ロシアは、千島を放棄して、樺太を得たというふうに思っていました。
カムチャッカ半島は、最初からロシア領と確定していたように感じます。
この条約以前は、カムチャッカ半島はどういう扱いだったのですか。
この条約を結ぶ前においては、
学校では、千島の扱いと樺太の扱いが曖昧だったのだ、この条約ですっきりしたのだ、
とは習いましたが、そのとき、
カムチャッカ半島のことは話題にもあがりませんでした。
カムチャッカ半島は条約を結ぶまでもなく、最初からロシア領だと明快な状態であったのでしょうか。
付け加えます。
松前藩が、
「1715年(正徳五年) - 幕府に対し、松前藩主は「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。」と・・・、
カムチャッカ(勘察加)は、松前藩領(つまり、日本の領土になってくる?)ような意味の報告をしていますから、
千島樺太交換条約の前は、
樺太と千島は曖昧だし、カムチャッカ半島も曖昧な状態の筈ではないか、と思ったので、
このような質問しました。
質問本文では、千島樺太交換条約にだけ触れていますが、
たとえば、日露和親条約で
日本は、カムチャッカ半島を見返りなく一方的に放棄させられていたのでしょうか。
正徳年間の松前藩の報告を受けた時点で、幕府が手を打っておけば、樺太も千島も、カムチャッカ半島も、すんなり日本領土だったのではないか、と思いました。
コメント(2件)
つまり、別の民族が住んでいたのを強引に併合した。
それほど税収が期待できない割には自然条件が厳しいので、両国とも分捕り合戦で戦争するほどではなかったようだ。
それなりに陰険なやりとりの記録はある。
千島樺太交換条約では、日本を日本と交換したなどと、政府への批判があったと思います。
ちょっと政府に酷かなと思っています。その前提に、日露和親条約があるわけですから。
千島樺太条約の交渉の際、ペテルブルクで行われた交渉なわけですが、
カムチャッカ半島について、陰険なやり取りがあったのですね。どんなやりとりだったか、知りたいと思いました。
現地に昔から居た住民は無視されているので、いまから思えば、とんでもない、という見方もできると思いました。
日露和親条約で、樺太については曖昧にしたまま、
北千島(得撫島以北の諸島)を放棄し、カムチャッカ半島も放棄しているわけですから、
日露和親条約は、北千島・カムチャッカ放棄条約と読んだ上で、
1875年の条約を、千島樺太交換条約と呼んだようが公平ですね。