「どんな学校に転校してもいじめられるなら、そりゃ本人に原因があるんだね」の対偶は
「本人に原因がないのなら、どんな学校に転校してもいじめられない」
でありますが、これは私からみれば明らかに偽です。対偶が偽なら命題も偽ですから結論から先に言えば私の回答はNoです。
以後対偶のほうを検討いたします。
・一つの仮説として本人の原因の有無を「よく検討しない転校先へ転校する」行為にまで拡張するとすれば、一見真かのように見えますが、一般の国民でさえ政府の予測のつかない政策転換に「おいこりゃいじめだろう」というような世の中では、本人がいかにアカシックレコードなみの人智をつくしても、いじめが起こらない学校を選べるとはいえません。適職論にも似ています。
・また、もう一つの仮説として本人の原因の有無を「状況をいじめと感じる心」にまで拡張すれば、一見真かのように見え、これは第一の仮説よりももっともらしくみえます。ただし、人生には各種の挫折がつきものであり、心を捨てることはできませんからやはりいくら健全な心の持ち主であっても状況をいじめと判定せざるを得ない機会に遭遇する可能性がゼロではありません。
・わたしとしては、「どんな学校に転校してもいじめられないなら、そりゃ本人に原因があるんだね」つまり裏のほうを興味深くほりさげていきたいものです。適切な守護が存在することで「いじめられない原因」=「実力に裏付けられた自信」をもった学校生活を送っていただきたいものです。その守護のことを「個性」とか「居場所」と呼べる場合もあるかもしれません。家庭かもしれないし部活動かもしれない。
部活動や各種の課外活動をする日本の学生生活アニメを中国の学生はとてもうらやむといいます。どうあれ、ぜひ居場所をつくってほしいとおもいます。
id:NAPORIN様、回答ありがとうございます! いじめに対する強い思いが伝わってきて、もしNAPORIN様が小学校の先生でしたら、ぜひ自分の子供を預けたい方だと思いました(←子供どころか相手もいないですけどw)。・・・ですが、ついさきほど、クイズ出題で致命的な大ミスをやらかした自分が言うのですが、対偶のところで、うっかりミスをされているかと。
oh、少なくとも一つの学校、か
(1)「どんな」というのを、常識的に選択可能な、と限定し、
(2)「本人に原因」というのを、「原因は責任とは違う」と注釈すれば、
成立しそうな気がします。たとえば、もちろん現代の倫理では不可ですが、
「黒人であったので、白人国の全学校で差別される」という状況が考えられます。
黒人国にいけば差別されないだろうが、常識的には選択可能ではない。
また、黒人に生まれたことは、本人の責任ではない。
id:sibazyun様、ありがとうございます。了解です。「原因と責任は違う」というのをしっかり明示して論じていたので感心&驚きました。
今回の質問をしたのは、あるサイト(URL忘れました)の文章を読んだからなのです。「何回、転校してもいじめられるなら、それは本人に責任があるのだ」という文章は間違いだ、という主張が書いてあり、その趣旨は「たとえその人が周囲の人をムカつかせる天才であろうとも、ムカつく周囲の人たちの心に原因があるから」というものだったのですが、いまいち納得できなかったのです。ですが、どこがおかしいのか、はっきり指摘できなかったのです。ですので今回は、論理的によりクリアでシャープにしたバージョンで、とりあえず聞いてみたのでした。
よく考えると、命題の文に主語がいりますね。「生徒が」で、「生徒本人」ですね。こうすると、論理的にはなりたつとおもいます。たとえば原因が「生徒の服」でも「生徒の肌の色」でも「生徒の言動」でも成り立ちます。一方、別のかたの出した例ですが、
主語が「食材が」なら「食材自体」で成り立ちます。主語が「料理」なら「食材自体」は「料理の一要素」なのでなりたたない、ただ、主語が「料理」なら「料理自体」は、料理の食材でも料理の調理人でも料理の味付けでも含むので成り立つ。
結論からいうと、本人にいじめられる原因がある場合と、ない場合があるので、命題は正しくない
自分が中学生のときを思い出しました。
転校生でありながら、非常に高飛車で、暴力は振るう、爪が伸びていて喧嘩のときは凶器になる、給食は食べ散らかして掃除もしない人がいました。
この人は転校してきて、1ヶ月くらいで誰からも相手にされなくなりましたが、それは本人が悪いと思います。
人に好かれる努力するということを、明らかに怠っていました。
私は40代にもなりますが、今でもたまにその人が悪行をしている場面が思い出され、夢にうなされることもあります。
一方、病気や事故などで他人と著しく異なる身体を持っている人がいます。
そうなったのは、全く本人の責任ではありません。
しかしながら、未熟な子供の人間的な完成度で学校生活を過ごす中、そのような人が傷つくことを1回も言われないとしたら、それは奇跡です。
子供の社会は大人の社会の縮図です。
大人になりきれていない大人が子供に虐待をしたり、そこまででなくても弱い人を攻撃したり、差別的なことをしたりしている世の中では、学校でのいじめは絶対になくなりません。
最近のニュースで、いじめについてさかんに色々なことがいわれていますが、いじめをなくすためには、まず何より先に、大人が社会を変えなければいけないと思います。
id:Gream様、ありがとうございます。たいへん心やさしい方だと思いました。
ただ今回は「論理的な」話をしており、つまり人や社会がどうあるべきか、については一切、度外視したいのです。また本人に「責任」があるかではなく、「原因」があるか、の話をしています。書きながら気づいたのですが、いわば今回の質問は「原因」とは突き詰めると何? ということに帰着しそうです。
論理的には、「必ずしも正しいとは言えない」と思います。なぜ私がそう思うのか、以下に示します。
まず、論理構造の似た文章を題材にして考えてみます。
「どんな学校に転校してもいじめられるなら、そりゃ本人に原因があるんだね」という文章は、「どんな調理をしてもマズいなら、そりゃ食材に原因があるんだね」という文章に、論理構造が似ていますが、後者は肯定出来るでしょうか。
多少腕に覚えのある料理人が後者の文章を聞いたなら、「私がやれば違うかも知れない」と思うでしょうし、食材の生産者が聞いたら「そんなはずはない」と思うのではないでしょうか。
以上の論理的な問題点は、「どんな学校に…」という前提について疑義を生じさせるに充分だという事を示しているでしょう。
本当に、ありとあらゆる全ての学校に転校出来るか・したのか、と言う問題が、この文章には在るのです。料理人ならば、「本当にありとあらゆる調理を試したのか」と疑うでしょう。
次に、「本人に原因」という点について考えてみます。
「本人に原因」と言いますが、本当にそうなのかどうか、という話です。たとえば、この「本人」が外国生まれ外国育ちで、日本語がほとんど話せず、そのためにいじめられたならば、それは「本人に」原因があるのではなく、「本人の育った環境」や、「本人を転校せしめた人」に原因があると言えます。
また、たとえば本人が事故で片腕を失っており、そのためにいじめられたならば、それは「本人に」原因があるのではなく、事故を起こした方に原因があるでしょう。
要するに、「本人に原因」という文章は、それが本人自身に起因するものかどうか、本人の意思と努力でどうにかなるものかどうか、という点を無視しているのです。
たけじんさんの回答、鮮やかでしたね、BA で大賛成です。論理の問題を論理で明確に切り返す、私も斯くありたいと思いました。
id:khurata様、コメントありがとうございます。id:khurata様の回答も、たいへん勉強になりました。自分は論理的な人間だとなんとなく思っていたのですが、いわゆる「下手の横好き」であったと実感しました。ですが、たいへん面白かったです。
人によって一部Yesと判断されると思います
子ども心に、人と違うというのはすごく目立って見えて、それが弱く見える場合はいじめが発生しやすいです
例えば、太っている 例えば、口調が特徴的(方言、厨二など) 例えば、髪の色が違う
などなど
この手のものは、改善しようと思えばできるものとはいえ、本人に原因があるとも言えるのではないでしょうか
自分は小学校のときから太っていました(ラグビーをやっていて筋肉少しついて、だいぶ大きかったです)
3年生の頃から太りだし、同時にいじめが出ました
自分がまわりとくらべて大きい身体をしていたのが原因だったんじゃないかと考えますね
id:nanaTigers様、回答ありがとうございます。ある人がいじめられているときに、その原因によって分類する、という視点はいいですね。たとえば
[1] 本人的にはどうしようもない理由 (たとえば超有名な犯罪者の親戚である)
とか、
[2] 本人の行動次第で、すぐにどうにでもなる原因(たとえば異臭のするアクセサリーをいつも身に着けているが、本人的には他のアクセサリーでも全然かまわないと思っている)
かで、考えてみるのは意味がありそうですね。ありがとうございます!!
誰の書き込みかわからなかったので残念なのですが(メールで届いたのですが、すぐ削除したみたいです)、「すべてのいじめには原因がある」という前提が抜けているのでは? という指摘は鋭いと思いました。で、後出しで申し訳ないのですが、この前提も追加して考えてください。また、「他のほとんどの人はいじめられていない」のはもちろんですが、問題の条件として明示もさせてください。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
皆様の意見をいろいろ総合して考えているのですが、自分が本当に興味があることは、「いっけん意外だが、論理的に納得せざるを得ない論理パズルを作ること」であって、「どんな学校に転校してもいじめられるなら、そりゃ本人に原因があるんだね」を元ネタに、どう修正すれば、「本人に原因がある」が正しくならざるを得ないようにするか、であると気付きました。
今のところ、自分のバージョンは以下です。
p1「ある学校Xに、生徒Aが在籍している」
p2「生徒Aは学校Xの他の生徒たちから、いじめられている」(要は「転校」したことに原因があるのではない、ということ)
p3「生徒Aは、どんな学校に転校しても、いじめられる(ことになると、神様の作ったスーパーコンピュータによるシミュレーションで分かっている)」
p4「いじめられている生徒は、生徒のごく一部である」(すべてor大多数の生徒がいじめられるような珍妙な世界ではない)
p5「すべてのいじめには原因がある」
以上の前提p1~p5をすべて認めると、
q1「生徒Aに原因がある」
は論理的に帰結されるのか、もしこれでは不足なら、さらにどんな前提を追加・修正・削除をするか、もしくはq1を修正すれば、前提から結論を論理的に導き出せるのか、というのが聞きたいことでした。
論理的にはですね、「本人に原因がある」という言明の意味が不明確なので命題と言えず、論理では扱えない、が答になります。
この時点で僕とshibajunさんの間に見解の相違が出ているわけですが、ここで争点となっているのは「本人に原因がある」の定義についてです。
これは、世の中の論争の多くが論理以前の定義段階で争われていることの端的な例になるのではと思います。
id:Sampo様、id:sibazyun様、面白い例をありがとうございます。実に鋭い指摘でした。
自分的には、sibazyun様の定義で話を進めたいと思います。つまり、後から同姓同名の犯罪者が有名になった場合でも、生徒Aには(もちろん「責任」はありませんが)いじめられる「原因」はある、としたいと思います。
問題は、その定義で話を進めてさえ、なお「生徒Aに原因がある」を論理だけで帰結するのが難しそう、ということなのです。機械的に推論するだけで、「生徒Aに原因がある」というような前提をすべて列挙することが、なぜだか自分にはすごく難しいのです。
「どんな学校に転校してもいじめられるなら、そりゃ本人に原因があるんだね」
これが証明できるなら、これは正しいと言えます。
学校といってもさまざまあります。
小学校から 大学、なんとか学校とか、そのすべてにおいて いじめられるならば 確かに 本人に原因があると言えるでしょう。
だけど 実際に どんな学校 というのが ひとつやふたつだけとか ごくわずかのものだけを 指していうならば その論理を証明するのに 不十分といえるでしょう。
id:taknt様、回答ありがとうございます。今回は理論的な話ですので、「小学校から 大学、なんとか学校とか、そのすべてにおいて いじめられる」でOKです。
生徒Aに原因が無い、とは言えない。
が、論理的結論では?
原因が単一ではないのだから、可能性の取り合いです。論理は、時に曖昧です。
論理を射影と考える。
いじめられる要因が、世界に唯一で、その要素を持っている物は「必ずいじめられる」
※普通ならいじめるようなことをしない生徒しかいないクラスでも、いじめが起こる。
のであれば、AならばBの1対1対応です。きわめて論理的。
結果がBならば、原因はAであると断定できる。
いじめられる要因が、いじめる側、いじめられる側、環境など様々。ただし、どれかの要素が存在した場合には、必ずいじめが生じる。
※普通ならいじめるようなことをしない生徒しかいないクラスでも、いじめが起こる。
この場合は、多対1の対応。
AならばB、CならばB、DならばB は成り立つ。
しかし、「Bであるから原因はA」とは断定できない。原因はCやDの場合も存在する。
数式アレルギーの人には申し訳ないのですが、
y=x^2
という式、xに5を入れると、yは25です。
では、yが25になる原因は?
5と-5の二つ。
数値「25」という結果を見た限りでは、どちらと判別できない。
xは5もしくは-5である。としか言えなくて、5と断定してはいけません。
原因が多値ならばなおさらです。xは5である可能性があるだけです。
→ この場合は、「原因はAだけではない」若しくは「原因はAである、とは言えない」。これ以上の情報がないため、これ以上のことを論理的に言及は不可能。
事例が複数にわたった場合も同じ。100件のうち99件が生徒Aに原因があり、1件だけいじめる側に原因があったとしても、複数の原因が「考えられる限り」、生徒Aが原因と言ってはいけません。論理がそれを許可していません。
もともと、いじめる側に原因があることが前提です。(よね。)それが、積み重なると、いじめられる側に「だけ」原因がある、という「すり替え」が生じることが問題です。
100%いじめる側に原因がある
→ひょっとしたら1%ぐらいはいじめられる側にも原因があるかも。
→いやいや50%以上あるんじゃね?
→いじめられる側「にしか」原因ないんじゃないの?
飛躍しすぎ。というか、論理でやってはいけない「すり替え」「ねじまげ」です。
今回は、コメント欄も含め、id:takejin様の意見に大きく影響されましたので、ベストアンサーを差し上げたいと思います。最初、当然のように思っていたことが覆されるなんて、めったにないことでしたので、たいへんいい勉強になりました。
条件にもよるんじゃないでしょうかね?
例えばその学校では共通の趣味等を持つ人もいないし、体力がないし孤立気味で
結果いじめられていたけど、別の学校へ行ったら話題も合うし、馴染む事が出来た。
それ以外にもそもそも内面(例えば性格など)に問題があって、どの学校に行ってもその持前の性格で周りから人間が離れていく。
結果、どの学校に行ってもいじめられる始末。というパターンも考えられます。
その他にもビジュアルの問題だとか・・・
ですから一概にYESとは言えません。
しかし、よっぽどの何かが無ければ転校でいじめはなくなってくるとは思いますが、それでも尚いじめが続くようであれば、本人にも問題があるという可能性があると思います。
憎まれっ子世にはばかる・・・という事でwww
いや、憎まれてるのか?www
yuu-namania様、ありがとうございます。今回はとにかく「どんな学校に行ってもいじめられる」という仮定でOKです。
偽となります。
論理的には,「どんな学校に転校したとしても,いじめられる」ことを否定しなければなりません。
命題ですから
すみません、ちょっと説明不足です。
ほぼ正しいと思います.
私もいじめられたことや,嫌がらせを受けたことがあります.
けれども,今になって思うと,周りへの配慮が足りなかったり,いわゆる”KY”だったりしたために目を付けられやすかったのでしょう.
この”目を付けられやすい”ことを”本人の問題”としてみましょう.
例えば,妬みや嫉妬が主な原因で,いじめになることもあるでしょう.
また,その人の周囲(家族など)のせいで,”目を付けられやすい”こともあるでしょう.
しかし,それは”本人が悪い”からでしょうか?
少なくとも私はそう思いません.
また,いじめが止んだ場合は,どのように解釈すれば良いのでしょうか?
小学校などだと,本人にとても魅力・能力がある場合などに,ふとしたキッカケで,いじめがなくなることがよくあります.
”どんな学校”をどう解釈するかにもよると思いますが,ある程度大きな学校では,大抵はいじめがあります.スケープゴートを求めるいじめっ子や,女子の”ハブる”程度の軽いいじめがないことは考えにくいです.
なお,暴力を伴ういじめは,明らかに犯罪です.
それは,本人に難があるかどうかは別として,暴力的ないじめになった時点で,いじめた人が犯罪者なだけ.つまり,「本人の問題ではない」とも述べることが可能だと思います.
id:discounter様、まず今回の話は「責任」の話ではなく「原因」の話です。ですから「本人が悪い」以降の話は、あまり関係がありません。また今回は命題なので「ほぼ正しい」はダメだと思います。「真」か「偽」か、「そもそも命題ではないので、真偽を言えない」の、いずれかにする必要があると思います。「非常に強い相関」を、無理に論理で繋げようとしているところに問題があるのかもと思っているところですが頭が働かない!!
論理的には正しいと思います。
いじめには必ず原因があります。
いじめる側の人が変われば原因も変わります。
全てのいじめる側の人に共通の理由がない限りは本人に原因があると思います。
また、極端な話ですが、
過去にも現在にもいじめがなかった学校に転校してもいじめられたなら、本人以外に原因はありません。
結果的に本人に原因があると言えます。
id:Ultis様、ありがとうございます。この質問をした当初、自分も、これ以外に答えはありえないだろう常識的に考えて、と思っておりました。実際、日常生活ではこれで十分だと思います。
ところが、他の方の意見を参考にしつつ厳密に考えていくと、どうにも不思議な事なのですが、純粋に論理的な推論だけでは、命題が成り立たないようなのです・・・。
論理パズルとして、以下を考えます
どんな学校に転校してもいじめられるなら、そりゃ本人に原因があるんだね
この命題に違和感を感じるのは、関係から生じるいじめという現象にたいして、一方に100%の過失を認めているところで、
車の事故で言えば自損事故、静物に対する衝突に該当すると思われます。
実際にはいじめられる本人だけでいじめが発生しないことからわかるとおり、相互の関係によって発生する事象となるため、比率はともかく責任は分担されるものと思われます。よって本人のみによる100%の過失は認められず。命題は偽となります。
どんな学校に転校してもいじめられるなら、そりゃ本人に'も'原因があるんだね
であれば真となると思いますが。
100%の過失を真とするために命題に変更を加えるなら、以下のようなものが考えられます。
どこに行っても人を怒らせるなら、それは本人の言動に問題があるんだね
この場合は怒らせるというように作用方向と主体を明確にして、
主要因を言動と具体的に限定し、怒らせる事自体を問題と捉えるこで疑問をはさむ余地を皆無にできます。
行為に伴う責任の対象が能動主体でなく受動主体だと違和感を与えるものと思われます。
id:takesy8445様、回答ありがとうございます。まず「論理パズルとして」考えてみる、という今回の趣旨を理解していただいており、たいへんうれしいです。また、原文に一文字付け加えただけで、ずっと真になる確率が高くなるように改良していただき、ありがとうございます。これで完全な真になるかどうかは、あとで考えてみますが、いい線いっていると思います。「怒らせる」バージョンの説明も鮮やかでした。議論が難しくなっていたときに、具体例を出して論じていただいているので、たいへん分かりやすかったです。
論理を射影と考える。
いじめられる要因が、世界に唯一で、その要素を持っている物は「必ずいじめられる」
※普通ならいじめるようなことをしない生徒しかいないクラスでも、いじめが起こる。
のであれば、AならばBの1対1対応です。きわめて論理的。
結果がBならば、原因はAであると断定できる。
いじめられる要因が、いじめる側、いじめられる側、環境など様々。ただし、どれかの要素が存在した場合には、必ずいじめが生じる。
※普通ならいじめるようなことをしない生徒しかいないクラスでも、いじめが起こる。
この場合は、多対1の対応。
AならばB、CならばB、DならばB は成り立つ。
しかし、「Bであるから原因はA」とは断定できない。原因はCやDの場合も存在する。
→ この場合は、「原因はAだけではない」若しくは「原因はAである、とは言えない」。これ以上の情報がないため、これ以上のことを論理的に言及は不可能。
2013/09/24 09:39:06事例が複数にわたった場合も同じ。100件のうち99件が生徒Aに原因があり、1件だけいじめる側に原因があったとしても、複数の原因が「考えられる限り」、生徒Aが原因と言ってはいけません。論理がそれを許可していません。
もともと、いじめる側に原因があることが前提です。(よね。)それが、積み重なると、いじめられる側に「だけ」原因がある、という「すり替え」が生じることが問題です。
100%いじめる側に原因がある
→ひょっとしたら1%ぐらいはいじめられる側にも原因があるかも。
→いやいや50%以上あるんじゃね?
→いじめられる側「にしか」原因ないんじゃないの?
飛躍しすぎ。というか、論理でやってはいけない「すり替え」「ねじまげ」です。
今回は、コメント欄も含め、id:takejin様の意見に大きく影響されましたので、ベストアンサーを差し上げたいと思います。最初、当然のように思っていたことが覆されるなんて、めったにないことでしたので、たいへんいい勉強になりました。
2013/09/25 23:00:20