こちらはご参考になりますでしょうか。
聖徳太子は推古天皇30年(622)2月22日、太子の妃・膳大郎女の死(2月21日)を看取った翌日病没したとされます。
どのような病気で亡くなったかは、定かではありません。
推古天皇が太子暗殺に関与した説、死の前に太子自ら磯長廟(しながびょう)の造営を視察し、完成を急がせたとこからの自殺とする説もあり、死因は明確ではありません。「天寿国曼荼羅繍帳」によると、同じ月のうちに母、妃、太子が合葬で陵に葬られており、死から埋葬までの殯(もがり)の期間が短く、新たな陵をつくらずに合葬の形をとるのは、暗殺などで「異常な死」を遂げた貴人を葬る場合が多いとされ、3人いた妃の中でも最も身分の低い膳大郎女と合葬された点でも、太子の死が尋常ではなかったことを示しているといわれます。
ただ、推古天皇29年(621)12月、太子の母・穴穂部間人皇女が病没。翌年の正月22日、太子(前年暮れ頃より病に伏し、斑鳩宮に引きこもりがち)が病に倒れてしまい、妃の膳大郎女の懸命の看護もむなしく、太子は衰弱する一方であり、その看病をしていた妃・膳部大郎女も過労(看病疲れ)で倒れた、とあります。
母、妻・太子本人が短期間に相次いで病に罹り死去していることから、当時流行していた流行り病(はやりやまい。現在の新型インフルエンザのようなもの?)に感染してしまったのでしょうか。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1433909229
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