紀元前288年、斉の湣王が東帝を称し、秦の昭襄王が西帝を称した。その時、蘇代が斉に入り湣王に対し「今帝位を称しても、各国は強大な秦になびくだけなので、帝位を称さずに王位を称して、桀宋(宋の康王が暴君だったために名声が低く、かつての夏の桀になぞらえ桀宋と呼ばれていた)を討てば名声が高まるでしょう」と説いたため、東帝を称すのを止めた。( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E7%8E%8B_(%E6%96%89) )
東帝、西帝ではなく、東皇、西皇でもよいと思いました。
紀元前221年、秦の始皇帝(当初は秦王)嬴政は、他の6国を攻め滅ぼし中国統一した後、それまでの「王」という君主の称号より上位の称号を王綰・李斯ら重臣達に諮問させた。重臣達は、古代の五帝を超越したとして三皇のうち最上位である「秦皇」の称号を使うよう推挙したが、嬴政は自分がこの三皇五帝より尊い新たな存在であるという考えから、皇と帝を合わせた「皇帝」と言う新しい称号を造語し、自分に対する呼び名として使った(『史記』など)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%9A%87%E4%BA%94%E5%B8%9D:embed
ご教示をありがとうございます。
2016/02/16 18:05:13皇というもの、帝というもの、両方があったが、それは当時わかっていた。しかし、嬴政はそれでは不満であった。
そういうわけなのですね。