このような状況のとき、手術をするか、しないか、どちらを選択しますか? 理由を書き添えてご回答ください。
初めまして。E.A.Poe(知のくずかご)と申します。
主題:手術を受ける
理由:おそらく id:yam3104 さんと同じ「自分が死んでも体は残るので、体を別の精神に譲る」という理由
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以下は小生が読み取ったところの id:yam3104 さんのお考えと小生の考えを足して作り上げたものです。異論等もあるかと思いますが、小生の考えとしてお読み下さると幸いです。
小生も「記憶がなくなること≒自分が自分でなくなること(連続性が失われること)≒自分の死」と捉えます。
ですので「自分が死ぬのに体だけ生かしておくことに何の価値があるのか」と問うことに近いと考えます。
#この小生の考えは「肉体と精神は分離できる」という考えに立っているかとも思いますが、
#このような病気の場合は「肉体と精神は分離できる」と考えた方が考えやすいと思いますし、常識にも合致していますので
#このまま行きますm(__)m
さて、そうなると「手術をしないと死ぬ。すれば助かるが記憶を全て失う。取り戻す可能性はない」場合、手術をするというのは
「精神的に死を迎えるが肉体的には生きている」と捉えて良いかと思います。
では、小生ののこった肉体を受け継ぐ者はだれでしょう?他者でしょうか、小生自身でしょうか?
小生は「理屈では他者であるが直感では自分自身である」と思います。
どちらの場合でも手術を受けることは
「小生の精神をいったん殺して別な精神を宿らせる」ことをよしとするかしないか、だと思います。
#受けない場合は「精神とともに肉体も死ぬに任せる」でよいでしょう
では、せっかくですから、臓器移植をするつもりで「小生の精神を殺して別な精神を宿らせる」を選びます。
その精神が他者であるか小生自身であるか、どちらにしても「精神とともに肉体も死なせてしまうのはもったいないから、肉体だけには再利用のチャンスを与える」ということに変わりはないと考え、手術は受けます。
#この考え方を id:yam3104 さんは「臓器移植以上に簡単な結論」と述べたのではないかと小生は推測しています。
#小生もほとんどノータイムでこのような結論に至ったので「簡単な結論」に違和感を感じませんでした。
#そして「自分自身が終わるのであれば、続くものは何でしょうか?」の問いとは別なところでの判断であると思います。
#おそらく「続くものはない」と思います。しかし、手術を受けます。
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さて、実際に手術を受けた場合、どうなるんでしょうね?
小生はどこに行くんでしょう?記憶のなくなった小生になって、この質問を含むnet上の小生のいろんな足跡をたどり「わたしは、以前こんな人間だったのか」と思って
#一人称も「小生」から「わたし」に変わっているかも知れません(笑)
「以前の記憶を持った人間に近づくことに何か意味がある」と考えて調べまくるのでしょうか?
それとも「わたしは『小生』さんとは別人」と判断して新しい生き方をするのでしょうか?
そもそも「え?僕に前世なんてあったの?いつから僕がここにいるのか思い出せないけど、僕は僕だよ」と言ってそもそも興味すら持たないのでしょうか?
そして、これらを体験しているのは誰なのでしょうか?
その体験をしてみたい気もしますので、やっぱり手術は受けるでしょうね(笑)。
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お役に立ちますかどうか。
回答:しない
理由:
・全ての記憶がなくなったら主観的には死ぬのと変わらないから。
・家族や愛する人を悲しませないために手術をするか?ということも考えたが、生活の負担になったり相手のその後の人生を縛ることになってしまいそうなのでやはり拒否という結論になった。
・手術の為に貴重な残り数日の人生を捨てるより、残り数日で身辺整理をしたり、愛する人と過ごす時間に過ごしたい。
なるほど、記憶は非常に重要であるということですね。ありがとうございます。
【1】手術を受けずに死を受け入れる
記憶を失うことは我を失うことに等しいと思われるため手術は行わず死を待つ
ただし、以下の場合は異なる
【2】手術を受ける
その時点において妻や両親が存命であり、私の肉体が生き続ける事によって拠所と成す事が出来るようであれば手術を受ける
大切な人の事を考えた結果の選択が1番の方とは異なるのが興味深いですね。ありがとうございます。
手術します。
「日常生活には支障はなく」とあるので、日本語会話などはできるのでしょう。ということは、私が間違えて覚えている言葉もそのまま残っていることになるのでしょう(個人の癖のない完璧な日本語など存在しないので)。演繹して考えると、私のクセ・習慣・嗜好などは残っていることになります。
ならば、周囲から見てそれは「私の格好をした誰か」などではなくて、「記憶を失くした私」でしょう。周りがそう見るなら、手術後の「それ」は私でしょう。
それが私であるならば、私を続けるために手術するでしょう。
こういう問題よりも、「手術後は記憶が全く別の人の体に入ります」という方が悩むかな? それは私ではない気がする。
手術後のご自身のことにはあまり関心がないのか、それとも「周囲が定義付けるものが私」という感じか…。
「手術後は記憶が全く別の人の体に入ります」という部分はよくわかりませんでした。
もちろん手術をします。
手術後の人生がどうなるかはわからないけど、
手術をしないという決断はつまり自殺です。
自殺する動機は今のところないので。
仮に自殺したいと今思っていたとしても、
その記憶さえ手術によって消えるのなら、
自殺は延期して、手術をしてみようと思います。
とにかく人は生きなくてはいけない、とお考えということでよろしいでしょうか。ありがとうございます。
手術します。
今私が死ぬと悲しむ家族がいるから。手術して体に障害が残り回りの人に迷惑かけるのなら手術はしません。でも生活するのに支障がないのなら手術します。
1番2番の方に近い考えですね。ありがとうございます。
手術します。
手術しても「将来記憶が戻る可能性はゼロ」であればどちらにせよ自分自身が終わる事は確定してますが、肉体的な死を免れるのであれば手術を選びます。そして「新しい人格」に自分の体を委ねます。自分にとっては臓器移植以上に簡単な結論です。
自分自身が終わるのであれば、続くものは何でしょうか?
簡単な結論とのことですが、どこか飛躍があるように感じられます。
手術はしないと思うなあ。
もうひとり身じゃないので、自分以外へ負担をかけると思うと、ちょっと踏み切れないな。
手術が成功しても、そのあたりの葛藤は覚えていないんだし。
周囲の人たちを優先に考える方は多いようですね。ありがとうございます。
勿論するに決ってるじゃん・・・
何をバカなこと聞いてるのって感じですね。
第一、死ぬ決心がつきません、そう簡単には。
そういうもんじゃないですかね?
死ねる人なんて偉いです、すごい偉いです。
記憶がなくなったって、あっけらかんと生きていきますね。
絶対生きています、絶対手術するもんね、俺はそうだね。
そのまま死について深く考えることなくいつかポックリ死ねるといいですね。ありがとうございます。
手術をします。
私は子供の頃、両親から想像を絶する虐待を受けていました。
21歳の頃から中年の現在に至るまで、鬱と不眠で通院しています。
過去の記憶が消えるのは、むしろ好都合です。
友人との記憶まで無くなってしまうのは辛いですが、それには新しい人間関係を築いていく以外に方法はありません。
病気になってから生命の大切さを思う心が、以前より格段に強くなりました。
今死ぬわけにはいきません。
なるほど、重みがありますね。ありがとうございます。
こんな研究もあるようです。http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2531231/3457955
手術する、です。
・手術しないと、死んでしまう。
・手術をすると、(思い出等の)記憶が消えてしまう。
これによっても「今の自分」はやはり死んでしまうのとイコールだと思います。今の自分は、これまでの記憶を元に成り立っているからです。
・ただ、手術をした場合、今の自分ではない自分の肉体を持った「誰か」の人生を生むことになります。
どちらにせよ「自分」は死んでしまうのなら、せめてこの「誰か」に人生をプレゼントしてあげるのもいいのかな、と。その方が、この世の総体としてもプラスになるだろうから。
・反則技をひとつあげると、冷凍睡眠して治療法が発明されるまで待つ、という手もあるかもしれないですw
なるほど。自分はいなくなってしまうけれど、残る誰かのため、ということですね。ありがとうございます。
反則技はまぁ、ここではナシですねw
手術をします。
初めは記憶がなくなってしまうのならば、思い出もなくなってしまうのでそのまま死を迎えるほうが良いと思っていましたが、ふと、上記の人たちの意見を見て考えが変わりました。
記憶が飛ぶのでどんな性格になっているのかわからないのですが、この性格のままならば、おそらく好奇心旺盛のままだと思うので、映画”メメント”のように手術日までひたすらそれまでの記憶をノートに書き記し、それを手術後に読んで、思い出さないとしても過去の記憶を追っていくのではないかと思うし、それなら手術してもいいかと思いました。
考えが変わったというのは面白いですね。大事なものが変わった、ということですね。
私を無くしても、そうやって再び私に成ることはできるのかもしれませんね。
ありがとうございます。
手術します。
理由のひとつは、手術しないを選択するにあたって明確な理由が存在しないから。
もうひとつの理由としては、同じ境遇が他者に訪れた場合、よほどの老人、もしくは人との繋がりを
絶った人でない限りは、私は手術することを勧めるので。
助かる命は助けるべき、記憶=人の命ではない、うまく言えませんが手術をしないというのはなんか
間違ってるなと感じてしまいます。(記憶喪失や、認知症の方の人権に関わったりしますし。。。)
前提の「日常生活には支障はなく」については、「思い出はなくなるが知識は残る」と捉えています。
一般常識的な知識が残るのであれば、術後に説明を受ければ周囲を悲しませるような行動はとらずに
すむでしょう。
術後にどんな職業にも就けなくなったり、家事や子育てが全くできなくなるような状態になるのであれば、
家族で話し合っての尊厳死もありかなとは思います。(ただ、それでも私は家族には手術を勧めますし、私の家族もそうだと思います。)
なるほど。他人がそういう境遇であれば手術を勧めるというのはあるかもしれないですね。
ありがとうございます。
手術する
記憶が全て失われる時点で、社会常識などの問題で日常生活に支障がありそうですが、
そのあたりを無視して、周囲に迷惑をかけない生活が可能だとすれば手術します。
記憶をなくす事はそれまでの自分の死と言えるような出来事ですが、
どっちにしても数日でその状態になる(死を迎える)なら、
もう一度リスタートしてみるのも、それはまた一興です。
リスタートですか。いいですね。ありがとうございます。
あーこれは絶対手術します。
今までを全部忘れてしまうのは嫌でも、命の方がやっぱり大切ですから。
シンプルですね。というか普通の人はそうなんですね。ありがとうございます。
手術します。
11のlewさんにもありましたが、手術まで動画をとってもらったり、今までの自分の生きてきた証をそろえて、術後自分で見てみたいです。
記憶がなくなるとありましたが、日常生活には支障がないとの事なので、教育や知識がそのままであれば人に迷惑をかけず、最低限人らしい生活は出来ると思います。
記憶のない自分が残した痕跡をどう受け止められるか第三者的に興味があるのも本音です。
この好奇心さえ現在の記憶の積み重ねであるとなると術後の自分には負担かも知れませんが。
それなりの痕跡があれば、案外それが自分なのだと受け入れられるものかもしれないですね。
ありがとうございます。
回答:手術をする
理由:してもしなくても同じだから、遺伝情報を残す。できれば小説などの形で、記憶の部分も残しておく。
これが手術をしなければ10年生きられるけど、すぐ手術をしないと効果がない、なら悩むと思います。
この場合は年数とそのときの気分によりけり。
10年なら10年のうちに画期的な解決法が出るのを狙ってそのままかな。3年だと悩みどころですね。
遺伝情報を残すという発想はなかったです。ありがとうございます。
手術します。
「現在の私の精神の死」が、「現在の私の真の死」と同等だとは、私には考えられません。手術で二度ほど全身麻酔の経験がありますが、意識を失って行く瞬間、死を考えました。手術でさえ、恐ろしいです。死なないと信じているからそれを受け入れる事が出来ているだけで、本当に何もかもが失われる事が分かっている「本当の死」を選ぶ事は、何よりも恐ろしい。苦しいかもしれない、痛いかもしれない。そういう具体的な苦痛だけでなく(もしそれが無いという保証があったとしても)、死に対する未知の、得体の知れない本能的な恐怖があるがゆえに、手術をしない選択は無理です。
「私」はもう目覚めないかもしれないけれど、私に訪れるのは真の死では無い。その事を希望に手術を受けると思います。その後の私は「別な私」に違いないでしょう。でも、「別な私」には何も残らないワケでは無く、家族や友人もある。きっと彼らは、「別な私」を死んだようには生かさないし、私自身、死んだようには生きない人間だと思います。
偶然ですね。自分も2回全身麻酔の経験があります。あれは睡眠とはまた少し違った奇妙な感覚ですね。
とは言え、上で考えていらっしゃるようなことを突き詰めたら、夜も眠れなくなってしまうのではないですか? 眠って、そのまま目が覚めないのが、たぶんそれです。
手術する。
例えば、手持ちの蔵書をすべて売払ったとしても、また買い直せばいいやとそういうところで。生きれてば再度記憶が蓄積されていくからね。旧宅から引越しの時に持ってきた荷物が、未開封でそのまま放置ってなパターンと同じで、過去の記憶のすべてが必須というわけでもないし、逆に言うと不要な(忘れてしまってもいいような)ことも多数含まれているかと。(´ー`)y-~~。
そうですね。実際は、生きている今の記憶だってだいぶあやふやなものですよね。
記憶をなくすくらい大した話ではないのかもしれません。
手術します。
忘れたくない思い出は手書きでノートに書いて手術後に読み返そうと思います。
筆跡は変わらないと思うので自分が書いたものとわかるかなと思います。
記憶・手がかり・痕跡を残してく系の考えですね、ありがとうございます。
手術をします。
幸い、自分は、HDDやhatenaサーバーに10年以上前からの日記や作文を取ってあるし、親兄弟親戚友人も大勢いるので、話を聞けます。
現在の収入源となる専門知識が失われるのは困りますが、貯金さえあれば、また新たな気持ちで自分とその周囲の環境を見直すことができるのは逆にいいことかもしれません。
まあ、手術後は怖くてストレスもあるとおもいますし、自分の体調を管理するノウハウも失せるとすれば、そんないいことばかりではないとおもいますけど・・。
嫌いなものを避けて通るすべをちゃんとおぼえるまでは大変でしょうね。
同様の考えの方が比較的多いようです。ありがとうございます。
手術します。
ただ、まず今覚えてることを急いで書き出して(メモ帳などに)
それからです。
さらにそのメモはすぐわかる位置においておきます。
またメモの1ページ目に
自分は yyyy'年'mm'月'DD'日' に手術して今までのことはすべて忘れました。
なのでここにそれまでのことを書きました。
と書きます。
具体的ですね。ありがとうございます。
数日以内に死ぬことが確定してる場合は
手術をします。
理由は簡単です。
数日後には死ぬので、そのときには記憶が消えるのは確定するからです。
で、生まれ変わりあるのかどうかは不明ですが、
手術すれば、生まれ変わりと同じになります。
記憶が消えてまで、生きていても、同一人物として生きるという意味にはならないですが
死ぬのはいつでもできるので、とりあえず手術してみる。
「理由は簡単です」から次の行へのつながりがよくわかりませんでした。
手術をすると思います。
只、死を待つだけか、それとも生まれ変われる様な
チャンスがあるのなら、チャンスのある方を取ります。
それと、数日以内ということなので、
とりあえず丸一日はパーッと遊んで楽しんでからw
あと手術を待つ間に、未来の自分への手紙を書きます。
この人生で得た素晴らしいことや、より良い人生のための
生活の知恵など、良いことだけは伝えておきたいからです。
タイプは早いので、待ち時間に一気に書き上げます。
…いや、これは日常から、日記とか自伝として書きためておくべきかな?
一説によると、記憶は脳だけに蓄えられているのではないそうです。
俗にいう魂だとか、心臓などの臓器移植を他人から受けた人が、
提供者の生前の不思議な追憶の体験をするとかいう話もありますが、
脳による記憶は例え戻らないとしても、何らかの情報を残しておけば、
そこから学び、再び、少し違った形ではあっても、なんらかの
自分らしさを学習・習得していくことは可能かもしれません。
なので、例え過去の記憶は戻らないとしても、
新しい人生において、新たな良い思い出が再び作れるように、
前向きなメッセージを残すと思います。
とても前向きな考え方ですね。ありがとうございます。
記憶はいわゆる脳だけに蓄えられているのではない、という話は聞いたことがあります。
(まぁ魂というのはどうかと思いますが…)
手術しません!
なぜなら、もし死ぬんだったら今までの人生を振り返りたいし、
記憶がなければ、日常生活には支障はなくても、結果的に知らない人ばかりになってしまうので、
精神的に死んだような状態になり、そのまま暮らすのはイヤだからです。
ここまで、手術をしないという人はかなり少数派みたいです。
もう少し多いかと思っていたのですが。
手術しないで死を選ぶ
理由は、記憶が消えていると家族に迷惑をかけるので。記憶がない=死んだも同然と考えます。
なるほど。
なんとなく、思ったのですが、というか当然ですが、今まで生きてきた中での経験がこの問題の回答へも反映されるわけですよね。
ありがとうございます。
手術しますね。
人生は死んだら終わり。たとえ記憶が無くなったとしても、そこからがスタートだと信じ、そこから、希望、記憶をつくりだし、ふつうにくらしていけば、だれも悲しまない。親だって、息子、娘の元気な毎日が生きる希望なのだから。
逆にこういう質問をはてなでするものではありません。 次に質問する時には、こういうことをきちんとふまえてから質問をしなさい。
わかりましたね?
結局は真っ当な回答をされる方が世の中を支えているのだろうと思います。
嫌味ではなくほんとうに感謝しています。ありがとうございます。
自分は手術します
自分は、今を生きるという馬鹿な生き方しかできませんからwww
そんな、死んだらどうなるだとかそんなの自分の脳では、わからないですからwww
すばらしいw いい回答(という言い方もおこがましいですが)ですね。説得力がすごくあります。
ありがとうございます。
回答:手術をする
ひとつ気がかりなのは…、「今のわたし」(手術前のわたし)には、手術後のわたしとは関係がなさそう、ということです。手術をしたとしても、「今のわたし」にはそれを実感する術がなさそう。連続性がなさそう、というか…。
しかし、ひとつ言えるのは、私は自分が生まれる前の記憶は持っていないということです。私は、私が生まれる前の世界を知りません。存在したかどうかもわかりません。正確には、私が生まれる前の歴史を、知識や情報で得ることはできても、その場に私はいなかったのです。
おそらく、日常生活に支障がないということは、赤ちゃんの状態とは違うと思いますが、意識としてはそのようになるのではないかと思います。そして、おそらく断片を探していくのだろうと思います。何でここにいるのか、生きてる意味はなんなのか、とか考えだしそうです。(私の場合は、かもしれません)。
親に聞いたことがあります。親世代の若い時の社会情勢、さらに突っ込んで、何で生んだのか、生まれる前は父と母はどこで出会ったのか、生まれるときはどういう状態だったのか、とか。(いつセックスしたのか、何でセックスしたのかは聞いてませんw)幾分かの誇張はされてるでしょう。
しかしそうすると、私がいなかった世界の、何となくイメージは出来るんですよね。あくまでイメージなんですが…。しかし、それを記憶の欠如だと意識してしまうならば、そういった断片やイメージが、いわば義足や義手のような、補強するものに近いのかもしれません。そうして、私がいなかったときの世界を知り、今ここにいることを確かめながら、「今のわたし」に成っていく、のかな?(実際、親にしつこく聞いたことで、私のそういった不安が幾分か解消されたので…。)
あと、気になることと言えば、手術前が犯罪者で極悪人だったらどうなのか、とか、いわれもない借金の催促されたらどうしようとか、ありますがw
もう少し若いときならば、手術しない、意味がないと思ってしまったと思うのですが、若干年を重ねてきたので、手術する方に賭けてみた方が面白そう、と思いましたw 長々と失礼いたしました。
なかなか深く考えていただけたようで、質問のしがいもあった感じです。
そうですね。言ってしまえば、この人生もそのようなもの、そのような経過を辿った結果が今の状態なのだ、ということも言えてしまいますよね。
ありがとうございました。負債はぜひ放棄したいですねw
手術をします
記憶をうしなっても命の方が大事です
でも、100%の確立じゃなかったら
答えは変わっているかもしれません
100%手術が成功するわけではない(=死ぬかもしれない)という場合は変わるかも、ということでしょうか。
手術します。
そこから再スタートできると思うからです。
記憶は消えてしまっても、心や身体は残っているのですから、そこからまた生きていくことを選びます。
死んだらおしまいですが、記憶が飛んでも生きていればおしまいではありませんから。
リスタート派の人と、なんとか記憶を引き継ごうと頑張る派の人がいるのでしょうか?
ありがとうございます。
手術しまーす。
私は結構細かく日記をつけてきたので、それをまるまる記憶として取り込みます。
これは今でも日記を読み返して「こんなことあったんだ?」と記憶していないこともあったということで、記憶なくなっても書いたものがあればそれが記憶になるなあということで。あれですね、外付けのハードディスクみたいなもんですかね。って。似たようなこと書いてる人いますねー。
自分もいちおうはてなダイアリーで毎日書いてますが、書いたものを読み返すことはしないですね。
たまに必要があって検索して読むと、書いた内容を覚えておらず、自分の文体を真似た他人が書いているように思えてきて居心地悪いです。
外付け派の人は一定量いるようですね。
ありがとうございます。
初めまして。E.A.Poe(知のくずかご)と申します。
主題:手術を受ける
理由:おそらく id:yam3104 さんと同じ「自分が死んでも体は残るので、体を別の精神に譲る」という理由
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以下は小生が読み取ったところの id:yam3104 さんのお考えと小生の考えを足して作り上げたものです。異論等もあるかと思いますが、小生の考えとしてお読み下さると幸いです。
小生も「記憶がなくなること≒自分が自分でなくなること(連続性が失われること)≒自分の死」と捉えます。
ですので「自分が死ぬのに体だけ生かしておくことに何の価値があるのか」と問うことに近いと考えます。
#この小生の考えは「肉体と精神は分離できる」という考えに立っているかとも思いますが、
#このような病気の場合は「肉体と精神は分離できる」と考えた方が考えやすいと思いますし、常識にも合致していますので
#このまま行きますm(__)m
さて、そうなると「手術をしないと死ぬ。すれば助かるが記憶を全て失う。取り戻す可能性はない」場合、手術をするというのは
「精神的に死を迎えるが肉体的には生きている」と捉えて良いかと思います。
では、小生ののこった肉体を受け継ぐ者はだれでしょう?他者でしょうか、小生自身でしょうか?
小生は「理屈では他者であるが直感では自分自身である」と思います。
どちらの場合でも手術を受けることは
「小生の精神をいったん殺して別な精神を宿らせる」ことをよしとするかしないか、だと思います。
#受けない場合は「精神とともに肉体も死ぬに任せる」でよいでしょう
では、せっかくですから、臓器移植をするつもりで「小生の精神を殺して別な精神を宿らせる」を選びます。
その精神が他者であるか小生自身であるか、どちらにしても「精神とともに肉体も死なせてしまうのはもったいないから、肉体だけには再利用のチャンスを与える」ということに変わりはないと考え、手術は受けます。
#この考え方を id:yam3104 さんは「臓器移植以上に簡単な結論」と述べたのではないかと小生は推測しています。
#小生もほとんどノータイムでこのような結論に至ったので「簡単な結論」に違和感を感じませんでした。
#そして「自分自身が終わるのであれば、続くものは何でしょうか?」の問いとは別なところでの判断であると思います。
#おそらく「続くものはない」と思います。しかし、手術を受けます。
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さて、実際に手術を受けた場合、どうなるんでしょうね?
小生はどこに行くんでしょう?記憶のなくなった小生になって、この質問を含むnet上の小生のいろんな足跡をたどり「わたしは、以前こんな人間だったのか」と思って
#一人称も「小生」から「わたし」に変わっているかも知れません(笑)
「以前の記憶を持った人間に近づくことに何か意味がある」と考えて調べまくるのでしょうか?
それとも「わたしは『小生』さんとは別人」と判断して新しい生き方をするのでしょうか?
そもそも「え?僕に前世なんてあったの?いつから僕がここにいるのか思い出せないけど、僕は僕だよ」と言ってそもそも興味すら持たないのでしょうか?
そして、これらを体験しているのは誰なのでしょうか?
その体験をしてみたい気もしますので、やっぱり手術は受けるでしょうね(笑)。
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お役に立ちますかどうか。
ありがとうございます。
自分も、この質問をする前は、回答傾向の予想と自分自身の回答を持ってからしているわけです(どんなものかは明かしませんが)。
しかしみなさんの回答を読むうちにいろいろ考えさせられることがありました。
多くの人は、単純に、当然に、生きられるのならば生きることを選ぶ、無意味な死を良しとしないのですね。(仰られるように、ここでいう死は肉体の死ですので、肉体>精神なのでしょうかね)
「理屈では他者であるが直感では自分自身である」という部分、なんとなくわかります。それを掴んでいる人は、手術することを選ぶような気がします。
します。
「生きていられるということが最も幸せなことだ」
たとえ記憶がなくなってしまってもその後の人生をどう歩むかはその人しだいだと思うからです。
諦めなければ希望はあると思います。
私だったら死を選ぶと思います。
今まで一緒に暮らしてきた家族とは別れたくないですが、一緒にいた記憶を無くして生き続けるのは悲しいです。
友達とも過ごしたいですが、仲のよかった頃を忘れて相手に冷たく当たってしまいそうで怖いです。迷惑もかかりますし。
でも、実際そのような事態になったら、また別の意見になっているかもしれません。難しいところです。
手術するでしょうね。
さて、問題となる記憶を失って生き延びた人物が自分であるか、ですが。
そんなモンやってみないと分からんし、第一「記憶を失う私」にとっちゃ知ったこっちゃない。
その辺は考えても無駄なのでとりあえず棚上げ。考えない。
仮に記憶を失ったモノが私であるなら。
生きてるだけで丸儲けなんて言うつもりはないが、それなりに楽しく生きてるならまあ儲け物だし
記憶を失って苦しんでいるなら自業自得だ、過去の自分を呪うがいいと嗤ってやるし
「生きるのが辛いなら勝手に死ねばよかろう」と自分のために遺書(?)を書き残すくらいはしてやっても良い。
死因を病気に拘る必要性は特に見当たらない。
しかし記憶を失ったあと生きていくのが私ではない誰かだと言うのなら。
手術する、しないに関わらず私という存在が消えると言うのなら。
手術しないことによって死ぬのは私ではなく、殺されるのは「私ではない誰か」だ。
人生最後の決断が何者かも分からん奴との心中、というのはあまり心楽しい想像じゃない。
手術します。
余命○年とか言われるのとは別ですけど、
生きられる選択があるのに、命を絶つのは弱気な人だね。
最初は真っ黒な人生で怖いこともあるけど、諦めず生きていけば必ずいいことはおきると思ってます。
手術を受けます。
記憶を失っても何かをきっかけに戻る人はたくさんいるし、いくら忘れたとしても家族と永遠に会えないのは悲しすぎるし、またそこから新しい人生を歩み続けます。
【回答】
迷わず手術を受けます。
【理由】
たとえ記憶を失おうと、生きていきたいです。
「単純に、当然に、生きられるのならば生きることを選ぶ」というのは仰るとおりです。
記憶は“私”を構成するピースのうち大変重要なものですが、同時にピースのうちの一つにすぎません。
「手術後も日常生活には支障はなく」という点から身体性は継続すると考えますと、自らの意思のもと、自分の声で喋ったり、自分の足で走ったり、自分の歯でものを咀嚼したりという行為を変わらず行えるのなら、絶望して死を選ぶ必要性を感じないと思います。思考したり、喜怒哀楽を感じることもできるようですし。
記憶を失う前の自分をさまざまな痕跡から辿ってみたり、心機一転美味しいものを食べたり美しいものを見に行ったりして、新たな人生を切り出したいですね。
【余談ですが】
こちらの質問を見ていて、ちょっとケースは異なりますが、認知症の父方の祖母が頭に浮かびました。祖母は一番幸福だった幼年時代に幼児退行をしており、自身が80代の高齢者であること、結婚していて夫がいたこと、息子と孫とひ孫がいることなどを一切憶えていません。私や父が目の前にいても「あなたどちら様?」と無邪気に尋ねてきます。おそらく二度と私の父を息子として、また私を孫として認識することはないでしょう。それでも家族としては生きていてくれるだけでも喜ばしいです。祖母が幼年期以降の人生を思い出せなくなっても、周囲にいる人たちが祖母の人生を憶えていようとするなるなら、それはそれで幸福なことなのではないかなぁと思います。
ありがとうございます。
自分も、この質問をする前は、回答傾向の予想と自分自身の回答を持ってからしているわけです(どんなものかは明かしませんが)。
しかしみなさんの回答を読むうちにいろいろ考えさせられることがありました。
多くの人は、単純に、当然に、生きられるのならば生きることを選ぶ、無意味な死を良しとしないのですね。(仰られるように、ここでいう死は肉体の死ですので、肉体>精神なのでしょうかね)
「理屈では他者であるが直感では自分自身である」という部分、なんとなくわかります。それを掴んでいる人は、手術することを選ぶような気がします。