まず、周王を天子とする王朝での、王と諸侯の間では何語で会話したのでしょうか。通訳がいたのでしょうか。南の諸侯はまだ台頭しておらず、黄河流域の諸侯だけなので、言葉は十分通じたのでしょうか。
次に、春秋五覇の時代になると、南の諸侯も出てきて、諸侯同士が対面し、会盟をしたりしますが、南の楚や呉や越は言葉がだいぶ違うと思いますが、どうやって会話したのでしょう。第三に、戦国時代ですが、遊説家が現れ、諸国を遍歴しますが、言葉はどうしたのでしょうか。
ヨーロッパのラテン語みたいな共通語があったのでしょうか。
当時の記録が部分的にしか残っていません。
公式な記録は史記ですが、かなり改竄されているのは周知の通りです。
多数の民族が広大な地域に割拠していたわけですが、最終的に勝ち残ったのが漢民族の国家だったというのは、ほぼ確実だと思われます。
つまり、その程度の記録しか残っていません。
多くの民族が記録されることなく滅亡したと思われます。
秦の始皇帝が多数の民族を能力によって登用したことは良く知られていますが、当時の中原の諸勢力には多数の民族が存在したと考える方が自然です。
当然ながら、多数の言語が飛び交い、二国語、あるいは多国語の通訳のような職業も存在したようです。
通事というのを聞いたことがありますが、後世の言葉だと思われます。
2014/08/16 22:25:11当時とは文字すら変化している。
もちろん、発音や、基礎的な言語に対する概念が変化していると思われるのですが、詳細は発掘作業のような解析作業に委ねるしか無く、しかも資料が不完全です。
有難うございます。
2014/08/23 01:11:36