1. なぜ遠藤周作は、わざわざ教会を敵に回すことになる『沈黙』を書かなければならなかったのでしょうか。
2. 禁書に指定されたことを、遠藤はどのように受け止めたのでしょうか。そして何か行動をとったでしょうか(たとえば、バチカンに謝罪したとか、どこかの司教と仲直りの儀式をしたとか)
遠藤周作本人の言葉で1. 2. について述べているものがあれば教えてください。
遠藤周作が『沈黙』を描いたきっかけは、一枚の古びた「踏み絵」であった。 その「踏み絵」には、十字架から降ろされたキリストの体を膝に抱え込むようにした聖母像が、銅板として木の中にはめ込まれてあり、何度も何度も踏みつけられた黒い足の指の痕が、くっきりと残っていた。遠藤周作は長崎市内の長崎十六番館で、この踏み絵を見て『沈黙』を書こうと思ったらしい。遠藤周作は、「転び者ゆえに教会も語るを好まず、歴史からも抹殺された人間を、それらの沈黙の中から再び生き返らせること。そして、私自身の心をそこに投影すること」が小説の動機であると語っている。遠藤周作の代表作とされる本書は1966年に発表された後、大きな評価を受けながらも、カトリック教会に否定され、長崎では長い期間にわたって禁書扱いにされてきた。この小説の舞台となった長崎県西彼杵郡旧外海町に『沈黙の碑』が建ったのは、1987年。遠藤周作が『沈黙』を発表してから21年が経過していた。『沈黙の碑』には「人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりにも碧いのです」と刻み込まれている。
私自身が日本キリスト教文学会関西支部(2004年1月29日)で報告した内容で回答させて頂きます。
>1. なぜ遠藤周作は、わざわざ教会を敵に回すことになる『沈黙』を書かなければならなかったのでしょうか。
1962ー1965年に開催された第二バチカン公会議においてカトリック教会がプロテスタントを異端視する態度を改める「エキュメニズムに関する教令」を採択しました。エキュメニズムとは簡単に言ってしまえば「カトリックとプロテスタントの教会一致促進運動」を意味します。
遠藤周作がこの運動に積極的に関わっていったことは大阪万博において日本万国博キリスト教館(カトリックとプロテスタントの超教派共同出展)のプロデューサーを引き受けたことや1960年代の遠藤作品においてカトリック聖書訳とプロテスタント聖書訳の混合引用およびイエズス表記から基督表記さらにイエス表記への変遷(イエス・キリストはカトリック教会においてイエズス・キリストと表記されます)からも間違いないと思われます。
遠藤周作は『沈黙』初版本の中で
>ロドリゴの最後の信仰はプロテスタンティズムに近いと思われるが
と書いていますので『沈黙』においてエキュメニズムが意識されていたのは間違いありません。では『沈黙』において表現されたエキュメニズム的文学表現とは一体何だったのかと言うと
「カトリックとプロテスタントの教義の一致」もっと正確に言えば「カトリックの義化とプロテスタントの義認の一致」にあったのだと思われます。「義化」というカトリック教義(救済論)を簡単に説明するならば「転ばない」こと「棄教しない」ことで所謂「強い信仰」を示し(人間側の実質的変化を前提として)「神が許したまう」ということです。これに対してプロテスタントの「義認」の救済論を簡単に言うとするならば「転んでも」「棄教を認めたとしても」所謂「弱者の信仰」を示したとしても(人間側の変化を求めるということなしに)「神が義と認めたまうこと」を言います。
つまり『沈黙』本文でロドリゴが
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」
と語り、カトリック司祭として「許しの祈り」をキチジローに与える(義化の立場に立つキチジローは「怒って」理解できないが)ことは、すなわちカトリックとプロテスタントの救済論の理解において出会いえた(一致出来た)文学的表現であったと結論付けられます。
しかし以上のようなエキュメニズム的な文学的表現は、バチカンと直結するイエズス会系の聖職者(日本では上智大学を中心とする)にとっては革新的な文学表現として受け止め可能だったと思います。しかし革新的なイエズス会と違い、カトリック保守派は「義化」の救済論の立場から遠藤のエキュメニズム的文学表現を攻撃(禁書扱い)としました。具体的なカトリック保守派とは東京では「サレジオ会」、長崎では「パリ=ミッション系」の聖職者を指します。
この禁書扱いに対する革新派と保守派の構造の違いは、2の質問の回答になりますが、本日はもう遅いので明日以降の回答とさせていただきます。
ご解答ありがとうございます。
当時の時代状況を反映した非常に興味深いご解答です。
続きを楽しみにしております。
お許しいただけるなら質問を追加します。
1 では、上智大学派による禁書はもう解けているのですか
2 ナガサキでも禁書扱いだったという話も聞きますが、それは別の理由があるのでしょうか。
>1 では、上智大学派による禁書はもう解けているのですか
日本においてエキュメニズムを推進するイエズス会(上智学院)では元々禁書等なかったのではないかというのが私の考えです。根拠については先の質問2の回答の折、示させて頂きます。
>2 ナガサキでも禁書扱いだったという話も聞きますが、それは別の理由があるのでしょうか。
長崎教区は、質問1で示した通りパリ=ミッション系(パリ外国宣教会)のカトリック保守派が勢力を持っているため『沈黙』の禁書扱が長く続いたのだと思っています。この根拠も先の質問2の回答の折、示させて頂きます。
ここで簡単に再確認いたしますが、上智学院を中心とするイエズス会では禁書扱いはなかった。禁書扱いがあったのはパリ=ミッション系(パリ外国宣教会)やサレジオ会等のカトリック保守派においておいて行われた。ローマカトリック教会(バチカン)においても禁書扱いはなかったのではないかということを確認しておきます。
>2. 禁書に指定されたことを、遠藤はどのように受け止めたのでしょうか。そして何か行動をとったでしょうか(たとえば、バチカンに謝罪したとか、どこかの司教と仲直りの儀式をしたとか)
遠藤周作自身が通っていたカトリック教会(おそらく町田カトリック教会)では信者が読んではいけない本として『沈黙』が取り上げられていたらしく、遠藤自身くさった時期があったらしいです。(出典はすぐに思い出せませんが)もしその教会がカトリック町田教会であるならば、その禁書扱いにした聖職者はパリ=ミッション系の保守的な立場であった可能性が高いと思われます。(この方面の調査をしたことがないので裏付けはありませんが)
また遠藤順子夫人は「主人の小説はローマで一年ぐらい禁書になりました。同時にほとんど日本中で禁書になったと思います」と対談で語っていらっしゃいますが、これが本当にあったことなのかを裏付ける資料を私は見たことがありません。
しかし『沈黙』発表年(昭和41年)のカトリック系新聞の投書欄を見ても「一般に広く話題を呼んでいる小説」「やはり第一級のカトリック文学だ」「立派な作品だと思います」「深い感銘がのこりました」と言うような読後評からも分かるように禁書とは程遠い状況であったようです。昭和41年に発行された上智大学神学部キリスト教祭礼研究所のエキュメニズムに関する解説にも
「キリスト者の一致運動を行うにあたり(中略)第二バチカン公会議は過度の画一性を否定し(中略)信仰の真理を神学的に表現する上においても、教会内における正当な多様性を認め、むしろこれを促進している。」
とあることからもカトリック進歩派(革新派?)のイエズス会や第二バチカン公会議後のローマカトリック教会で『沈黙』が禁書扱いなるとは考えにくいと思います。ところが長崎のパリ=ミッション系カトリック雑誌に昭和46年に発表された映画『沈黙』評で「高校生や修道女にも是非勧めたい作品である。」と書かれましたが、「あの映画を紹介したカトリック二誌が、長崎教区では発売禁止になった」そうです。(カトリック系新聞投書欄より)
このようにパリ=ミッション系の聖職者が『沈黙』に対して強烈な「拒否反応」を示していたことが分かります。また遠藤周作自身が昭和47年にカトリック系新聞に寄稿した「踏絵」に関する文章(この文章がカトリック系新聞に取り上げられること自体がカトリック進歩派の間で『沈黙』が禁書扱いではなかったことを示します)に対してカトリック保守派系雑誌に反論文が掲載されます。(長文になりそうなので一旦ここでこのコメントを保存します)
>2.への回答の続き
保守派系カトリック雑誌(奥付に東京大司教認可とあります)に掲載されたサレジオ会の聖職者の反論には
「その記事をよんでいくうちに、あまりのおどろきに目をみはった!(中略)すなわち、キリストに対する忠実、いのちまでも犠牲にするほどの証は、信者の自由な選択にゆだねられていることではない。それは、義務、しかも、絶対的な義務 容赦のない義務として要求されていることである。したがって、万一、このあかしをしないばあいは、ただではすまされないのだ、そこには永遠の地獄の罰がまっている。」とあるように「義化」の教義に則り強烈なまでに遠藤周作を糾弾しています。これが概ねカトリック保守派における『沈黙』禁書の論理だと思われます。(特に長崎ではご先祖が「踏絵」を踏まないことで殉教された方が多いでしょうからなおさら禁書扱いになってもおかしくないと思います)
ところで順子夫人は「主人の小説はローマで一年ぐらい禁書になりました。」と述べられていますが、(これを裏付ける資料を今後調査が必要だとしても)昭和43年2月にバチカン市国が正式参加する「日本万国博キリスト教館」プロデューサーのオファーをカトリック中央協議会のテーマ委員から受けたことからも、『沈黙』刊行後2年足らずで公には禁書状態でないこと分かります。またこの後遠藤周作は、「日本万国博キリスト教館」への協力の功績からローマ法王庁より「騎士勲章」を授与られ、ローマ法王ヨハネパウロ2世とも謁見しているぐらいです。
つまりカトリック進歩派や第二バチカン公会議後エキュメニズムを推進するヨハネパウロ2世を中心とするローマ法王庁との関係は、(一時的な誤解の可能性はあるが)かなり早い段階から良好だったのではないでしょうか。
余談になりますが、1999年10月にローマカトリック教会とプロテスタント(ルーテル派)において「義認の教理に関する共同宣言」が発表されました。ローマカトリック教会が公式に「義化」の教理から「義認」の教理へと歩み寄りました。『沈黙』刊行後33年目、遠藤周作没後3年目でした。
ありがとうございます。一部(パリ・ミッション系)だけの問題で、和解も早めに行なわれたということですね。
問題になったのは、イエスが棄教を認めるはずがない。死ぬのが正しいというところでしょうか。
奥様の「ローマで一年くらい禁書」というのも、同じ理由なのでしょうか。
そもそも遠藤がなぜこのような強烈なメッセージをもつ小説を書いたのか、それは誰も知らないということでしょうか。
一点訂正いたします。遠藤が謁見したローマ法王は、ヨハネパウロ2世ではなくパウロ6世でした。
>問題になったのは、イエスが棄教を認めるはずがない。死ぬのが正しいというところでしょうか。
カトリック司祭が「義化」の教義から「義認」の教義に歩み寄ってなお「最後の切支丹司祭」であると語るところではないでしょうか。
>奥様の「ローマで一年くらい禁書」というのも、同じ理由なのでしょうか。
何度も言いますが、本当にローマで禁書があったかどうかは資料的な裏付けがないため確認が出来ません。今後の調査課題とさせていただきます。(少なくとも私には『沈黙』刊行後一年以内に欧州言語に翻訳されていたとは思えないのですが・・・しかしバチカンには日本語翻訳官がいるでしょうから大体の概略は伝わっていたのかもしれません。)
>そもそも遠藤がなぜこのような強烈なメッセージをもつ小説を書いたのか、それは誰も知らないということでしょうか。
そうでしょうね。作家の執筆動機などいくらでも理由付け出来るだろ
うし、証明不可能ですよね。でも私自身は、以下の様に考えています。
『沈黙』執筆以前、遠藤は「宗教的弱者が殉教者に転換する」小説(「最後の殉教者」など)を書いていた。それはゲルトルート・フォン・ルフォール『断頭台下の最後の女』やジョルジュ・ベルナノス『カルメル会修道女との対話』などカトリック小説・戯曲を下敷きとしており「義化」の教義が文学表現化されていた。しかし第二バチカン公会議後、ローマカトリック教会が他教派の多様性を認める宗教的大転回が行われたため遠藤周作の作品も大転回が図られたのではないかと思っています。
長崎市遠藤周作文学館にもお尋ねしたところ、いくつかの参考文献を教えていただきました。
「沈黙の声」、カミユ文庫、プレジデント社、1992年
ここには遠藤本人の言葉があります
佐古純一郎著「椎名麟三と遠藤周作」(1989年、朝文社)所収
対談「現代の献身」 遠藤周作x佐古純一郎
カトリック新聞 2011年8月21日
「遠藤文学とカトリック教会」
1.
踏み絵を踏むことを拒否して西坂の刑場ではりつけされた「強者」より、大多数の揺れる気持ちで踏み絵を踏んで「転んだ」「弱者」に引かれていく。
http://blogs.yahoo.co.jp/irago007/21236014.html
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/240810.htm
遠藤周作の言葉の出典はありますか。
2012/08/10 16:14:01そして、「カトリック教会に否定され、長崎では長い期間にわたって禁書扱いにされてきた」ことについての彼の意見や態度はわかりませんか。
また、禁書扱いは、なぜ解けたのですか
2012/08/11 15:40:51禁書にしたことについて、教会側の反省や釈明はありませんか