さえていると言ってよいと思います。
「芸術の本質は単なる美しさの追求ではなく、
人の心を揺さぶること(広い意味での)感動の追求です。」
ああ、そうですね。これは本当にそう。
「芸術の原初的な基本」
ああ、そういうのはありますね。荒々しいというか、野生というか。
アートに関しては素人で、ピカソ素晴らしさも理解してない人ですが、
勉強したことと感じてることで、間接的に答えてみます。
「でたらめ」でない絵の評価方法は、例えば「被写体との類似」とかが考えられます。
「写真と比べて誤差に少ない方が優れている」と、単体で、万人に共通な評価が可能でしょう。
これに対して、「でたらめ」なアートは、それでは済まないと思います。
まずアートには背景があります。
絵を通して、喜怒哀楽から社会の理不尽など、目に見えない抽象的な何かを訴えたりします。
写真でも、同じ戦場の写真では、戦時中と平和時のものでは意味が違います。
次ぎに、同じ背景の中でのテーマとその着眼です。
戦場の悲しさがテーマだから焼け野原や怪我人の絵は直球とすると、
一見無関係な「楽しそうな祭り」、「穏やかな風景」などに着眼したら変化球でしょう。
ここは人と異なった着眼を持つのが「すばらしい」とされていると思います。
そいう意味では、変化球だらけの時代なら、飾りのない直球も表現次第では評価されるでしょう。
次は表現となります。
抽象的なテーマを如何にして着眼している対象(の絵)を通して表現するかです。
これも例えば、奇特なほど、真似る人が多いほど「すばらしい」でしょうか。
表現手法の模索がアートの永遠の課題の一つではないかと思っています。
ただ、現実問題として、少なくとも当時のプロ芸術評論家たちに理解され、
絵と時代的背景からテーマと着眼を読み取らせて貰えるという条件が付きます。
さもなければ、誰にも理解されない「でたらめ」で終ってしまいます。
これらを踏まえて質問に結びつけると、
絵の素晴らしさを分かるためには、画家と絵を取り巻く時代、文化を知り、
近い時代の他の絵と比べて、着眼点の奇特さを見つけることでしょうか。
そして、極めとして、解説無しで絵と背景から色々見抜ける知識を身につけることでしょうか。
また、子供の絵は普通は直球で、深い意味が無いと思います。
未開民族や先史時代のものは、誰にも理解されない「でたらめ」である可能性はあります。
つまり、これらと名作の違いは、背景の違い、理解される度合いの違いでしょうか。
なので、質問者が言ってる「似てる」は表面的なもので、深い意味で違っているはずです。
別の見方からすると、
アートの分かる人は、ピカソの背景等が分かるから、普通の「でたらめ」な絵と違って見える、
私や質問者は、どれの背景も分からないから、全てが同じ「でたらめ」に見えるとこでしょうか。
駄文ですが、考えてもらえたら幸いです。
背景がわからないとだめですか。
背景がわかると、より理解が深まる、というのはあると思いますが、そういうのがなくても、なにかしら感じたり、感動したりする人がいるような気がするんですが。
元平面構成の講師の意見です。
でたらめのような絵がすごい! と言われる所以ですが、
必ず理由があるわけです。じゃないと1億円以上の金額がつかないですね。
ピカソに代表される「キュービズム」的絵画のすごい点は、
「見えないけどあるものを描く」という一点に尽きます。
たとえば「4次元空間を描いてください」と言われても、
「何バカ言ってんだこいつは」と思われますが、
それを絵に描けたのが、ピカソなんです。
科学的に言って、1次元は点、2次元は面、3次元が立体で4次元が時間、
なんて事を聞いたことがあるかと思いますが、ざっくり言って、
「現在と過去と未来が一緒にある」のが4次元なんです。
4次元と言う言葉も概念も知らず、固体・液体・気体の水を描けてしまう。
天才ってのはそういうものかもしれません。理屈なんて無いんでしょうね。
この「表現力」が、ピカソ含む「わけのわからない絵」を描く人たちのすごさです。
※障害者の方は、なにか「さらなるもの」が見えているのかも知れませんね。
では、その違いって何でしょうか?
今の質問者さんには、言葉では分からないのは仕方ないのです。
それは、簡単な話なんです。TVで、アフリカ人の村を紹介したりすると、みんな同じ顔に
見えませんか?なんとなーく違う、としかわからない。
こういうものは、何度も何度も、見続けなければ「良さ」がわかってきません。
実際の「筆による絵の具の線」や「カンバスの大きさ」、「見る位置」、でも
伝わるものが違ってきます。
実物をぜひ見てください。
「目に飛び込んでくる」という感じです。
http://rakutyuurakugai.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/pho...
4次元って時間ですか?確か、人間が感じることのできない、思弁的な概念だったような・・・、まぁ、それはどうでもいい話でした。
それまでの視点とは違う、ということはなんとなくわかりました。
何度も何度も見続けなければだめなんでしょうか。ぱっと見て、は!っと感動することもあるような気がするのですが。
私は別に美術関係勉強しているわけではなく、絵を描くわけでもないので、
以下はあくまでも私の独自解釈を多少断定的に誇張したものだと思ったほうがいいと思います。
解釈の一つの視点ということで。
まず、「ピカソの絵」とひとくくりにするのはかなり乱暴で、
ピカソはその長い生涯でなんども作風を変えています。
参考↓
http://artprogramkt.blog91.fc2.com/blog-date-201004.html
http://artprogramkt.blog91.fc2.com/blog-category-16.html
ということで、以下は「ピカソの絵」と言われて一般的に思い浮かべるであろう
「立体派の絵」について話を進めます。
じゃあ、立体派の絵はデタラメな絵か?という話ですが、
けしてそうではなくむしろテクニカルで理詰めの絵だと思っています。
例えば「アヴィニョンの娘たち」
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Les_Demoiselles_d%27Avignon.jp...
などの立体派の作品は一見でたらめに見えますが、
ひとつの視点ではなく、複数の角度からみた情報(画像)を一枚の絵に再構成する
自然物を立方体などの単純な図形に分解・単純化する
ことで、理論的に組み立てられたものです。
(参考:http://artprogramkt.blog91.fc2.com/blog-entry-67.html)
この発送は現在のデザインなど(当然絵画も含む)に大きな影響を与えています。
(逆にいうと、現代は立体派が創りだした要素を当たり前のように普段目にしているということかも)
なので、鑑賞するときは、テクニカルな「その手があったか」という部分と、
その「複数の視点」を再構成する部分、それと絵それ自体がもつパワーとを
自分の頭の中で再構成するといいんじゃないかと
…思うのですが、正直個人的には立体派の絵(というかピカソの絵)って
そんなにすきじゃないんですよね。理に勝ちすぎているというか…。
むしろ(ダ・ヴィンチやラファエロと逆方向な絵画なら)
ダリ:http://www.allposters.co.jp/-st/Salvador-Dali-Posters_c23675_.ht...
ミロ:http://artofposter.com/myweb1_052.htm
カンディンスキー:http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/K/Kandinsky/Kandinsky.htm
のほうが好みだったりします。
特に、ミロやカンディンスキーは、実在のものはモチーフにすら使われてなかったりするのですが、
そういう物語的なものを排除して、
純粋な色と形を楽しむように絵の中に入り込んでいくという感じの楽しみ方をしています。
有用なリンク、勉強になりました。
実は前に一度、ピカソとその時代だったかな?そういう、キュビズムの発展の歴史、みたいなのを観に行ったことがあって、そこでもだいたいの変遷を辿っていました。
なんだかだんだんわかってきたような気がします。もしかして、単純に見て、即感動するようなものではない?というと、いままでの回答者の方に怒られそうですが・・・。
ミロはおもしろいですねぇ。ダリは、相変わらずダリですねぇ。かディンスキーってのは知らないですが、あまり、ぱっとしてない印象です。
既に出ているかもしれませんが、私の視点を紹介しておきます。
私自身は、高校の頃の美術などは嫌いでした。
絵を描くのが嫌いなので、(うまくないので)、当然美術や芸術やらに
関心はほとんどありませんでした。
ただ、親の影響か、例えばよく美術館だったりチケットがあったりして、
そこで観に行く機会がありました。
日本画だったり、日本人が好きな絵だとモネのような印象派ですか、
ぼわーっとした曖昧な感じの絵とかもあったり、著名(だといわれる)な作品があって、
それらを見ていたわけです。
商業的に美術館も人を呼ぶ必要がありますから、そういった著名な作品が
人を呼べる意味で重宝されるかもしれません。
さて、そうやって「よく分からない」世界だったわけですし、
今も分かっているとは思いませんが、楽しむポイントが見えるようになりました。
これは正解ではないので、参考にとしてほしいのですが、
例えば、その画家の生まれた時代背景に注目することです。
ピカソのゲルニカは、有名な作品ですが、当然戦争があったわけです。(今もありますが)
その中で出てきた表現、またはピカソ自身がそういった表現をしたかったは別として、
一つの表現として確立されたといえます。
よくありがちな話ですが、死後に評価を受ける(つまり、その画家は生きていた時は、
ただのよく分からない人であった)こともありそうです。
おそらく、Umininさんは、
すばらしいと人がいっていることが、何がすばらしいかを知りたいのだと思います。
ただ、「すばらしい」といっているけど、「同じすばらしい」ではないことが「普通」であって、
例えば、ピカソをどう見るかは人によって違うと思います。
批評家という人たちは、それらを徹底的?に理屈をこねて(というと、言い方が悪いですが)、
説明をします。
そこまでしなくても、この作品はこういうところが面白い、楽しい、迫力がある、
何か伝えている、分からない、という「感想」「感覚」を
ある一つの作品をみて、つぶやいてみる。
それを繰り返すことで「何か」がみえてくるのではないでしょうか。
ここからは慎重に発言したいのですが、
「見ていくとわかるかもしれない」ですが、
とはいえ、「わかる」とはすべてを理解しているという意味でなく、
「自分なりの解釈、または見方」が出来ていることかもしれません。
少なくとも、色々な芸術、美術作品があって、知らない人の作品が多いわけで、
その人の作品を見るとき、必ず「何だこれ?」と思うわけです。一瞬でも。
その場合、私は「何だろう?」と考えて、「あれかな」「これかな」と考えます。
ここまできて、
素晴らしい作品とは、私なりにいって、
「そういったあれかな?」「これかな?」といったものが、
多くの人に、共感なり、強い印象を残して、それがある程度メッセージとして、
伝わり続けたものではないかと思います。
参考にしてもらえると嬉しいです。
ふむ、ありがとうございます。引っかかりを大切に、ということですかね。
ド素人の予想ですが。
ピカソらがあれだけ評価されているのは、写実的に描くのではなくて実物とは違った形で描いているにもかかわらず、写実的に描くよりそのテーマを表現することができているからだと思います。
ただ、村上隆の16億で落札されたフィギュアは価値がまったく分かりませんでした・・・。
美術をちゃんと学んだ人に答えてもらえるといいですね。
前に美術大学に通っていた人が「片岡鶴太郎の皿が売れている理由が分からない」と言ってましたが、私にはプロが絵付けした皿との区別がつかないので。
何が違うのかもっと詳しく聞いておくんだった。
全然回答になってなくてすみません。
「写実的に描くよりそのテーマを表現することができている」
これは、見る人がそうわかる、ということとはまた別の話ですかね。自分には、どういうテーマを表現しているのかすらわからないということが多々ありますから。
ピカソの作者になんかあると思う
情報
ピカソ(1881-1973)
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20世紀最大の画家といって良いでしょう。パブロ・ピカソは1881年10月25日
23時15分、スペインのアンダルシア地方マラガに生まれました。彼の名前は
とても長いことで有名です。諸説あるのですが、ひとつの説を挙げると
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・
ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・
クリスピアノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダード・ルイス・
イ・ピカソ
というものです。日本の鈴木寿限無さんも真っ青のとんでもない長さですが
その長い名前にふさわしいだけの活躍をしました。
彼の制作した作品は91年間の生涯に全部で約8万点。平均しても2~3日に1作
のペースで制作していたことになります。だいたい年代的に分けると次のよう
になります。(異論が多くあると思います、多分)
1881-1895 初期の習熟時代
1895-1901 19世紀官学派風の時代
1901-1904 青の時代
1904-1905 バラ色の時代
1906 水飼い場の連作など
1907 大作「アヴィニョンの娘たち」を制作
1909-1912 分析的キュビズムの時代
1912-1915 綜合的キュビズムの時代
1916-1917 幾何学と抽象化の時代
1918-1925 新古典主義の時代
1925-1928 破壊と怒りの時代
1930-1934 マリー・テリーズのシリーズを制作
1935 最悪の状況。一時制作中断。詩人になる。
1936-1944 ゲルニカの制作、幾人かの恋人、共産党との関わり
1947-1950 陶芸にいそしむ
1953-1972 円熟期
彼はたくさん作品を作りましたが、たくさん女性も愛しました。私が把握
している範囲で9人の女性の名前があり、その内の2人(オルガ・ジャク
リーヌ)とは結婚しています。但し(離婚がまとまらずに籍だけ残っていた
ようなケースを除いて)基本的にはダブリはほとんどなく、原則として二股
はしないタイプだったのかも知れません。子供は有名なパロマを含めて4人。
その母は3人。
しばしば「アバンギャルド」という名前を冠する芸術家は単に正統から外れ
たことをしているだけで必ずしも先進性はなかったりするものですが、彼の
場合は真の先進性を常に持ち続けました。彼を「前衛的」とみなす人は現在
では少ないと思いますが、その時代その時代で彼は常に前衛であり続けまし
た。最初はおとなしく伝統的な画風であったのが、その美的安定性を破壊し
て、青の時代を作り、青の時代から脱皮してバラ色の時代に移る。世間で
キュビズムがはやればそれにも手を染めますが、すぐにそこから脱出して、
キュビズムを純粋なほどに高めた抽象の世界に到達し、しかしそこに安住し
たりはせずに、更に新しい境地の具象画の世界に戻ってくる。
彼という人は常に自分の殻を破り続けた人です。
ピカソについてキュビズム時代の「変な絵」を想像する人は割と多いと思う
のですが、それだけがピカソではありません。彼の絵にはとてもマトモな物
も多数あります。彼はこんなことも言っています。『木と羊と少女の絵を描
く時、その木と羊と少女を同じ技法で描くのはおかしい』それ故に彼の後半
の絵には、何とも分類の難しい絵が増えていきます。
何かと社会問題を起こす「ゲルニカ」は1937年に約1ヶ月かけて制作された
ものですが、縦3.5m、横7.8mという巨大な作品です。よくまぁこんなすごい
ものを1ヶ月で作ったものです。普通の画家なら2年掛けていてもおかしく
ない。それだけ彼の怒りが激しかったのでしょう。ピカソはフランコ政権が
成立した後は(公式には)一度も祖国の土を踏んでおらず、このゲルニカも
『スペインに民主的な政府ができるまで』ニューヨークの美術館に預かって
もらっていたものです。この絵がスペインに里帰りしたのは独裁者フランコ
が倒れた後の1981年でした。
http://www.ffortune.net/social/people/seiyo-today/picaso.htm
ウィキペディア、ですね。
岡本太郎は「芸術は爆発だっ!!」と、いいましたが、写実や印象派などの芸術とは別に、まさにこの爆発的な芸術がピカソのような前衛的な絵にはあるものです。
日本的な概念であるハレとケというものから見れば、わかりやすいかもしれません。
ハレとは、祭り、イベント、興奮、などの非日常的なもの。
ケとは、生活、仕事、計算、沈静、などの日常を表します。
普段人は日常の生活に追われ、仕事でも一つ一つ計算しながら予定を立てて行動します。
しかし、それだけではストレスがたまります。
時には日常を離れて馬鹿騒ぎをしたい。
その要求に答えるのが、祭りとか、イベントとかです。
普段とはまったく逆の異世界で、逆の価値観をもってすごすことで、日常のストレスや疲れた精神を癒します。
そのように日ごろの生活で疲れた心身を癒す、祭りやイベント的な、ハレの芸術というものがあるといえるでしょう。
写実などの絵画は美しく精緻ですが、やはり日常の延長に在るものです。
写実では0.01ミリもゆるがせに出来ない人の表情などを、完璧に写し取ります。
それは確かに優れた芸術であり、綺麗ですがありふれた日常の模倣であり、精神の開放とはなりません。
ピカソなどの絵はでたらめに見えますが、それは日常とは逆のハレに属するものであり、祝祭的な性格を持ち、日常に囚われた精神を開放するものと言えるでしょう。
質問者がただのでたらめ、子供のもの、精神に障害がある人のもの、未開の民族のもの、先史時代もの、などとよく似ているというのは在る意味正しいのです。
私はピカソの絵を見ると、興奮を感じます。
子供の絵や原始的な絵を見たときと同じように、こんな風にやっていいのかとか、ここまでやっていいのかとか、まさに祭り、イベントの時のように、日常では禁じられた行為をわざとやっているような、興奮と驚き、そしてまさに爆発的な喜びを感じます。
音楽に例えれば、写実は計算し尽くされたクラシックなどの静かな名曲、前衛はパンクやロックなどの興奮をあおる音楽と言えるかもしれません。
笑いで言えば写実は落語など、前衛はテレビのリアクション芸といえるでしょうか。
ライオンの背中に乗ったり、わにの口に手を突っ込んだり、日常ではありえない無茶をして、それを楽しみます。
日常の価値観なら、ありえないことですが、その状況を楽しんで笑ったりします。
ピカソの絵も、しかつめらしく芸術だから、まじめに見ないといけないと思ったら、楽しめません。
子供がへんな顔と見て笑うように、笑うのが正しいとさえ言えるでしょう。
ハレの世界では日常の価値観とは逆に、変であればあるほど、面白く、愉快で、楽しい、優れたものになります。
実際にピカソの絵も変でしょう。
ピカソの絵と知らずにこんなものを見せられたら、笑ってしまうでしょう。
心の中でこんなやつはいねぇぇぇぇと100回くらい突っ込みを入れたくなるでしょう。
そうやって楽しむのです。
ふむ、なんとなくわかったというか、前にもどこかで書いたような気がするのですが、確かに「野生」のようなものがあるかも知れません。大脳新皮質の部分じゃなくて、もっと奥の動物的な部分で感じるようなところですかね。
それ私もなんでか気になりますっ!
多分…誰かがこの作品はすごいって言うと、自分がすごいって思ってなくても
そうやって感じてしまうからその連鎖なのでわ?
まぁ、そういう部分もあるとは思いますが、本質じゃないでしょうね。
絵の種類によるでしょうが、「見て」いる間は理解は出来ないかもしれません。
「感じて」ください。
その作品を見るのではなく感じることが出来ればわかると思います。
で、どのようにすれば感じる事が出来るのかと言うとそれこそ人それぞれ。
たくさんの作品を見ていくうちに判るようになったとか、自分の感性とマッチした作品に出会った瞬間にわかるようになったとか人それぞれ。
好みもあるので道筋や手順を教えるという事は厳しいかもしれませんが評価されている点を強いてあげるなら個性でしょうか。
似たような絵を描こうとおもったら描けると思います。しかしそれは真似でしかありません。
ゼロからあのような作品を描くことが出来る能力が評価されていると思います。
でも、見方を変えれば多くの人には理解が難しいので紙一重といえるかもしれません。
禅みたいになってきましたね。感じる、ですか。確かにそうかとも思いますが、これがなかなか難しい。
32番の方に近いのですが、価値観とか個人差等は抜きにして、
音楽を聴くと「風景が見えてくる」とか、何故か「気分が高揚してくる」とか、
そのような聴覚情報もしくは純粋に「音」だけでない何かを感じられる。
と言うことが往々にしてある。と言うことはご理解頂けますでしょうか。
それと同じ事が絵を見ても起こるんです。
ピカソの解りやすい例で言うなら「ゲルニカ」や「泣く女」でしょうか。
あれから馬の悲鳴や女のすすり泣きを聞く人もいるでしょうし、
いやすすり泣きじゃない、号泣だ。と感じる人もいるでしょう。
素晴らしい芸術というのは端的に作者のコンセプトが感じられる物もあれば
見る人聞く人により色々な物語が書ける多様性を提供する物もあります。
直球のそれ、多様性を持ったそれ、それらが多ければ多いほど、深ければ深いほど、
「名作」と評されるのだと思います。
ああ、確かに、そういうのはいい作品だとは思いますね。そういう「何か」を無理矢理にでも言葉にしてもらえると更にありがたいのですが。
まぁ。