障害差別は どうしてあるんですか???

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  • 終了:2011/07/07 20:35:03

回答3件)

id:Gleam No.1

回答回数2962ベストアンサー獲得回数327

障害者は働きたくても働けないという場合、あるいは少ししか働けないということが多いです。

世間にはいかなる事情があっても、仕事をする能力が低い人を馬鹿にする人がいます。

障害者に向かって平気で「働かざる者食うべからず」と言っていた人を見たことがあります。このような考え方を持った人がいる限り、障害差別はなくなりません。

id:aibusoku

あーそうゆう考えかたがあるとは・・・

全くですね。

回答 ありがとうございます v v

2011/07/02 20:05:10
id:coussinet No.2

回答回数41ベストアンサー獲得回数7

生物全般の世界で考えてみましょう。


生物が地球上に存在する目的は、遺伝子を次世代に伝えることです。

どうせ残すのなら優れた(生命力の強い)遺伝子を残そうとします。

そのためパートナー(配偶者)には優れた遺伝子の持ち主を選ぼうとします。


では、どうやって相手が優れた遺伝子の持ち主かどうかを選別するのでしょうか。


例えば、鳥のツバメは尾がふたつに分かれていますが、その片方を切断して

わざと短くすると、そのツバメは配偶者として選ばれなくなります。


実際、寄生虫に対する耐性の弱いツバメは尾の長さが左右違ったりします。

左右のバランスが整ったツバメは寄生虫に強い遺伝子の持ち主、

バランスの崩れたツバメは寄生虫に弱い遺伝子の持ち主と見なされ、

強い遺伝子の持ち主は弱い遺伝子の持ち主を排除しようとします。


これは「生物として、自然な」行いではありましょうが、

それが「人間として、正しい」行いであるかどうかは別の問題です。


自然のまま、本能に任せた行動だけを取っていたら

人間は現在のような社会をつくることはできなかったでしょう。


感情の赴くまま振る舞うのではなく、理性で判断して「より正しい」方向に

進もうとした考え方や行動の蓄積が、人類の歴史を築いてきたのだと思うのです。


もちろん、間違った方向に進みかけた歴史もありますが、

500年、1000年という長い単位で歴史をとらえるならば、おおむね

なんとかバランスを保ちながら正しく修正されてきたと考えても

よいのではないでしょうか。


「いじめ」も同じ理屈なのかもしれません。

自分と「違う」特徴を持つ相手を、「自分と違う」ことを理由に排除する。

ただし、「自分と違う」だけでは、自分と相手と、

どちらが「優れた遺伝子」を持っているか分かりません。


ひょっとしたら自分の方が劣っているのかもしれない、

という恐怖に負けた方が、先に手を出して自分を相手よりも

優位な立場に置こうとする・・・のではないでしょうか。


自分と相手は、それぞれ違う特徴を持った違う人間なんだ、

ということを素直に認められればいいのにね。


「障がい者」は、自分と違う特徴を持ったひと、というだけです。

世の中がそういう特徴を持たないひとに便利なようにつくられているので

そういう特徴を持つひとが不便を強いられているのであって、

彼らにとってだけ便利な社会システムであれば、逆に自分が

不便を強いられることになる(障がい者になる)のかもしれません。


そう考えると、障がい者は実は世の中のシステムがつくり出している、

と言えるのではないでしょうか。


彼と自分は違う特徴を持っている。

自分が持っていて彼が持っていない特徴によって彼が不便を強いられているなら

自分がその部分を補ってあげればよいし、逆に

自分が持っていなくて彼が持っている特長によって自分が不便を強いられるなら

彼にその部分を補ってもらえばいい。


みんながそんなふうに考え行動できるようになれば、

障がい者差別もいじめも、なくなるかもしれませんね。

id:aibusoku

沢山の 深いお話ありがとうございます。 v v

2011/07/02 20:03:36
id:david3rd No.3

回答回数4ベストアンサー獲得回数0

最近では全くといっていいほどなくなった考え方なのですが、「罰(ばち)が当たる」という見方がありました。

わたしの子どものころの話ですが「食べものを粗末にすると目がつぶれる」と言われました。祖母のしつけです。もちろん子どもに「食べものを大切にしなさい」という意味で言ったに過ぎません。子どもですから、目がつぶれるというのはとても恐ろしいことだと感じるわけで、食べものを粗末にすることがなくなればいいわけなんですけど、その心理で、いざ、目の不自由な方を見ると、困っている人、支援を求めている人としてみる前に、怖い人と感じるのですね。何か、とんでもない悪いことをした結果目が不自由になったんじゃないかと……。もちろん、論理的に考えるわけではなくて、罰が当たって目がつぶれるという圧力からくるものなのでしょう。

同時に、罰を当てるのは神仏つまり人知を超えたものであります。仏教的には輪廻転生といいまして、前世の行いが現世を、現世の行いが来世の生き方を決めるというような見方があります。こういう仏教的名感覚が染み付いた風土で、先天的に障碍を持った方を見ると、前世でよほどの悪をはたらいたのかということになるわけですね。

「罰が当たる」とか、転生の思想を障碍者への差別と結びつけるのは、ややこじつけがあるかもしれませんが、経済的な力関係、生物学的本能的な理由など以外にも、思想文化的な理由もあると思います。

わたし自身、差別は反対、差別はしていないと思っていても、意識していないところで、気づかないでしていることもきっとあるのでしょう。弱者を助けようと思ってしていることが、弱者探しをしているのと同じ場合もあるので難しかったりもします。

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