かきつばた杯を開催です。
お題:(ブラジル)の(人)(聞こえますか)?
かっこ内は自由に変えてOK。一個変えても全部変えても。
月曜の晩か火曜の晩に締め切り予定(参加者さんの都合をある程度考慮)です。
かきつばた杯についてはこちら
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%CD%CE%CF%B8%A1%BA%F7%A4%AB%A4%AD%A4%C4%A4%D0%A4%BF%C7%D5
では、よろしくお願いします!
見上げる空は、真っ黒だ。首が痛くなるほど頭を上げると、眩しいを通り越して輝く太陽が目に入る。バイザーが自動的に暗くなり、周りの景色も消してしまう。
ここは、月の裏側。今日は皆既日食が地上では観測されている日だ。
地球とは直接交信できない月の裏側は、月面基地ではある種の息抜きの場所だ。費用が掛かる月面基地の維持には、地球からの監視がきつく、宇宙服同士の会話さえ傍受されている。基地の内部でも全域監視されているから、月の裏側の定期点検は、基地の任務で一番人気だった。
「一番地球から遠い場所」
ケンはこう呟いて、観測機器の納まったドームを開く。ドームの側壁には、
”最も地球から遠い地点と認定する”
といたずら書きが書かれている。ドームの内部を点検するケンを残し、私はその周辺を歩く事にした。
この辺はレゴリスと呼ばれる月の砂が少なく、岩肌があらわになっている。見慣れた岩岩の間を抜け、幅2m程度のクレバスを目指す。深さ5mのクレバスの底には、寝転がるのにちょうどいい広さのくぼみがあるのだ。
クレバスの底に寝転ぶと、真上に輝く太陽を正面に見ることになる。バイザーを調整して、一人皆既日食を楽しむ。
太陽の脇に、金星が輝いているのがわかる。
「地球からは見えない光景だよなぁ。」
「何見てんだ?」
ケンの問いかけに答える。
「宇宙と太陽系の深遠」
「太陽越しに、冥王星でも見えたか?」
「私の心眼には、冥王はいつでも見えている」
ふと、顔を横に向ける。強い日差しが宇宙服に反射して、クレバスの側面を照らしている。その側面の一番下に、小さく光るものがある。
「ん?」
近づくと、2cm程度の丸い金属で、下の台座に載っている形は、押しボタンの様だ。
「なんだこれ」
「何かみつけたのか?」
ケンに聞かれたので、画像を送る。
「押しボタンみたいじゃないか?」
「ほんとだ、押せるのか?」
「押してみていいのか?」
「月が爆発したりして」
私は、そっと丸い金属に触ろうとした。すると、触る寸前に、金属は”押されたように”台座に沈んだ。
「押してないのに押したようなった」
「何?押したのか」
「押してないのに」
足元が揺れた。いや、振動している。表面のレゴリスが、振動でぶれて見える。私は、クレバスから飛び上がり、ドームへ走った。
ケンがドームのドアを閉めている。月面基地も、地球にもここからは直接通話できない。中継の月周回衛星も、あと20分はやってこない。
「急げ」
ケンに急かされて、ムーンバギーに飛び乗る。真上の太陽光が強く、ソーラーパワーは十分だ。
「フル・スロットル!」
その間も、月は振動している。一定の周期ではないその振動は、バギーがジャンプするたびに途切れるが、それ以外は宇宙服にまで伝わってきた。
「あれ?」
ケンが呟くのと、耳慣れた音が聞こえてくるのが同時だった。
”地球のみなさん、聞こえますか?”
ケンと私は、顔を見合わせた。バギーを止めると、振動する月面に降り立った。
”…みなさん、聞こえますか?こちらは月です。月からお伝えしています。”
「聞こえる。これは英語だ」
”今、月の裏側のスイッチが押されました。地球の皆さんが、月の裏側を歩いていることがわかりました。”
「あ」
「さっきの」
”おめでとうございます。母星を周回する衛星に到達した生物は、全宇宙からの祝福を受けることになっています。これからしばらくすると、近隣の役所から役人が派遣されてきますから、それを受け入れるようにしてください。”
「なんだって?」
「いつ来るんだよ」
ケンは空を仰いでいた。
「そいつが、地球侵略が目的じゃないって、誰がわかるんだ?」
”地球のみなさん、聞こえますか”
宇宙服から伝わる言葉が変わった。フランス語だ。
「変わったな、言葉」
「これって、地球に伝わってるのか?」
「月の微細振動を、地球上で観測できるんだろうか」
「潮汐力で伝わるのかも」
基地までの帰路の間に、月の振動は様子を変えていった。
”地球のみなさん”のあいさつが、一通りの言語で行われた後は、
”心地よい音楽をお楽しみください”と言った後、クラシック音楽を流し始めた。
「ツァラトゥストラはかく語りき、だ」
「2001年宇宙の旅の?」
「なんで、この選曲?」
ケンは肩をすくめるだけだった。
私たちはこの時、近所の宇宙からの役人が来るまで、月がBGMをかけ続けることを知らなかった。
この月のスピーカーは、地上では大音量になっていることも、音量調節もできないことも。
そして、その役人は、2万年後に到着することも。
タイトル『父へ』
「新婦のご両親、どうぞ、前へ」
暗くなった会場で、カタリと椅子が動く音が聞こえた。隣に座っていた母が、促されて席を立ったのだ。純白のドレスをまとい、家族のすぐ後ろに移動した姉の隣へ。
有名ホテルの披露宴会場。会社を営む裕福な新郎一族と、その会社で働いている中流家庭の我々新婦一族。会場を占める七割の人間は新郎側だ。私は残り三割の新婦側、一番後ろの席にいた。さっきまでにこやかだった姉の笑顔が少し消えた。
「真由美、お父さんは?」
母が小声で私に聞くが、知ったこっちゃない。娘の大事な門出の日に泥を塗るような父の居所なんて、恥ずかしくて言えない。
「探してくるよ……」
皆さま、もう少々お待ちくださいと、アナウンスが流れる。ああ、恥ずかしい。
姉の働く会社の跡取りで、現在は姉の直属の上司であり恋人の瑞樹さんがうちに来てから、父の機嫌を左右する虫は、なかなかいい居所にいなかった。瑞樹さんが姉との結婚に許しを求めてからは、機嫌の虫が逃げて行ったようだ。ここ数か月ずっと無口で行動が荒く、まともに話していない。
父の姉の可愛がりようときたら、妹の私から見てもすごいものがあった。別にそれでやきもちを妬くなんてことはなかったけれど、いつまでたっても子離れしない父は恥ずかしいことこの上ない。だが、そんな父を適当にあしらう私に対して、姉は優しく父の話を聞いていた。いつだか姉に、ファザコンなの?と聞いたことがあるが、流石我が姉、御曹司を捕まえることはあるなという答えが返ってきた。
「私たちは姉妹でしょう。お父さんは寂しいのよ。大事な娘が、他の男にとられちゃうのが。だから精一杯、好きよって示してあげるの。うちのお父さんには、それが親孝行ってやつよ」
「見つけた……お父さん!」
「ゆき」
「お姉ちゃんじゃなくて悪かったわね。由希美じゃなくて、真由美です」
「何をカッカしてるんだ」
「こっちのセリフ!新婦の感謝の言葉に同席しない父親なんて。ほら、会場に戻るよ!」
「もう一本吸ったらな」
「禁煙はどうしたのよ……ああ、もう!」
私は父から煙草を取り上げ、ごみ箱に投げた。ナイスシュート、ストンと音をたてて入ったのが気持ちいい。どうだ、観念したかと父の顔を見ると、予想外の表情だった。
父は、泣いていた。
「真由美、由希美が行ってしまうよ」
「酒クサッ……呑んだくれの世話はしたくないんだけど。私もお姉ちゃんも女なんだから、当たり前の現象でしょ。お父さんが社長とかになったら違うけど」
「社長か。でも資本金が……」
「真に受けるなっつーの」
アルコールで染まった真っ赤な顔にたくさんの涙を浮かべる父をどうにかベンチに座らせ、セルフサービスの紙コップの水を渡すと、ごくごくと音をたてて飲んだ。ヤケ酒ならぬ、ヤケ水だ。父は、いつもは厳格なくせに、アルコールが入ると泣き上戸になる。
「お父さん、お姉ちゃんは幸せになるのよ。なんで邪魔するの。瑞樹さんだってすごくいい人だし、お金もあるし。お父さんを見放したりはしないでしょう」
「そういう問題じゃないんだ。真由美に言うのもおかしいが……娘が家にいなくなると言うのは、なかなか辛いことだよ」
「そんなお父さんを家に残すのも、お姉ちゃんにとっては辛いことよ。ま、私とお母さんがいるけどね」
落ち着いてきたらしく、今度はこの世の終わりのような顔をしている。自分の時もこういう風になるのかと思うと、式は挙げたくないな、と思ってしまう。でも、女の子が一度は夢見る貴重な一日だ。なんとしても脱走犯を会場へ連れて行き、本当の笑顔でお姉ちゃんをお嫁に行かせてあげたい。あんな暗い顔で、嫁いでほしくない。
――私のお父さん、聞こえますか
「?」
「!」
「真由美、今の……」
「うん」
姉の声だ。どこかから、姉の声が聞こえる。隣の父は、由希美が誘拐されたとか騒いでいるが、犯人はすぐ見つかった。
「お父さん、大丈夫。ほら、あそこ」
「……スピーカー?」
――私は、お父さんの泣き顔を見たことがありません
「お姉ちゃん、館内放送で手紙を読んでるんだ」
「静かにしろ、真由美!」
「都合いいわね!うるさいのはどっちよ……」
――でもきっと、見えないところで泣いているんだと思います。お父さんは厳格だけれど、優しくて泣き虫だから
スピーカーから聞こえる、姉の涙声。
――これから、お父さんの涙腺はどんどん緩んでいくでしょう。歳をとるとそうなるって、テレビで観たことがあります
隣から聞こえる、洟をすする声……
――でも、当たり前だけど私はお父さんの娘です。それだけは変えたくないし、変えられない。色んな思い出があったけど……感謝の言葉しか、思い浮かびません。月並みな言葉で御免なさい
子供は生まれる家を選べないと言うけれど、少なくともお姉ちゃんも私も、それで損をしたとか失敗したとか、そういう感情は少しも持ち合わせていない。厳格だけど人情味ある父、優しく見守る母。私たち姉妹は、本当に幸せ者だ。
「お父さん、聞こえてる?」
「ああ……」
――今まで、ありがとう
「聞こえてるさ」
父が歩き出した。会場へ向かう気だ。涙でぐしゃぐしゃな顔で、こちらも泣き顔の次女を連れて、歩き出す。
扉を開ける。拍手が起きた。こちらを向いた姉が笑う。母も笑っていた。父は照れ隠しでうつむいたまま、姉の元へ向かう。その顔には、今まで生きてきた中で飛び切りの笑顔があった気がした。
出来れば掲載希望です。
お手数をおかけしたらすみません。
良いお題だと思いました。よろしくお願いします。
見上げる空は、真っ黒だ。首が痛くなるほど頭を上げると、眩しいを通り越して輝く太陽が目に入る。バイザーが自動的に暗くなり、周りの景色も消してしまう。
ここは、月の裏側。今日は皆既日食が地上では観測されている日だ。
地球とは直接交信できない月の裏側は、月面基地ではある種の息抜きの場所だ。費用が掛かる月面基地の維持には、地球からの監視がきつく、宇宙服同士の会話さえ傍受されている。基地の内部でも全域監視されているから、月の裏側の定期点検は、基地の任務で一番人気だった。
「一番地球から遠い場所」
ケンはこう呟いて、観測機器の納まったドームを開く。ドームの側壁には、
”最も地球から遠い地点と認定する”
といたずら書きが書かれている。ドームの内部を点検するケンを残し、私はその周辺を歩く事にした。
この辺はレゴリスと呼ばれる月の砂が少なく、岩肌があらわになっている。見慣れた岩岩の間を抜け、幅2m程度のクレバスを目指す。深さ5mのクレバスの底には、寝転がるのにちょうどいい広さのくぼみがあるのだ。
クレバスの底に寝転ぶと、真上に輝く太陽を正面に見ることになる。バイザーを調整して、一人皆既日食を楽しむ。
太陽の脇に、金星が輝いているのがわかる。
「地球からは見えない光景だよなぁ。」
「何見てんだ?」
ケンの問いかけに答える。
「宇宙と太陽系の深遠」
「太陽越しに、冥王星でも見えたか?」
「私の心眼には、冥王はいつでも見えている」
ふと、顔を横に向ける。強い日差しが宇宙服に反射して、クレバスの側面を照らしている。その側面の一番下に、小さく光るものがある。
「ん?」
近づくと、2cm程度の丸い金属で、下の台座に載っている形は、押しボタンの様だ。
「なんだこれ」
「何かみつけたのか?」
ケンに聞かれたので、画像を送る。
「押しボタンみたいじゃないか?」
「ほんとだ、押せるのか?」
「押してみていいのか?」
「月が爆発したりして」
私は、そっと丸い金属に触ろうとした。すると、触る寸前に、金属は”押されたように”台座に沈んだ。
「押してないのに押したようなった」
「何?押したのか」
「押してないのに」
足元が揺れた。いや、振動している。表面のレゴリスが、振動でぶれて見える。私は、クレバスから飛び上がり、ドームへ走った。
ケンがドームのドアを閉めている。月面基地も、地球にもここからは直接通話できない。中継の月周回衛星も、あと20分はやってこない。
「急げ」
ケンに急かされて、ムーンバギーに飛び乗る。真上の太陽光が強く、ソーラーパワーは十分だ。
「フル・スロットル!」
その間も、月は振動している。一定の周期ではないその振動は、バギーがジャンプするたびに途切れるが、それ以外は宇宙服にまで伝わってきた。
「あれ?」
ケンが呟くのと、耳慣れた音が聞こえてくるのが同時だった。
”地球のみなさん、聞こえますか?”
ケンと私は、顔を見合わせた。バギーを止めると、振動する月面に降り立った。
”…みなさん、聞こえますか?こちらは月です。月からお伝えしています。”
「聞こえる。これは英語だ」
”今、月の裏側のスイッチが押されました。地球の皆さんが、月の裏側を歩いていることがわかりました。”
「あ」
「さっきの」
”おめでとうございます。母星を周回する衛星に到達した生物は、全宇宙からの祝福を受けることになっています。これからしばらくすると、近隣の役所から役人が派遣されてきますから、それを受け入れるようにしてください。”
「なんだって?」
「いつ来るんだよ」
ケンは空を仰いでいた。
「そいつが、地球侵略が目的じゃないって、誰がわかるんだ?」
”地球のみなさん、聞こえますか”
宇宙服から伝わる言葉が変わった。フランス語だ。
「変わったな、言葉」
「これって、地球に伝わってるのか?」
「月の微細振動を、地球上で観測できるんだろうか」
「潮汐力で伝わるのかも」
基地までの帰路の間に、月の振動は様子を変えていった。
”地球のみなさん”のあいさつが、一通りの言語で行われた後は、
”心地よい音楽をお楽しみください”と言った後、クラシック音楽を流し始めた。
「ツァラトゥストラはかく語りき、だ」
「2001年宇宙の旅の?」
「なんで、この選曲?」
ケンは肩をすくめるだけだった。
私たちはこの時、近所の宇宙からの役人が来るまで、月がBGMをかけ続けることを知らなかった。
この月のスピーカーは、地上では大音量になっていることも、音量調節もできないことも。
そして、その役人は、2万年後に到着することも。
掲載等については、ご自由に。
重たい音を立ててアパートのドアが開く。トーンを抑えた声での会話が隙間から流れ込んでくる。今日は男連れでのご帰宅だ。――― しばらく部屋の外から聞こえてきたくぐもった声が ようやく途切れ、二人でもつれ合うように部屋の中に入ってきたときには 彼女の白いシャツの首ははだけ、透き通るようなうなじを惜しげもなくさらけ出している。そのままベッドに倒れこみ、彼女にむさぶりつこうとした男を、白く華奢な指が静止する。
「駄目よ、シャワーを浴びなきゃ」
男は渋々といった様子で彼女の言うことに従い、狭いユニットバスの方に向かう。彼女はベッドに横たわったままじっと天井を見上げている。マスカラをつけていなくても長くはっきりとしたまつ毛。大理石の彫刻を思わせる透き通った肌に、すっと通った鼻筋。意志の強さを示しているかのような少しとがった顎。これから他の男に抱かれようとしていることなんて気にならないほど、今日も彼女はきれいだ。
シャワーの水音が聞こえてくると彼女はベッドから 物憂げに立ち上がり、軽く髪を整えるとキッチンの方に消えてゆく。再び部屋に入ってきた彼女の手には飲み物の用意がされていた。小さなトレイをベッドわきの小さなテーブルに置いたところで、半裸の状態で髪をタオルで拭きながら男が部屋に入ってきた。
「先に飲んでて」
入れ替わりに彼女もシャワーを浴びるのだろう。シャツとスカートを無造作に脱ぎ捨て、部屋から消えてゆく。
「良かったら、これもつまんでて」
シャワーを浴びる前に部屋に戻ってきた彼女の手は、チーズやフルーツがよそられた皿を持っている。サイドテーブルに向かってソーダ割りを作っている男は、ああとか、うんとか、くぐもった声で言葉になっていない返事をする。その背中は「あまり焦らすなよ」と、言っているようだ。
「ふふっ、焦れているのはあなただけじゃないのよ」
サイドテーブルを向いたままの背に、薄いブラに包まれた 細身の体にはやや不釣り合いなサイズの胸を押し付けながら、ゆっくりと左手を男の体に回してゆく。
「我慢できない ―――」
男が振り向くのが先だったか、彼女が飛びずさるのが先だったか、二人の間にできた領域に赤がぶちまけられた。血だ ――― 彼女の右手に握られている果物ナイフは、しっかりとした厚みの刃に、ねっとりと血をからませている。男は空をつかむようにしながら前のめりに倒れ、 気道まで断ち切られているのか声にならない音をガボガボ言わせながら、俯せになったまま ほどなくして動かなくなってしまった。
やばいものを見ちまった。
部屋が少し広いことだけが売りで平均的にはあまり条件が良いとは言えない部類に入るアパートだが、腕の良い職人が防音工事を施したこの部屋では、この程度の物音であれば外に聞こえることはない。すぐに警察が駆けつけてくるというようなことはないだろう。しかし、やや都心からは外れた所だとは言っても、真夜中にでもならなければ人通りが完全に途絶えるわけではない この街で、大の男の体ひとつを、周りに気づかれずに片付けるのは骨が折れそうだ。彼女がこの状況をどうする切り抜けるつもりなのかは知らないが、早く ここから逃げなくては。
今、すべきことは何か。頭では分かっている。分かっているはずなのに、びっしょりと汗で濡れた両手は、つかんでいるモニターを なかなか離そうとしない。なるべく早く逃げなくてはいけないのに、画面に映る彼女から、俺は視線をはがすことができなかった。
持っていたナイフを、動かなくなった男に投げつけると、半身を血で赤く染めた彼女は 均整のとれた肢体をベッドの上に投げ出し、大きく息を吸ったかと思うと、大きな声で笑い出した。瞬きもせずに宙を見つめながら、彼女の口から流れ出る笑い声は、ヘッドホンから鼓膜を突き抜けて脳の中に直接 刺さってくる。俺はたまらず ヘッドホンの上から耳を覆う。
やばい。本当にやばい。
立ち去らなければ。 今、すぐに。
力を入れ過ぎたせいで自由が効かなくなっている両手でヘッドホンをむしり取る。落ち着け。考えるんだ。本来の天井と防音材の隙間に作られた、この空間に持ち込んだものは何だ。ここはもう使えない。足元を見ることもできないほどの狭い空間には、それほど多くのものを持ち込めたわけではない。全て持ち出さないと ――― いや、ファイバースコープやマイクは持ち出せても壁に埋め込んでいるケーブルはどうする。それに、指紋や汗、髪の毛などの、ここにいたのが誰なのかを特定するには十分すぎるくらいの痕跡を短い時間で取りきるのはとても無理だ。
軽い絶望感で少しだけ冷静になった俺は、転がったヘッドホンから漏れ聞こえていた狂ったような笑い声が止んでいることに気が付いた。モニターの中の彼女は仰向けのまま両手を体の脇に投げ出して、身じろぎもせずにベッドに横たわっている。色素が薄い大きな目が天井をじっと見つめている。まさか直径 3mm のファイバースコープが見えているはずがない。ましてや、天井の防音素材の奥に俺がいることなど、彼女に分かるはずがないのだ。そんなはずがないと思いながら、呼吸音が聞かれてしまうのではないかと思うと、息をするのも ままならない。息をひそめたまま、衣擦れの音が聞こえてしまうのが怖くて身じろぎもできず、モニターの彼女を見ること以外 何もできない。
彼女はじっと天井を見上げたままだ。モニターの向こうからこちらを見つめている彼女は、まるで俺と目を合わせているのではないか。馬鹿な。そんな錯覚にとらわれる。どのくらい見つめあっていたのだろう。彼女が かすかに ほほ笑んだ ――― ような気がした。もう動けない。彼女の口が動いている。微かに。だがはっきりと。何だ。いや、見えているはずがない。何をしゃべっている。てらてらと光るルージュをのせた唇が動く、ゆっくりと。優しく愛撫するように。ああ
彼女はゆっくりと両の手をこちらに差し出す ―――
「て ん じ ょ う の ひ と、 き こ え て る ん で し ょ ?」
お気に召したなら、掲載でも校正でも好きにやっておくんなまし。
『新たな仲間』
掲載等については、ご自由に。
2014/05/13 00:00:38