THEME:「行楽に旅行にお食事!家族でお出掛けの思い出」
“ディア・ライフ”=『親愛なる日々』。イエは暮らしと人生の舞台。「LIFE」という言葉に、生活と人生の2つの意味をこめて、イエと家族のストーリーを語り合いませんか? 心のページに刻まれた思い出も、現在のイエでの愛しいワンシーンも。毎回のテーマに沿って素敵なエピソードを、豊かな暮らしを創っていく〈イエはてな〉のマインドで投稿ください!
*回答条件* 下記のページをご覧になってご投稿くださいね!
「Welcome to イエはてな」
http://d.hatena.ne.jp/ie-ha-te-na/20080731
テーマ詳細とアイデア例
http://d.hatena.ne.jp/ie-ha-te-na/20110518
※ピックアップ受賞メッセージは、〈みんなの住まい〉サイトにて記事紹介させていただきます。またメッセージは表記統一や文章量の調整をさせていただくことがございます。
※〈イエはてな〉では、はてなスターを「おすすめメッセージ」として活用しています。投稿期間中ははてなスターのご利用を控えていただけますようお願いいたします。
※質問は5月23日(月)正午で終了させていただきます。
「ねぇ、スイーツ食べ放題に行こうよぅ」。東京で一人暮らしをしている親戚の女の子が言い出しました。なんでも、とてもおいしいカフェが不定期に開く貴重なイベントとのこと。大学生はこういう情報が早いですね。母は一も二もなく大賛成。女同士ではつまらないからみんなで行こうということになって、父も私も同行することになりました。開催日は平日なので、まず私と父は有休を取ることから。無事日にちを合わせて休みが取れたので、その日に合わせて予約を入れました。
場所は結婚式場もあるホテルの中のカフェなので、一応男性陣はネクタイ着用で出かけました。母もちょっとお洒落していました。父は嬉しそうでした。親戚の女の子もかわいいワンピース。へー、こんな服持ってたんだ。うちの両親は人前でも臆面もなく手を握り合って歩きます。私と親戚の女の子は、ちょっとテレて後ろを歩きました。
カフェに着いて、いよいよ食べ放題がスタートです。お一人様持ち時間は90分。私と父は先を争うように手当たり次第取って口に放り込みました。女性陣はそれを見て笑っています。「もー、ここはパティシエが一つずつ手作りしているお店なんだから、ちゃんと味わって食べないと失礼よ」。へいへい。それはすまんことです。
女性陣は、量より雰囲気。優雅にゆっくりと味わっていました。おいしい~、甘すぎない繊細な風味ね、色もすてき~と、食べるより会話が弾んでいます。しかし私と父は焼肉食べ放題などの気分が抜けず、90分でどれだけ食べられるかのフードバトル気味。食べるのに大忙しで、ほとんど会話がありません。当日用意されていたスイーツは十数種類。これは食べ放題では少ない品数らしいですが、それでも全制覇は出来ませんでした。
はい、タイムアップ。私と父は、くやしい~、全種類制覇はやっぱり無理だった、時間が足りなかったよな~と敗軍の将気分。これに対して女性陣は、なんて充実した90分だったのかしら、どれも本当にていねいに作ってくれているのが伝わってきて至福の時間だったわぁと、うっとりとした表情でした。この違い。心の豊かさの違いですねぇ。ちょっと反省でした。
帰りがけのおみやげに、数量限定という貴重なシフォンケーキを購入。そのあとは繁華街を散策して、ウィンドウショッピングなどをして楽しみました。父と母はまた仲良く手をつないで歩いていました。時々目と目を合わせて微笑み合うのがとてもいい雰囲気です。
「私、おじさんとおばさんみたいな夫婦が理想だな」。親戚の女の子がそれを眺めて言いました。「ああいう夫婦は滅多にいないな、俺もああいうのが理想だけど、自分がなれるかといったら自信がない」。そういうと、親戚の子は、「なれるよ、あの二人から遺伝子もらってるんだから。私も東京に出てきて、おじさんとおばさんをずっと見てきて、自分の中の遺伝子にもそういうのがあるって気付きはじめてる」というようなことを言っていました。これは最高の誉め言葉でしょう。
小学生のころの話ですが、家族で釣りを兼ねたドライブに出かけました。車は川上を目指します。だんだん農村地帯に近付いてきて、道の脇に小さな田んぼが点々と見えはじめました。まだ田植え前の季節ですから人はいません…と思ったら、小さな田んぼの畦に座っている人がいました。
あれ、様子がおかしいぞ。父はゆっくりと減速して、田んぼをちょっと過ぎた所で左端に寄せて車を止めました。「あの人、足を痛めたんじゃないかな」。父は車を降りて、田んぼに向かいました。しばらく何か話しているようでしたが、戻ってきてドアを開けると、「突然足が攣ったそうだ、医者にいくほどじゃないと言っているけど、とても仕事にはならないらしい、どうだ、今日は予定を変更して、みんなで田んぼ仕事を体験してみないか」。
釣りをする予定だったので、全員フィッシングブーツを用意してきています。これでばっちり田んぼに入れます。よし、やろうということになって、Uターンをして車を田んぼの横につけました。
「おじさん、これがうちの家族。今日は畦塗りでしょう?我々でやりますよ。こう見えても私も農村出身。地域が違うと流儀も違うと思うけど、まぁ任せてくださいな」。
父はいきいきとして、鍬を受け取って田んぼに入りました。
「畦塗りっていうのは畦の修復作業のことだ。こうやって泥を畦に塗り付けて割れた所や穴などを埋めていく防水作業。そうだよね、おじさん」。
作業はまず畦を削り、掛け矢(全身で振り下ろして使う大きな木槌)で畦を叩いて固める事から始めるそうです。そこまではもう終わっているので、今日は田んぼの土を捏ねて畦に塗りつけていく作業です。
「大きな田んぼなら今はトラクターでやっちゃうんだけどね、このくらいの田んぼは今でも手作業。この畦塗りが一番重労働だよね、おじさん」
父は鍬一つで器用に土を練って畦に塗りつけていきました。私も小型の鍬を借りて真似してみますが、土を練ることすら出来ません。
「土の上を鍬で撫でてもだめなんだよ、もっと腰を落として、落とした分だけ土の下を掻いていく気持ちになるんだ」。「こ、腰痛いよ」。「それが田んぼの仕事なんだよ」。「体に悪くない?」。「んー、筋肉が弱いと骨にくるかもね」。「ひぇ~」。
私は塗った後の土を鍬で撫でて平らにする係になりました。これなら少しは楽ですが、やはり大変な重労働でした。
「昔の子供は、お前くらいの歳にはみんなこういうの手伝ってたぞ。ねー、おじさん」。
おじさんは無口な人でしたが、だんだん会話が多くなってきて、色んな話を聞かせてくれるようになりました。母はおじさんの隣りに座って、お茶を勧めたりお菓子を勧めたりしていました。
泥の中を進みながら、一鍬一鍬畦を仕上げていきます。小さな田んぼですが、一周するまでには大変な時間がかかりました。いつのまにか夕暮れになって、町の放送のチャイムが鳴り響きました。
「ふー。この音が聞こえたら作業終了だ。おじさん、こんなもんでええかいのう」。父はいつの間にか田舎言葉になっていました。「てーしたもんだ。お前さんほんとに農村の人じゃのう。このお礼をどうしたもんか」。「そんな事より足はもうええのか」。「すっかりほれ、この通り」。「そりゃぁよかった、じゃわしらはこのへんで」。「うち寄ってばあさんの作るもんでも食ってくれんかのう」。「そりゃ嬉しいけど、わしらももう帰らんと。ほれ、おじさんから帰ってくれんと心配でここ離れられんから、耕運機に乗った乗った」。おじさんは、すまんですのう、すまんですのうと何度も言いながらリヤカーの付いた耕運機のエンジンを掛けて、バタバタと走り去っていきました。
父は泥まみれでした。私も泥だらけ。その姿で車に乗り、途中で見つけたお店でおにぎりを買って食べました。おにぎりを買いながら、父が私に言いました。「どうだ、泥んこで恥ずかしいか?」。私はしばらく考えて、働いた証拠だから恥ずかしくないと答えました。「よし偉い。今日は日本を支える米作りに参加したんだ。この格好は名誉だな」。「うん、誇りだね」。「ホコリというかドロだけどな」。最後はオヤジギャグでしたが、農村育ちの父がたくましく頼もしく見えた一日でした。
久々に昔のアルバムを開いたら今から十年ほど前になる、新婚旅行として能登へ旅行をした時の
写真が飛び込んできました。
今より、ちょっとばかり細く、皺やシミがまだほとんどない私wと、その隣に今より髪のふさふさした夫と、
元気な祖母の笑顔の姿、そして背景には美しい能登の風景が写っています。
最近は忙しく、新婚当初のことを振り返ることも少なくなってしまったけれど、今でも大切に使っているお碗たちはこの時に
祖母からいただいたのだと想い出しました。
新婚旅行の写真になぜ祖母が?と思ったことでしょうが、当時祖母の親友が入院されて、その祖母の親友の住むマチ、能登へ祖母が会いに行く
のに、ちょうど能登へ向かう私たちが送りがてら能登の途中まで一緒に旅をしました。
車の中で昔、祖母が親友と能登で過ごした頃の想い出話を聞きました。
波打ち際を親友と散歩した際に「ずめ貝」や「しただめ」と呼ばれている貝を採ったりしたそうです。
二人とも靴を脱ぎ裸足になって、浅瀬をチャプチャプしながら、貝獲りに夢中になったそう。
そんな祖母の若い頃の無邪気な話を、初めて聞きました。
(ちなみに、獲った貝は、調理して美味しくいただいたそうです。)
また名物の輪島塗についても祖母から教わりました。
輪島塗には約六百年もの歴史があること。
そして伝統の技術は重要無形文化財であり、良質の能登ヒバを選び、数年の自然乾燥、
手技による工程で作り上げること。
そのため輪島塗は日本を代表する漆芸であり、世界に誇るべき文化といえるそう。
漆を何度もかける工程、仕上げである金粉を埋め込む「沈金(ちんきん)」や金粉で模様を描く「蒔絵(まきえ)」など。
輪島塗が高価なのは、ずいぶんと手間暇のかかるものだからということがよくわかりました。
この能登への新婚旅行は夫の希望でした。
数年前に会社の慰安旅行で初めて能登に行き、その時に食事の美味しさ、景色の綺麗さ、人々の温かさに大変感動して、
「必ずまた行きたい!!」とずっと思っていたそうです。
私は能登へは初めてだったので、夫から聞いた人情味豊かなマチに、美味しい獲れたての能登の海の恵み、
そしてガイドブックで調べた、のとじま水族館のイルカのショーと、御陣乗太鼓を楽しみにしていました♪
祖母と別れてから向かった水族館には、能登半島近海に生息する魚介類を中心に全国から集まった色とりどりの魚があふれていました。
夫からアザラシと私が似ていると言われ、ちょっとしたケンカになりかけたのも、今ではいい思い出ですw
その日泊ったのは、地元の小さな旅館でしたが、獲れたての海の幸と地元食材をふんだんに使った、とても美味しい夕食をいただきました。
それまでよくわかっていなかった、いくらの美味しさに目覚めたのはこの旅のおかげです。
また、仲居さんをはじめ、従業員の方々の接客が大変素晴らしく、心身共にとても癒されました。
ほろ酔い加減の私たちは、浴衣のまま少し歩いて、御陣乗太鼓を見にいきました。
初めて見る和太鼓の迫力あることといったら!そのリズムと音は、まるで体にぶつかってくるようでした。
翌朝は、早起きをして輪島朝市に。
「あれもそれもこれもつけて千円にしとくよ!」
「これもお買い得だよ~買っていって~。」
「こっちは昨日うちのばあちゃんが作ったんよ~」
元気なおばちゃんたちの掛け声に、あれもこれも素敵だと、帰りには両手いっぱいの名産品を抱えていました。
高価な輪島塗の器には手が出せないけれど、せっかくだから輪島塗の夫婦箸を記念の品にしようと、箸はたくさんある中から、
柄と色艶にこだわって一番しっくりくるものを選び、これからの私達の幸せを願いました。
双方の親へのお土産には脂が乗りふっくらとしておいしそうな干物と、蟹を選びました。
そうして旅行から帰ったら一足先に戻っていた祖母から「素敵なお碗があったからどうかな?と思って」と、いいな~と
思いながらもあきらめていた輪島塗の汁碗をお土産にいただいてびっくり!そして感激しました。
その輪島塗の汁碗は、手にすっぽりおさまって、何とも言えない優しい手触りで今も大切に使い続けています。
いつか娘が結婚する際には、私達から夫婦箸とお碗を贈ろうかと夫と話したこともありますが、まだずいぶん先の話です。
そうそう、あの「のとじま水族館」には新しくジンベエザメ館もできたとか。
当時は日程の都合で行くことが出来なかった能登の最北端など、能登には是非もう一度、
そして今度は娘も連れてゆっくり訪れたいと思っています。
近所に回転寿司屋が出来ました。母は、行ってみたい、行ってみたいと大騒ぎ。私と父は、ハイハイという感じでお付き合いですが、母の気合いの入れようといったらありませんでした。母にとってはそれが初めての回転寿司だったからです。
オープン初日は混んでゆっくり出来ないだろうからと、少しずらして平日の夜に行くことにしました。一刻も早く行きたい母の希望もあって、イエには帰らず、私と父は仕事帰りに寿司屋さんに直行でした。約束の時間より早く着いたのですが、もう母はお店の前で待っていました。食べる気満々です。
しめしめ、やはり平日の夜ですから、わりと空いています。どこに座っても良さそうだったので、どこにしようかと考えていると、母は一人でどんどん歩いていってしまいました。母が選んだのは、一番威勢良く声をかけてくれた板さんのちょっと後の席でした。むむ、出来る!たしかにここがベストポジションです。板さんの近くなら気軽に握ってほしい物をオーダーできますし、回ってくる寿司も最初に取れます。初めてにしてはよく研究していました。
父はセルフの上がりを、みんなの分を取って持ってきてくれました。父はいつも、こういうサービス精神に溢れています。さて、何からいきましょうか。とりあえず初めてのお店なので、回ってくる寿司を一巡観察です。回転寿司と言っても、高級志向のお店から、安さで勝負のファミリー向けまで色々ありますが、このお店は典型的なファミリー向けでした。
父はまず、イカの皿を取りました。母はカッパから。私は白身魚です。それぞれ野球の打順を決めるがごとくに食べる順番を考えているようですが、やはり〆はマグロで行きたい様子。ところが次に母は変化球に行きました。「すいませーん、今日のお勧めは何ですかぁ」。「筋子だね。筋子の握り。こぼれるほど大きなネタでいっちゃうよ」。「じゃ、それ!!」。これはまた食べにくそうな物を。こういうのは二口に分けて食べようとすると悲惨なことになりがちです。でもここの板さんは親切でした。「お待ちっ。豪快に一口でいってくださいね」。大口開けてパクッといった母の顔がほころんでいました。さすがお勧め。いいネタだったのでしょう。
父はイカに続いてはアオヤギでした。こういう歯触りのいいネタが好きみたいです。私はエビにいきました。母は創作寿司系に冒険。うわー意外、うわー面白い、うわーおいしいと大はしゃぎでした。こういう普通のお寿司屋さんでは出来ない楽しみに行くのも有りですね。私と父は最後はマグロにたどり着きましたが、母は最後まで冒険をし続けました。
ふー、お腹一杯です。店を出てからも母の興奮はおさまらず、あれおいしかったよ、みんなもああいうの食べればよかったのにとか、次はあれとあれとあれを食べたいなどと、大はしゃぎを続けていました。父がまた行こうなと言うと、母は子供のように「うん!」と満面の笑みを浮かべて答えていました。母にとって回転寿司は一種の遊園地。こういう無邪気な母も悪くないと思いました。
母はクラシック音楽が大好きでした。自身はピアノを愛する人でしたが、室内楽も大好きでした。でもなかなか生の音楽に接する機会がありません。そんな母が行きたいと言い出したヴィヴァルディのコンサート。家族で出かけることになりました。
交通機関は電車です。その行きの車内で、母はもうヴィヴァルディを語りっぱなしでした。
「ヴィヴァルディは父親もヴァイオリニストでね、小さな頃からずっと習って育ってきたのよ」
「ヴィヴァルディはすごい数の曲を遺していてね、協奏曲だけでも500曲以上。あまりに多すぎて、今も見つかっていない曲がたくさんあると言われているの」
「オペラも今発掘されているだけで50何作品。でも本人は94のオペラを作ったと手紙に書き記しているらしいのよ」
「ヴィヴァルディの作曲はすごいスピードだったそうよ。協奏曲なんか全パート一気。まるで天国にある曲をそのまま書き写すみたいに楽譜を書いていったんだって」
語り始めると止まりません。だんだん興奮してきて、声がでかくなる!! 隣で父が、うんうんと頷きながら苦笑していました。
さて、駅を降りて会場に向かいます。駅からは少し歩きます。普段の母は、早く~と催促したくなるほどゆっくり歩く人でしたが、この日ばかりは歩調が早い!! どんどん先に行ってしまいます。どれほどコンサートを楽しみにしているのかがよく分かりました。
会場到着。さすがクラシックのコンサートです。ロビーには上品な気が漂っていました。さっきまで興奮しまくりだった母も、おすましして静かにロビーの椅子に座っています。父と私でひっそりナイショ話。
『お母さん、静かになっちゃったね』
『さっきまでとは別人だな』
『でもほら、電車の中で一緒だった人がけっこういるよ』
『本当は騒々しい人だってバレてるな』
『うひひひひ』
そんな私達を見て、母は「静かに待ってなきゃだめよ」なんて言っています。はーい、わかりました~。
そうこうしている間に1ベルが鳴りました。開演5分前です。全席指定ですが、席を探すと前の方の中央寄り。素晴らしい席でした。本ベルが鳴ると、ざわついていた客席が、波を打ったように静かになりました。いよいよ開演です。と、ここでアクシデント。
「ケホッ」
母が変な咳をしはじめたのです。なかなか止まらない様子です。緊張すると咳が出るというのがありますが、さっきまで何の異状もなかったのですから、おそらくそれだったのでしょう。一回大きく咳き込めばスッキリしたと思うのですが、変に我慢しているせいか、それがかえって辛そうでした。
演奏が始まりました。母はまだ咳をこらえている様子です。うわ、苦しそう。咳き込む衝動が起こるたびに肩を振るわせています。こういうのって、我慢しようとすればするほど辛くなるんですよね。もう半分涙目です。あまりに長く続くので、私は父に、一回外に出ようかと耳打ちしました。父もうんと頷いて母に席を立つよう促しましたが、母は頑として立とうとしませんでした。ずっと楽しみにこの日を待ち続けていたのに、こんなことで席を立てるかっていう目をしています。それは分かるけど、お母さん・・・・。
それからもずっと、母の苦しそうな様子が続きました。落ち着いたかと思うと、また新たな波が襲ってくるのです。こんなことならコフドロップでも用意してくればよかったなあと思いましたが、生憎そんな準備はありません。
音楽が最高潮に達してきた頃、母の咳もピークを迎えてきたようでした。懸命にこらえる母も苦しそうですが、私もそんな母が気になって音楽どころではありませんでした。すると、父が母の手を握りました。おー、いたわり合う夫婦の姿。ん?父の手が母の肘のあたりに移動していきました。あ、指圧だ。父はちょっと、こういうのがうまかったのでした。しばらくすると、母の苦しそうな様子がピタリと止まったではありませんか。奇跡だ~!!
そして迎えた休憩時間。やっとロビーに出られました。私はジュースを買ってきて母に差し出しました。父は館内の売店で、のど飴を探してきました。母が申し訳なさそうな顔をして、
「ごめんね、せっかくのコンサートが台無しよね」
と言いました。すると父は、
「頑張って舞台と一緒に音楽を作ったじゃないか、名誉なことだよ」
うっわー、今父がいいこと言った!! これで母もにっこりでした。あ、第二部開演のベルが鳴りました。
「また咳が出そうになったら、指圧、お願いね」
「任せとけ」
これって何のツボだったのかなあと、今になって検索して探してみました。どうやら「尺沢」あるいは「孔最」と呼ばれるツボだったようです。はたして指圧が効いたのか。はたまた手を取ってもらった安心感が効いたのか。きっとその両方だったのでしょうね。この後、母が咳き込むことは、もうありませんでした。
中学生の夏。出かけたついでに、少し離れたマチの夏祭りに立ち寄りました。するとそこで両親にバッタリ。何となく一緒にお祭りを歩くことになりました。中学生にもなって親と一緒なんてちょっと恥ずかしい気もしましたが、たまにはそういうのも悪くありません。
まずはじめはやはり神社にお参りです。柄杓の水で手を清め、本殿の前に進み出て、ガランガラン。父に合わせて家族揃って柏手を打ちました。社務所でおみくじをやっていましたので、父が代表で引いてみることに。結果は大吉。善行をもって福が舞い込むとのこと。善行ねぇ、少しゴミでも拾ったらいいことあるかなと、境内に散乱していたゴミを拾って所定のごみ箱へ。
さぁこれで福が来たに違いないと、運試しにくじ引きで最高5個まで当たるリンゴ飴に挑戦してみることにしました。もちろんくじを引くのは、おみくじを引いた父です。一発で家族三人分のリンゴ飴をゲット。1等賞ではなく家族で満ち足りるだけの福が来るのねと母。あぁ、そういう福が一番だと父。欲のない、いい両親です。
続いて何かくじ引きはないかと探すと、当たれば小さなカップが大きなカップになるという唐揚げのお店を発見。これは一人一人全員がルーレットを回しました。結果は全員大カップ。おかしいなぁ、こんなに連続して当たられたら商売あがったりだよとお店の人。それを聞きつけて続々お客さんが集まってきました。おじさんも商売上手です。
よくあるエアガンなどが当たるくじは、あれは絶対ろくなのが当たらないし、当たってもそんなので遊ぶ歳ではないからと敬遠。でもしばらく子供達がくじを引いているのを見ていると、後ろから母が大きな縫いぐるみを抱えてやってきました。「何それ」と聞くと「向こうでくじ引きやってたから引いたら当たっちゃった」とのこと。はいと私に渡されて、要らないよお人形なんてというと、何言ってるの、上げるわけないでしょう、持ってもらうだけよとのこと。これって私にとって福だったのでしょうか。この縫いぐるみは、今も大事に飾られています。
たこ焼きを買って道端に腰掛けて食べながら、色んな物が当たっちゃったね、ここで福を使い尽くすともったいないから、またゴミ拾いでもして福を貯め込もうかと父。大きな縫いぐるみは母に任せて、父と道路のゴミを拾って歩きました。これは、やっているとなかなか楽しく、お祭りのスタッフになった気分になります。道行く人の中にもそう思ってくれる人がいるようで、何人かからご苦労様と声を掛けて頂きました。露店の出ている道を一巡して戻ると、母が待ちくたびれたと口を尖らせていました。
お詫びに母が好きそうなベビーカステラを買って露店をもう一巡。こうして親子のお祭り巡りは終わりました。でもこの話にはさらに後日談があるのです。そんな夏の日のこともすっかり忘れかけた頃、夕食の後、母が一枚の宝くじをテーブルの上に出しました。何これと聞くと、お祭りの日、父と私がゴミ拾いをしていた時に買ってみたとのこと。くじは本当にたったの一枚。ジャンボではない普通の宝くじなので100円です。なのに、当選発表が載っている新聞を広げて見てみると…。なんと下4桁的中!!1万円が当たってしまいました。
「すごい、また当たった、でもこれも1等賞じゃないんだ」と私。「いいのよ、うちはこれで満ち足りてるんだから」と母。「身の丈に合った福が頂けるのが一番の幸せだな」と父。それからもずっと我が家は、与えられすぎはしないけれど、ささやかに満ち足りている幸せに恵まれています。
ご招待を頂いて家族揃って乗った屋形船。お料理は純和風かと思ったら、先付は和風その物でしたが、続いて出てきたのは洋風のサラダ。そしてお刺身盛り合わせへと続き、次はなんとミートローフ。和洋交互に出てきます。でも味のつながりやバランスは全く違和感が無く、これはいわば創作和食。ここの板前さんすごいなぁと感心しながら戴いていると、いよいよ江戸前屋形船料理の花形、船内で揚げる天ぷらが始まりました。
ところが、どうも父の様子がおかしいのです。食欲無さそう。どうしたの?お父さんの大好きな天ぷらだよと声を掛けると、少し酔ったとのこと。屋形船の名誉のために言っておきますが、普通、屋形船は揺れません。たまにすれ違う船が立てる波で揺れることもありますが、それはすぐにおさまります。なのに、船酔いしちゃったの?そういえば父はとある原稿を頼まれていて、深夜過ぎても部屋に明かりが点いていることが多かったのでした。寝不足だったのかなぁ。
ちょっと夜風に当たってきていいかなと父。この屋形船には展望デッキが付いています。お母さん付き添ってあげてと言うと、せっかくご招待頂いたのに夫婦で席を外しては失礼だから一人でいいとのこと。でも、なんとなく心配だったので私がついていくことにしました。
展望デッキに上がると、夜風がとても気持ちいい。夜景も綺麗。しばらく潮風に吹かれていると、父はだいぶ元気になったようでした。よかったと思っていると、父が突然歌い始めました。父は邦楽畑の人ですから、屋形船に乗りながらそれに似合う邦楽を口ずさむならわかります。ところがこの時に歌い始めたのは、なんとサザン。しかも声まで桑田佳祐さんそっくりに真似ていたのです。えー、お父さん、そういう音楽が好きだったわけ?!でもそれが意外に上手なのでまたびっくり。歌っている横顔もなかなかダンディでした。
父は一曲歌い終わり、私の方を見ました。え?あ、えーと、わーパチパチ。小さく拍手をしてみせると、続いて二曲目を歌い始めました。今度は私も知っている曲です。途中から一緒に歌いました。二人の目が合って、父はにっこり。サビからハモれるかな?あ、できた、できた。自分で言うのもなんですが、これは洋上の素敵な二人だけのリサイタルでした。
歌い終わってしばらくまた、静かに夜風に吹かれました。さ、戻ろうか。父はすっかり元気を取り戻したようで、足取りは颯爽としていました。
船を下りて帰り道。母が、海の夜風は気持ちよかった?と聞くので、実はねぇと父の歌のことを話したら、父はやめろやめろと照れまくり。父によると、乗り物酔いはお酒に酔ったのと同じだからああいう歌も出ちゃうんだよ、とのことでしたが…そうなのかなぁ。今まで知らなかった父の新しい一面を発見した、素敵な納涼の夜でした。
夏、ある民宿に泊まった時のことでした。その周辺の民宿はほとんどがテニスコートを持っています。ですから私たちのような家族連れのほかに、テニス合宿の大学生もたくさんいました。
私たちが泊まった民宿でも、どこかの大学のテニスサークルの人達が一緒でした。夜はテニスの話題で盛り上がります。ここで目を輝かせたのが父。高校でテニス部に所属していたとかで、私たち家族を相手に、インターハイに出場した話などを得意げに語り始めました。よく聞いてみると父は選手でも何でもなく、ただ部員としてついていっただけの話だったのですが、でも若い頃の思い出を語る父は輝いて見えました。
そんな父に「先輩ですか?」と話しかけてきた人がいました。父の「わが○○高校の…」という言葉に反応したらしいのです。
「私も○○高校出身なんです、もちろん女子テニス部にいました!」「本当か?」「はい、あそこにライバルだった△△高校出身の子もいますよ、ねーちょっとこっち来て!」。
それからの父は、家族そっちのけで若い女の子たちとテニス談義。私と母は顔を見合わせて「あらあら」です。
翌日の父は早起きでした。朝もやの立ちこめる庭で元気に体操。合宿の大学生達のランニングの声も聞こえます。「お父さん、なに張り切ってるの?」「昨日の子達と一緒にコートに立つんですって」「へぇぇ…」。父は「先輩、お願いします」の声に呼ばれて、意気揚々とコートに向かっていきました。
私達も行ってみました。父が女子大生を相手に打ち合っていました。うわぁ、なかなかかっこいい。父がテニスをしている所なんて見たことがありませんでしたから、きっとラケットを持ったのは、少なくとも私が生まれて以来のことだったに違いありません。でも動きは俊敏だし、打つボールにもスピード感があって、全然そんなブランクを感じさせない雰囲気でした。
早朝練習が終わって朝食です。父の周りには「先輩、ご一緒していいですか」と女子大生が一杯。私と母はまた顔を見合わせて「あらあら」です。父は昼間の練習にも付き合うことになったらしく、私と母だけで湖畔巡り。「おかあさん、いいの?」「何が?」「お父さん、女子大生に取られちゃったよ」「いいのいいの、たまには若返ってもらわないとね」「そんなもんかなぁ」「まぁ明日、面白くなるわよ」「え?」。
翌日です。昨日の若々しかった父はどこへやら。朝から「いてててて」と筋肉痛で、母にマッサージをしてもらっていました。朝食の時もちょっとしょんぼり。「すまん、歳には勝てないよ、今朝はご一緒できなくて申し訳ない」「いいえ、こちらこそ先輩にご無理をさせてしまって」「まだ若いつもりでいたんだがなぁ…ブランクが長すぎたのかなぁ」。元気出してお父さんと背中をバンと叩いたら、いててててと叫んで苦笑していました。そんな父を見て母は「まだ筋肉痛が翌日に来る体なら若いのよ」と変な励まし。歳を重ねるにしたがって、筋肉痛は間を置いてやってくるようになるそうです。
その日は一日温泉でゆったり。父は湯上がりに、また母にマッサージをしてもらっていました。「お父さん、気持ちいい?」「うん、やっぱりこれが歳相応ってやつだな」。でも、民宿最終夜はテニスサークルの人達が私たち家族を囲んで、素敵な野外パーティーを開いてくれました。降るような星空の下で、父は若い女の子達にモテモテ。テニスの王子様ならぬ、テニスのおじさまになった夏でした。
それにしても、ヤキモチ一つ妬かずに、そんな父を優しく見守っていた母は偉いです。でもそれ以来母は、父と外出する時は、娘の前でもしっかり腕を組んで歩くようになりました。やっぱり母は強いです。
家族での旅行はなかなか挙行出来ませんね。
それは大勢家族だと深刻。
でも父親の掛け声一つで無理難題も可能。
一つ一つが懐かしい想い出ですね。
子供の頃の想い出は一生消えないもの。
楽しみの一つですね。
私が小学校に上がる少し前の、夏休みに家族で祖母のイエに遊びに行きました。
田舎のマチで、当時電車は1両編成の電車が1~2時間に1本くるかこないかという所。
時間の流れが緩やかで、自然溢れるところでした。
もちろん家の周りは、見渡す限り右も左も田園風景。
そんな中で、弟と追いかけっこをして田んぼの間を夢中になって走っていると、みごとに転んで小川に落ちて全身びしょぬれに。
あわてて助けに家族が集まり、母が私を抱き上げ、父が小川の中の私の足から脱げてしまった右の靴を拾い上げると・・・
なんと靴の中から小さな泥鰌がにょろにょろり。
大泣きをしている私をよそに、家族は大わらい^^おかげでびっくりしてすぐに泣き止みました。
そしてしばらくの間、私が転ぶたびにその泥鰌の話は語られましたw
この小川には他にも蚊にあちこちさされながらも祖父母といとこ達と一緒に魚獲りにザリガニ釣り(割り箸にスルメをつけて)
をしたり笹舟を流したりと、楽しい思い出がいっぱい詰まっていました。
そしてこのところ、息子が魚に興味をもち魚獲りをしてみたいと言っていたので、
先日の連休に、私が子どもの頃、落っこちたこの小川でン十年ぶりに子どもと一緒に魚獲りをしてきました。
夫と娘は小川のそばで花を摘んで冠を作ったり、草笛を作ったり、草舟、笹舟を流したり。
昔とマチも小川の様子もだいぶ変わっていましたが、大人になってから小川で遊ぶことになるとは思っていなかったので
なんだかとっても懐かしく感じました。
息子が目の前に見える魚をどうしたら獲れるのかと、一生懸命考えながら網のすくい方や場所を変えたりしているのを見ながら、
当時の弟と同じくらいなんだなぁ~なんてつい比べてみたりして、なんだかとっても面白かったです。
獲った魚は結局小川に戻しましたが、こうやって生き物と接したことで、小さな魚もみんながんばって生きていることや、
自然の厳しさ^^なども少しですが実感してもらえたようで親子でいい勉強になりました。
自然の中でいっぱい遊んで、ご飯食べてからまた遊び、疲れたら寝る!というシンプルな生活でしたが、子どもたちも
帰り道には名残惜しそうにしていました。来年も、またみんなで行けるといいな^^
なかなか休みの取れない父だったが夏休みは必ずといっていいほど海や川へ連れ出してくれた。
家では味わえない親子での共同作業は何ものにも変えられない良い思い出となっている。
10歳の夏には、海のすぐ近くの民宿に泊まることに。
民宿は砂浜の外れにあり、すぐ裏には水路が流れており、そこでは小鮒やカエル、ザリガニなどが沢山捕れるということで、
地元の子供たちと混ざって一緒に色々捕まえた。
捕まえたものは部屋に置いたバケツに蓋をして置いておいていたが、夜中に蓋がはずれてカエルが鳴きながら部屋中をとびまわり、
ちょっとしたパニック状態に!
その後はみんなで大捕り物になったが、普段なら大目玉を食らうところだろうがこの時には特に叱られた覚えがないw
海では、母が見守る中、自分と弟はは泳ぐのはそっちのけ干潟で泥遊びをしたり貝をひろったりして過ごした。
自分たちが遊んでいる間に、シートを敷いたり、ビーチパラソルを立てたり、食事の準備やそのほか家族の世話をやくのは父の役割だった。
いまでも目に浮かぶ、もくもくと作業をする父の大きな背中。
昼食は浜辺で父が飯ごうで飯を炊き、母がおにぎりをつくってくれて自分たちは茄子や玉葱、鶏肉を串に刺したのを
回しながら焦がさずに焼くのを手伝った。
といっても肉が中までしっかり焼ける頃には野菜はあちこち焦げてしまったし、おにぎりも味つけはシンプルに塩だけだったのに
なぜかどれもとても旨かったのを覚えている。
沢山拾った貝も食べたい!と言ったら、砂を出したりしないといけないからすぐには無理だと断られ、しょんぼりしていたら
民宿の人に頼んでくれて翌日の食事に出してもらえた。
自分で採った貝のみそ汁と酒蒸しの味は格別だと大満足だったが、はたして全部が自分たちがとったものか今考えると
ちょっとばかり怪しい気もするw
おやつには井戸水でよ~く冷やしたトマト。これがとても甘くて格別の味だった。
そこで三日ほど過ごす中で、すっかり地元の子たちと仲良くなり、別れたくなくて帰るのがちょっといやだったこと。
海からの帰り道、近くで上がる打ち上げ花火に気がつき、車から降りて家族でしばし眺めたこともいい思い出である。
運動会であっても家族のピクニックですね。
両親であれ兄弟であれ運動会に参加してくれる家族はみんなピクニックの同士。
愉快にピクニックを楽しみたいですね。
当然に運動会も楽しみますが、やはりピクニックの方が楽しいですね。
ピクニック材料には家族の愛が染み込んでいますが、運動会は家族の愛の存在を見つけ難いですものね。
だから~運動会っていうのはピクニックな~んだ!
上野動物園の歴代パンダ
http://www.ueno-panda.jp/history/
これをみると子どもの頃にみたのはアレかなと分かりますね。
初めて見たときは既に子どもではなく成獣に近かったため、あまり動かず、見物客の方を向いてくれないので顔が分からずじまいでした。
ショックだったのはキャラクター化したパンダは尻尾が黒いのですが、
本物の尻尾は白いのです。
また白クマみたいな白さではないので汚れて見えて、少しがっかりしました。
後年大人になってから、リンリンの晩年に見に行ったのですが、
さすがに老齢であばら骨がすけて見えるのが非常に痛々しく思えました。
上野では新しくパンダ舎ができたそうですが、
レッサーパンダをはじめとする他の動物たちも住環境が良くなって
のびのびしているといいなと思っています。
子どもの頃は3世代同居で、祖母は食べ物の好き嫌いが非常に激しく、また脊柱管狭窄症を患っていたので遠出ができず、家族一緒にといっても両親と兄弟で近隣へ一泊か日帰り程度でした。
それか、当時は週休1日制で土曜は午前で仕事は終わりでしたので、父の勤め先まで行って近所のデパートで買い物した後、終了時間に落ちあって外で昼食をたまにしました。
なので家族水入らずで旅行や行楽は厳密に行ったことがありませんが、
遠足や運動会などお弁当を持って行く行事には家族が皆、同じ昼食を取りました。
祖父母も具合が良ければ、運動会に孫が出るとこだけ見て一緒に昼食を取りました。
安上がりといえばそうですが、ビデオカメラが普及してきたので父には早くから場所取りをしてもらったり、
母は祖父母の好きそうな物と子どもが喜ぶ物で朝早くから支度をして重箱に詰めで、
金銭面だけではない労力という思いやりをかけてもらったことは、今思うととてもありがたい思い出です。
幼稚園に通う前は、私が動物を見たがるので、爺さんが毎日、上野動物園についれていってくれてました。(二人とも交通費がかからない年齢だったので)
おかげで2歳児が大人に向かって「これはオオアリクイだよ」と説明していたり。
子供の頃に従兄弟たちと行ったきりですが、水が綺麗でマスなども泳いでいました。
川は流れがあるので天然のウォータースライダーみたいに遊んだときに、横を川魚が泳いでいたりというのは今でも忘れません。
渋谷でも新宿でも小腹がすいたときにさっと食べられて重宝してます。
かけ2丁頼んで200円。マックや牛丼屋よりコストパフォーマンスがいいです。
うどんは昔も今も心に記憶される食べ物。
電車や列車の走り去る姿はうどんが水に流される姿と似ていますね。
列車の模様をしたうどん列車が走ると面白いですね。
列車の様なカラフル模様を施したうどんはきっと食べる時に楽しいでしょうね。
何処かで作ってくれないものでしょうか?
期待しても駄目かな~!
昔はよく川で遊んだ覚えがありますね。
今は怪我をするとか危険だとかとの事で遊ばせてくれません。
昔は良かったですね。
過ぎ去った時間は戻って来ませんね。
父がプロ野球公式戦のチケットをもらってきました。1塁側内野席です。当時小学生だった私は、生の野球観戦など初めての経験でした。当時は母はあまり体が丈夫ではなかったので、父と私の二人だけの観戦となりました。一人仲間はずれになってしまうのが心苦しかったのですが、楽しんでいらっしゃいの言葉をもらって、意気揚々と球場に向かいました。
球場に入るとまず父がメガホンを買ってくれました。野球はただ見ているだけじゃつまらないんだ、見ているうちに必ず叩く物がほしくなるから、まぁ持っておけと。席に座ってプレイボールを待っていると、ビールやお弁当を売りに来る人が頻繁に客席を回り始めました。父がおーいと手を上げてお弁当屋さんを呼びました。まだ食べるなよ、食べるのは3回の向こうの攻撃を迎えてからだ、まだ勝負の行方はわからない、でも白熱してくる、そういうタイミングで食べるのが一番うまいんだ。父は子供のように目を輝かせていました。
あ、ビールの売り子さんが来ました。父がまた手を上げて呼びました。これは試合開始前から飲んでいいんだ、あとでまた買うから。そういいながら、うまそうに一気に飲み干しました。とてもうれしそうな顔でした。
試合開始です。初回は両チームとも三者凡退。二回も同じです。おいおい、そろそろ盛り上がってくれないと弁当を食べるタイミングが見つからないぞと言いながら、周囲のお客さんと一緒に打者の応援歌を歌いはじめました。お父さん、歌知ってるんだと言うと、おや、知らなかったかい、お父さんはこのチームのファンなんだぞと言われて少し驚きました。当時、イエで野球中継などを見ていることはほとんど無かったからです。少し考えて分かりました。子供や母が見たがる番組に、チャンネルを譲ってくれていたんですね。
あ、打ちました!一塁セーフ!!初のランナーです。ほら、メガホン叩け叩け。そうか、野球は拍手の代わりにメガホンを叩くのか。次からは、応援歌のリズムにも合わせてメガホンを叩きました。かっとばせー、かっとばせーの声援にも熱が入りました。続く打者は凡フライ。ランナー動けません。続いては、カキーン、打ちました、ランナー走ります。二塁セーフ。ワーーーー。でも一塁はアウト。これでツーアウトです。続く打者は何本もファールを打って粘りました。応援歌に熱が入ります。段々おぼえてきたので、私も一緒に歌いました。しかし結局ピッチャーフライに打ち取られて残塁のまま〇点が続きます。
さぁ、弁当を食うなら今だ!敵側の攻撃を見ながら、親子で弁当を広げました。敵側も粘ります。長い攻撃になりました。いいよいいよ、こっちは弁当タイムなんだから、ゆっくり食わせてくれよと、父はちょっと意地悪なことを言っていました。カキーン、打ちました、大きい大きい。これは入るか?入りました、ホームラン。一点先制されてしまいました。弁当を食べながらも、手に汗握る展開になってきました。
ピッチャーの応援はしないの?と聞くと、今は向こうのチームの攻撃だから、応援も三塁側の番なんだとのこと。ツーアウト、カウントツースリー。あと一球。ストライク!ふー、ピンチ脱出です。もうこの頃には、すっかりこの試合のホームチームのファンになっていました。
だんだん応援に熱が入ってきて、父は手にしたメガホンを振り回しています。球場は野球を見に来るだけの場所じゃない、心の解放区なんだと、子供心にそんなことを思いました。
結局試合は相手チームの勝ち。くっそー、残念だったな、いい試合だったのに。悔しがる父に、次はテレビでも応援しようと言いました。お母さん、チャンネル譲ってくれるかな?どうかなぁ、僕も頼んでみるよ。野球が結ぶ父子の絆。くすぐったいような、うれしいような。イエに着くまで、球場の興奮は続いていました。