宗教ということは、論理的ではないということであり、感情をむき出しにして、冷静な対話ができません。
アポロ月着陸を肯定するか、しないかは、神がいるか、いないかに近い。感情を向きだしにして、相手をけなしつつ行う議論は空しい。
この宗教的な対立を乗り越える手段があれば教えてください。
神を信じるかどうかと、アポロの話は違うでしょう。信教の自由と、歴史的事実です。アポロは、チョコにもなっていますし、現実です。そりゃ、感情的に反論したくもなるでしょう。
あなたは、「月に着陸している」と思っている人たちに「月に着陸していない」と
思わせたいのでしょうか?
「月に着陸していない」ということを受け入れてくれないために 感情的になるのではないのかと思われます。
「月に着陸している」と思っている人たちは、それでいいのです。
無理に 変えようとしてはいけません。
逆にあなたが、「月に着陸している」ということを信じるようにしてみたらいかがでしょうか?
そうすると 感情をむき出しにして否定しますか?
「徐々に、もしかして行っていなかった?
やっぱり行ってなかったかな、、」
となった根拠を示してもらっていいですか?
(あなた自身が感情的にならぬよう)ネットや本の受け売りなしでお願いします。
とりあえずネットの受け売り置いておきますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アポロ計画陰謀論
そのような根拠はありませんので提示できません。
>対立を乗り越える手段
反論を「感情的」と決め付けないことですね。
アポロの乗組員は「月に行った」か「月に行ったことにする陰謀に加担してる」かどちらかなので、月に行ったとしか証言できません。
>論理的な反論ができるのでしょうか。
当事者であったかどうかは、論理的な議論をする/しないとは全く関係ありません。
むしろ、当事者でないから感情に左右されずに議論ができるという点もありますが、元々論理的な議論というのは「全部事実かどうかを確認する」という原始的な手段を得ずに結論を得る為の手段です。
この例えは他人の受け売りですが、
「石は水に沈む」という命題について、
※注 話を単純化するため、この場合の「石」は比重が水より重いもののこととしてください。軽石とか模造石とかは除く。
石は水より比重が重い
↓
だから石を水に投げ込むと、それが押しのける水の重量より石の重量の方が大きい
↓
だから石にかかる浮力より石にかかる重力の方が大きく、そのため石は水に沈む
ゆえに正しい。
とできます。
一方で、「いや、実際に石を全て水に沈めないと確認できない」というのは論理的とは言いません。
私は、ここまでこじれる批判の応酬合戦は、ある側面では「神は~」に近いところにあるという点は納得できます。
もはや事実が何であるかという所はどうでも良くなっているというか。
恐らく信じるという行為(思考?)は、感情や好き嫌いといった感覚と、てても結びつきやすいものなのだと思います。どちらが卵でどちらが鶏かは分かりませんが。
なので、自分の信じるもの = 良いもの、異論 = 悪いもの、といった同一化が強くなってしまうのでしょう。そして、自分の信じていたものがウソであったとすると、それは“単なる事実”という枠組みを超えて、自分自体が否定されたように思ってしまうのではないでしょうか?
だから、異論を唱える人を排除したい衝動に駆られるのだと思います。これはどちらか一方が正しく、もう一方が間違っているというより、我々ヒトの感情にはそういった側面もあるということなのではないでしょうか?
ヒトという言語を操る動物に固有のものなのか(言語現象なのか)、条件反射実験で気が狂ったイヌがいたように、脊髄反射のメカニズムをもつ脊椎動物に共有されているものなのか。
もしかしたら後者かもしれない。
そして、後者であるならば、言語を操る知的野生生物であるヒトは、その陥穽を乗り越える手段をもつことができるのではないかというのが、一連の質問の背景にある私の意図です。
つまり、我々の言語活動が、脊髄反射をベースにしているために、いったん形成された記憶と反対のこと(行った行かない、あるない、0か1かといった、白黒がはっきりしている議論の場合に共通します)を聞くと、思わず、そんなことはないよと言いたくなるのではないでしょうか
ジャン・ピアジェの「知能の心理学」を思い出しました。
どんな人も,各自の心の中に,分類,系列化,説明体系,自分一個だけの空間,時間,価値尺度などをもっていて,事物がでてくればそれを分類し,比較し,(同じか,ちがうかの双方),時間および空間の中に秩序だて,説明し,目的と手段とを評価し,計画し,等々のことをやって,その人の一生を通じて心の中にある群や群性体の操作を行なっている.
こうして、いわゆる概念体系、概念のネットワークが脳内で構築される。
それがいったん構築されてしまうと、それに対するひとつふたつの反例は、スムーズに取り込まれる。
行ったか行かなかったかは、体系そのものを否定するから、猛反発するのでは?
どうでしょうか
問題は、我々はどうすれば、誤っているかもしれない自分の概念体系そのものを修正することができるのかということになりますか
あなたの理屈だと全てが客観的事実の裏付けのない「信仰」になりますね。
科学と相容れないないので、少なくとも科学の恩恵を受けずに日々生活するよう精進して下さい。
あ、インターネットとか使っちゃダメですよ。
そういうことは言っていません。
ですが、もしかしたら、あなたにとって、インターネットは魔法のランプみたいなものとして認識されているのかなと思いました。
インターネットを理解するためには、タネンバウムの本にあるように、相当複雑な知識が必要とされます。
それを理解していれば、使ってもいいということになりますか
http://ec.nikkeibp.co.jp/item/books/P84760.html
初級者用としては良さそうな本ですね。
つまみ食いする程度であれば必要十分だと思います。
OSIモデルなんて知らなくてもインターネットを利用しても良いと思いますよ。
ただインターネットに溢れた情報に飲まれるとあなたのような方が量産されてしまうので注意が必要ですね。
概念体系を構築するだけでも大変なのに、いったん構築した概念体系を誤り修正するってのは、非常に大変です。
アポロの「行った・行かない」は、概念体系の誤り訂正の問題として理解したほうがよいかもしれません。
感情を向きだしにして、相手をけなしつつ行う議論は空しい。
この宗教的な対立を乗り越える手段があれば教えてください。
これは心理学的には認知的不協和ということになるかと思います。
「アポロ計画陰謀論」の人は、それなりに思索を重ね書籍を読み、とコストを支払ってきています。
一方で「アポロ計画陰謀否定論」の人も、それなりに思索を重ね書籍を読み、とコストを支払っています。
ですから、「アポロ計画陰謀論」の人は、アポロが月に行った事を受け入れると、それまでに支払ったコストが無駄であった事を認めることになり認知的不協和を生じます。
同様に、「アポロ計画陰謀否定論」の人も、アポロ計画陰謀論を受け入れると、それまでに支払ったコストが無駄であった事を認めることになり認知的不協和を生じます。
ついでに言えば「アポロ計画陰謀論」はトンデモ陰謀論の一種とみなされており、これを受け入れることはなし崩し的に科学的知見が否定されていくことになりかねず、科学教育を受けてきた人たちにとってはそれまでに支払ったコストが無駄であった事を認めることになり認知的不協和を生じます。
よく挙げられる例として、「喫煙者」の不協和がある。
認知的不協和 - Wikipedia
喫煙者が喫煙の肺ガンの危険性(認知2)を知る
このとき、認知1と認知2は矛盾する。「肺ガンになりやすい」(認知2)ことを知りながら、「煙草を吸う」(認知1)という行為のため、喫煙者Aは自分自身に矛盾を感じる。そのため喫煙者Aは、認知1と認知2の矛盾を解消しようとする。
一番論理的なのは認知1を変更することだ。「喫煙」(認知1)を「禁煙」(認知3)に変更すれば、「煙草を吸うと肺ガンになりやすい」(認知2)と全く矛盾しない。
これが小さなことならば、自分の行動を修正または変更することで足りる(例えば、漢字を間違って覚えていたならば、正しい漢字を覚えなおせばよい)。しかし、喫煙の多くはニコチンに依存する傾向が強いため、禁煙行為は苦痛を伴う。したがって、「喫煙」(認知1)から「禁煙」(認知3)へ行動を修正することは多大な困難が伴い、結局は「禁煙」できない人も多い。その場合は、認知2に修正を加える必要が生じてくる。
「喫煙者で長寿の人もいる」(認知4)を加えれば、「煙草を吸う」(認知1)と「肺ガンになりやすい」(認知2)との間の矛盾を弱めることができる。そして「交通事故で死亡する確率の方が高い」(認知5)をつけ加えれば、肺ガンで死亡することへの恐怖をさらに低減することができる。
なお、アメリカの煙草会社はキャンペーンで以下のように主張する[要出典]。
煙草を吸う人が肺ガンになりやすいのは、煙草が肺ガンを誘引するのではない。ストレスを抱えている人がストレスを和らげるために煙草を吸うだけであり、ストレスが要因となって肺ガンを引き起こすだけで、煙草と肺ガンの間に因果関係はない。
この主張は「煙草を吸うと肺ガンになりやすい」(認知2)を変化させることで、認知的不協和状態を解消させようというものである。
つけくわえるなら、宗教は信仰を通じて毎日の礼拝などの膨大なコストを神にささげていますから、これを否定すれば大きな認知的不協和を生じます。
感情を向きだしにして、相手をけなしつつ行う議論は空しい。
この宗教的な対立を乗り越える手段があれば教えてください。
つまり、相手の持論を否定しない、ということになるかと思います。あるいは「アポロ計画陰謀否定論」のよりどころは科学ですから、科学の話をしない、というのもいいかと思います。
参考になれば幸いです。
はい、そのように思います。
陰謀論者、陰謀否定論者、ともにそのような心理的バイアスが働いている、と考えるのが妥当かと。であるが故に反対意見に対しては双方とも攻撃的になりがちでしょう。
しかし、次世代のことを考えたら、本当のことを教えてあげたいですよね
アポロが月に着陸したのかしてないのか、という議論を、宗教的対立のようなこじれたものにしたくない、ということであれば、
ただただひたすらに、ひとつひとつの具体的な事実の検証に議題を絞ればよろしい。
なぜなら、科学と言うものはそのように発展してきたわけで、詳細な客観的事実(これは、「いつどこで誰が再現実験・あるいは解釈しても同じ結果が出る」という程度の意味とご理解ください)の膨大な積み重ねが最終的に時の宗教者たちにすら(例えばローマ法王とか)、その価値を認めさせ、考えをある程度修正させるにいたったわけです。
ですから、あなたが本当に「正しいことを教えたい・知りたい」と望み、この件において建設的な議論をしたいのであれば、やるべきことは、既存の公開されている一次資料の徹底的な検討をして、それに対してあなたが思う矛盾・おかしいところをここで質問する事かと思います。
今までにアポロに対して多くの人が積み重ねてきた業績・知見を覆したいなら、それなりの時間と手間をかけるしかないのです。
宗教的対立がどうとか言っている場合ではないと思います。現状のやりかたは、率直に言って科学的方法論を放棄して、宗教的対立だという事にしてしまおうという詭弁的態度に感じます。
コメントありがとうございます。
>今までにアポロに対して多くの人が積み重ねてきた業績・知見を覆したいなら、それなりの時間と手間をかけるしかないのです。
ある概念体系を構築し、それが今度は壊れていく、壊されていくとき、あなたのおっしゃるような具体的事実をめぐる質問が有効なのかもしれません。
あるいは、もっと別の契機があるのかも
人によって違うかも
座禅や現代芸術作品を好きな人と、そうでない人で個人差があるでしょうか
私はなにも宗教だから放置しようというつもりはありません
宗教であっても、対立を解消することが望ましいと思っています
一応誤解の無いように補足しておきますが、私は「宗教的対立ならば解消する必要がない」、と思っているわけではありません。
「これは宗教的対立などではない」と申し上げているだけです。
実際宗教的対立というのは、宗教が現実で生きていく上での道具としての側面がありますから、社会で生きていく上で不利益を被るような宗教は教義や解釈を修正する事で、社会との対立を回避してきたわけです(すげえ大雑把に言えば、ですけど)。
逆にいえば、あなたがこれを「宗教的対立」と認識しているなら、あなたが現実社会で生きる上で問題がしょうじないのであれば放置しても一向に構わない対立に過ぎない、とも言えるでしょう。
そして、NASAで働いている科学者でもない限り、アポロ陰謀論を信じているからといって生きる上での不都合はそれほどないでそう。
結局、あなたが科学的な事実を求めているのか、あなたの心の中にある真実に対して補強を求めているのかで変わってくると思います。前者なら科学的方法論によるしかないでしょうし、後者なら私から言う事は特にありません。
宗教の違いや、皮膚の色の違いなどは、人間はいがみ合う、理解や協力しあえないことのシンボルのようですが、本当はそれでも乗り越えられるし、逆に何を理由にするかは別として人間は敵と味方を作り出すものなのかなあとも思います。
アポロの議論がどうしてこんなにこんがらがるのかについて考えていると、いろいろと発想がふくらみます。
> この宗教的な対立を乗り越える手段があれば教えてください。
対立するのは「相手が間違っている,自分が正しい」と
決めつけているからではありませんか?
一度「相手が正しい,間違っているのは自分の方だ」と仮定して
相手の主張,自分の主張を客観的に見直すのはどうでしょうか?
場合によっては,実は自分が間違っていた,ってことも有るかも知れませんよ.
おもしろいご提案ですね
質問者は、オルドリン飛行士の月面着陸を信じていないのですね。
Aldrin, uzz 19300120 America /NASA ; 19661115 Gemini 12,19690720 Apollo 11
Aldrin met ShinRai in England London; 1994‥‥
ShinRai 19591027 Japan /Hatena ; 20031209q,20031210a
まず、なんにでも正誤があるが100%決定できないという前提があります。(人智は真偽について限界がある。自分が見聞きしたものさえ後から考えれば信じられなくなることもある)
今回は、学問的な裏付けをもって「おそらく99%誤といえる。」とされている命題です。
「誤」を「正」のはずでしょう? といきなり質問サイトで言えば、回答者は「いいえ誤は誤です」といわざるをえません。
それが人力検索サイトの目的なので。
たとえば、交流したい、緩やかな論議をしてほしい、時間をかけて納得させてほしい、といった目的なら他のサイトにいけばよいです。あるいは、問題を自分で小分けしてすこしずつ「この資料についてどうおもいますか」などとするのもいいかもしれません。
このサイトは、手軽に答えを得たい人もくるのです。
回答者も(いろいろ居ますが)文面からよみとった限りでさくっとこたえを出します。
余談ですがここには救急車を呼ぼうかという緊急性のある質問も出ます。
そのとなりに40年前の宇宙飛行の真偽を尋ねるとか、けっこう不思議ちゃんな行動ですよね。
TPO(タイム、プレイス、オケージョン)のどれもまちがった調べ方をしているのではないかとおもいますよ。
ウェブというのは、40億人が接続しているとおもったほうがよいです。
少し人目にひっかかる主張をいうと、個人には対応できないほど長い行列が出来て一発ずつ殴られてしまう。
もし謝ったり訂正したり、納得したからもうやめてといっても列の後ろまでは聞こえてないので行列は解消しません。
結論にうつります。
ウェブは良くも悪くも、影響の大きい場所なので、慎重に行動してください。
この場合も、質問の裏には「僕は正しいんじゃないの? 僕を納得させてよ。ああ、僕にわかるようにゆっくりとね」という高飛車な自己主張が含まれているタイプの質問だったと判断しました。
本当に答えが知りたいのなら、手近でまにあわせた細切れの答えを集めておいて「おかしい」と首をかしげるよりは、
自分で努力して、尋ねるべき人に尋ねるべき態度をもって学びにいったほうがよいとおもいます。
そして首尾一貫した対話をだれか一人とくりかえすべきです。
1960年11月、ジョン・F・ケネディが、アメリカ合衆国第35代大統領に選出された。ケネディ大統領は、宇宙開発やミサイル防衛の分野で、ソヴィエト連邦より優位に立つことを公約としていた。
1961年4月12日、ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンが、ボストーク1号で史上初の有人宇宙飛行を実現した。そこでケネディ大統領は、1969年の終わりまでに人間を月に着陸させると言うアポロ計画を表明した。その為、250億ドルの予算を支出し、2万以上の企業と大学とが協力し、アポロ計画はピーク時には40万人以上の従業員を雇傭していた。
1966年2月26日のアポロ1Aに始まり、1969年5月18日のアポロ10号で月面まであと15.6㎞の所まで接近した。
そして、公約期限ギリギリで、アポロ11号が月面着陸を成功させた。1969年7月16日13:32にサターンV型ロケットで、ニール・アームストロング船長、エドウィン・オルドリン月着陸船操縦士、マイケル・コリンズ指令船操縦士が、月に向かって地球を出発した。マイケル・コリンズは指令船に残り月を周回し、アームストロング船長とエドウィン・オルドリン操縦士2名が月着陸船に乗り込み、7月20日20:17に月面に着陸した。
そして、アームストロング船長がはしごを降りて月面に降り立つ映像や、月面での船外活動の様子をとらえた映像は世界中に配信され、6000万人以上の人がテレビでこの映像を見ていたと言われている。着陸船の足に取り付けられていたスロースキャンテレビの映像は、テレビ中継の規格に適合しないとして放映されなかった。本放送で流されたのは、従来のカメラで撮影された映像であった。その後、スロースキャンテレビの映像は行方不明となり、2009年にNASAは正式にこの映像が失われたことを認めた。
従来のカメラで撮影された船外活動の様子には、不自然な点が多数ある。ものの影が様々な方向を向いているのである。これは、多数のライトを天井に設置した時に起る現象である。空気の無い月面に立てた星条旗が激しくはためいているのである。違う場所なのに、背景が全く同一である場面が多くある。着陸船の着陸時の噴射で、月面にはクレータが出来るのにそれがない。宇宙飛行士が月面でジャンプすると、重力が弱く飛ばされてしまうのに、楽しそうに普通にジャンプしている。宇宙飛行士の背中にワイヤーが見える。宇宙飛行士の動きを2倍にして見ると、地上での人間の動きとなる。月面と背景の山のとの間に、境目の線がある。月面の石に、小道具の置き場所を示す「C」の文字が書いてある。月面で撮影したのに、空に星が写っていない。分厚い手袋をはめ、ファインダーの無いカメラで撮影したのに、どの映像も露出及び構図が完璧である。
また、技術面から次の様な疑問が起っている。バンアレン帯と呼ばれる高い放射能を帯びた部分では、飛行士は数分で死亡してしまう。それを、当時の技術では防ぐことが出来ない。月面は130度から-150度まで急激に変化する。カメラも人間もこの高温や低温には耐えられない。アポロ11号が持ち帰った石は、地球の石と変わるところがない。着陸船及び指令船に搭載されたコンピュータは、1980年の家庭用ゲーム機よりも性能が劣り月まで航行することは非常に困難である。
この様に、数多くの疑問が沸き起こり、アポロ11号は月面には着陸していないのではないかとの疑問が起っている。ケネディ大統領は、公約期限が迫り、あせっていたことは事実である。巨額の税金を投入したのに、失敗でしたでは政治責任を問われることになる。
また、人跡未踏の地に到達するのに、重い従来型のテレビカメラを持って行くことは考えにくい。出来る限り身軽にして挑戦する筈である。
この様に、アポロ11号には多くの?が付く。実際に月面に着陸したか否かは別として、映像自体は地上で撮影されたものであることは確かである。ケネディ大統領はアポロ計画を全世界にアピールする為に、地上で撮影した映像を流したと思われる。しかし、実際に月面に降り立ったか否かは、私には分らない。
アポロを飛ばしていた時代にはソ連との競争があったので、当然ソ連もアポロを監視、観測していたと思います。
敵対するソ連が納得するに至るデータがあったため、否定意見が少ないのではないですか。
捏造だと言っている一派は、神はいる側なのですか?いない側なのですか?
2015/03/11 19:57:47双方が対等な立ち位置とは、まさか思っていませんよね。
ですね。
2015/03/12 09:02:27アポロチョコは美味しいのか美味しくないのか。
「美味しい」であることは議論の余地なく、森永の歴史が証明しています。
アポロチョコとチョコベビーの対立がきのこの山とたけのこの里論争同様に
宗教的であるという点のみ同意します。