「庶幾(ちか)からん」は、どういうニュアンスでしょう。
ネットで調べてみたのですが(漢語のようですが)、意味がつかめませんでした。
該当する単語が使われているのは、漱石の『余が一家の読書法』(『世界的青年』第一巻第一号、明治39年9月1日)です。
「及(すなわ)ち余の所詮暗示を得んとする読書法に依る時は、如上の平凡に堕することを免れ且つこれを活用することを得て、乱読家たるの謗(そしり)を受けざるに庶幾(ちか)からん」です。
・意味としては、かなの読み方のように、「近からん」つまり、「近いだろう」。
全体としては、「乱読する人といわれても近いだろう、乱読する人といわれても
あたっているだろう」
・「庶幾」は漢和辞典でひくと、(1)希望する、(2)近い。で、「庶」自身が「希望する」
と「近い」の意味があるようです。それがなぜかまではわかりません。(2)の意味は
孟子に出てくるようです。
・漱石がなぜ使ったかはわかりませんが、あの時代、孟子の訓読あたりはインテリの
素養だったのでしょう。
庶幾(ショキ)とは - コトバンク 心から願う意味だそうです。
漢語に適当な当て字訓読みをつけてわかりやすくした時代の主流作家なので他ではあまり使わないとおもいます。(漢字検定では出るかもしれませんが)
「及(すなわ)ち =つまり
余の=わたくしの
所詮=いわゆる
暗示を得んとする=暗示を得ようとする
読書法に依る時は、=読書法による場合は、
如上の=上に述べたような
平凡に堕することを免れ=平凡になってしまわないようにして
且つこれを活用することを得て、=それでいてこれを活用できるから、
乱読家たるの謗(そしり)を=「乱読家だろ」の悪口を
受けざる=受けないで居る
に庶幾(ちか)からん」=ことを心からねがえましょう。
(現代文ですけれど)『梁恵王章下(一)』を改めて読み返してみました。含蓄のある文章だなぁと、思いました。(王様が、おひとりで音楽や狩を楽しむなら、人民の心は離れていってしまう。一方、音楽や狩を人民と楽しまれるなら、人民も自然によく なついて、やがて王様は天下の王者となるでしょう)。孟子は、斉の宣王が天下の王者になるよう(庶幾)心から願っていた。ああ、そういうニュアンスもありかな、と思いました。漱石のこの文章は、fiwaさんのおっしゃる通り、推測(だろう)くらいのニュアンスでしょうか。
手もとの『孟子』(上)(小林勝人 / 岩波文庫)をめくってみました。『梁恵王章下(一)』ですね。「則齊其庶幾乎」。現代語訳では、「斉の国が(よく治まり、天下の)王者となるのも、そう遠いことではあるまい」となっています。漱石は、二松学舎で学んだそうですから、その際に『孟子』を学んだのかも知れませんねぇ。
2015/02/09 17:54:46