生まれてなかった、覚えていないというかたは、人から伝え聞いた話でも構いません。
http://matome.naver.jp/odai/2142082155340014501
http://togetter.com/li/966473
当時、私は禁煙するべきかどうか迷ってましたね。
仕事を続ける上で体力が落ち続けているのがハッキリしていましたが、周囲は喫煙者が多かった。
けれども、当時の私の直接の上司がタバコを吸わない人で、今から思えばかなり面倒見てもらったんだと思います。
当時は所謂「漢」を売りにするのが当たり前って雰囲気で、タバコを吸わないのは男らしくないって空気がありました。
今でもそういう職場は多いと思います。
結局、一年後に一日で禁煙したんですが、当時の感情や禁煙後の禁断症状なども貴重な体験でした。
見栄を張るよりも実を取ったって事で、ご理解いただければ幸いです。
回答リクエストが飛んできたみたいなのですが、平成元年ちょっと前のときに生まれてなかったかもしれない人の回答だと、あまり面白くないんじゃないかなあって思うんです。
だって、2014年に高校生だったかもしれないんですよ、わたし。
そういえば、質問と全然関係ないですけど副鼻腔炎君の人の質問はバッサリ消されちゃいましたねえ。
キャラ設定が甘いですよねwww
ブラジルとペルーのハーフで日本生まれの日本育ちとか言って、ブラジルの学校ではこんな健康診断はあり得ないとかwww
キャラ設定はきちんとしないとお話がブレるのに。
質問と関係ありませんでしたね。失礼しました。
わたし、昭和64年の記憶ははっきりしてるのですけれど、社会的なことからは隔離されたような生活だったんで。
学校を卒業するときに書く論文があったんですけど、あんまり実験が上手くいってなくって、どうつじつまを合わせようか、とか、いまさら追実験したってと思いながらポチポチ液をたらしたりしてたりとか。
小渕官房長官が新しい元号の色紙を掲げている映像は記憶にあるのですけれど、当時に見たものかどうかはとても怪しいのです。
昭和64年って一週間くらいしかなかったんですよね。
わたし、その間 何時間くらい寝たんだろう。
実家から学校に通ってましたけど、家に居た時間は人間一人の指の本数では余るくらいだったんじゃないかなーって思います。
平成に入ってからですけれど、論文の締め切り間際のときにはマジで48時間以上起きてました(その後、24時間以上寝たわけなのですが)。
一人に一台パソコンがあるわけでもなかったので、一行分しか見えない液晶のディスプレイで何枚もある論文を修正してたなんて、よくやってたなあと思います。
なんかあのあたりの時期って、自分のことに精いっぱいで世間のことをあまり知らなくって。
ちょっと後になりますけど、ベルリンの壁が崩壊したのを知ったのは半年くらい後だったんですよ。
いちよう、日本には居たんですけれどもwww
って、お父さんから聞いた話なんかも混ぜて書いてみました (・ω<
いえいえ、平成生まれのかたの回答も楽しみです(^^)
だって「あんたが生まれたころに、こんなことがあったのよ」とか耳タコで聞かされてるでしょうし。
あ、だけど「お父さんはそのころ論文書きでそれどころじゃなかったんだ」って話になる可能性もあるのか。
【平成改元】 epilogue
…… 初年と末年が共に7日間である偶然から、つぎの着想が浮かんだ。
曜日の由来は、ユダヤ暦から生じたとみられるが、なぜ七日間なのか、
合理的な解釈がなかった。あるとき、つぎのような仮説を思いついた。
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仮説“週の起源”初出
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19261225
即日改元 ~ 首尾それぞれ一週間の昭和22660日 ~
【平成元年】 Awa Library Report @ Hatena Diary
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19890301 戸籍上の命日 ~ 宮崎事件の虚実 ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19890318 実録土下座作法 ~ 俺に向かって土下座しろ! ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19890325 噂の虚実 ~ 死亡記事のできるまで ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19890412 いじめの碑
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19890421 携帯碑 ~ グンペイの夢 ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19890430 すれちがった人々 ~ 隣町の芸人 ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19890529 華の五人囃 ~ 漫才トリオ/フラワーショウ ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19891110 壁の前の巨匠 ~ ロストロのパフォーマンス ~
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
【1989】 記事一覧 1 2 3 4 5 6 7 古い50日分>
http://d.hatena.ne.jp/adlib/archive?word=1989
【年表】 中学生諸君! Basic 5(追記)
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19850103 Poster 1985 Calendar
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19850105 中学生諸君!歴史年表
1989 ………………………………… 平成改元 平成01
南木 佳士《ダイヤモンドダスト 19890112 芥川賞100》
李 良枝《由煕 19890112 芥川賞100》
杉本 章子《東京新大橋雨中図 19890112 直木賞100》
藤堂 志津子《熟れてゆく夏 19890112 直木賞100》
□□ □□《□□□□□ 19890713 芥川賞101》該当者なし
ねじめ 正一《高円寺純情商店街 19890713 直木賞101》
笹倉 明《遠い国からの殺人者 19890713 直木賞101》
大岡 玲《表層生活 19900116 芥川賞102》
瀧澤 美恵子《ネコババのいる町で 19900116 芥川賞102》
星川 清司《小伝抄 19900116 直木賞102》
原 尞《私が殺した少女 19900116 直木賞102》
【増補】 Ex libris《Birth Days 366 final series》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19870426
生没年月日について ~ 増補第五版のまえに ~
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=19890108
── 《Who's Who 366 誕生順人名録 19890107 追補第五版》
── 《Who was Who 367 命日順人名録 19890108 生没同日の人々》
── 《Who is Jis 368 姓名順人名録 19890109 同日生没の人々》
…… 前略 このたびは《増補第五版》をご注文いただき、ありがとう
ございました。
1月下旬に発送予定でしたが、元号改元による訂正部分が生じたため、
《誕生順》0108~、《命日順》~0107を追補し、2月中旬頃お届けする
ことになりました。何卒ご寛容のほど、お願い申しあげます(19890125)。
【回想】 epigraph
…… アインシュタインは「調べれば分ることは覚えなくてよい」と述
べ、ウィキペディアで解決できるような質問・回答は時間のムダです。
http://q.hatena.ne.jp/1335833475#a1145087(No.7 20120502 00:20:54)
adlibさんはきっと、wikiには載ってないさまざまなことを教えてくださるだろうと、たいへん期待しておりました。もっと色々ご存知なのに加減してらっしゃるのかな、なんて邪推もしております。リンク先はこれから少しずつ読みます。見出しだけでも面白そうでワクワクです。
【高校ラグビー】四半世紀超え“幻の決勝”キックオフ 昭和天皇崩御で中止の大工大?茗渓学園 4月に花園で - 産経WEST
冬に「甲子園」を花園でやるスポーツ、ラグビー。
もりあがりもいよいよ終盤。
明日決勝戦というところで崩御。
下血や大喪の礼という表現と同時に、同校優勝という言葉をはじめて聞きました。
まあ、準決勝戦も中止にならないかひやひやの日程でやってたんでしかたがないです。
Mで始まる学校のほうはもともと、学園都市の研究者子弟の多い進学校かつ中高一貫校で、スポーツ推薦の制度が一切ない、高校入試も帰国子女枠のみ、英語重視の普通のガリ勉ッコ??ばかりだったそうです。学校内でのメジャーなスポーツ部は男子はラグビー、女子は剣道。当時野球部が存在せず野球同好会のみというので大体雰囲気はおわかりでしょうか(サッカー部はキャプテン翼を読んでるだけでJリーグがそもそもなかったですし)。この、ウエイトも少なくスクラムも必ず押される、パス回しが上手いだけの15人が最初で最後の全国大会優勝(同校)したのが崩御のタイミングでした。後輩たちもいまだ力及ばず優勝戦を未経験のまま。
今なら漫画化か、実録映画にでもなりそうな感動???話。
Dで始まる学校はその前後にも何度も優勝に手をかけている強豪校です。
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64年の500円玉が大量に出回ったりとか。
造幣局が63年末からばっちり準備していたんでしょうね。
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テレビ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1989%E5%B9%B4
自分にとってはたぶん、冬休み(の宿題提出期限)が一日延長されたくらいのことでした。テレビがないので読書がすすんだくらいしかあまりよくおぼえていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1989%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
放送自粛もありました。シュラト、グランゾート、あと喪黒福造のドーン、はこの年でした。喪に服するということでもぐろさんは世相にあっていたかとおもいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E9%80%8F 喪黒の声優の大平透さんは今月なくなりました。
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なおなぽりんは将来の連れ合いはとはまだ知り合っていませんが、その年はずっと日本にいなかったのだそうです。
おお、なんとも素敵な話ですね!ホントにドラマか映画にしちゃえばいいのに。
64年の500円硬貨、取っておいた気がするけど何処へ行ったやら。
テレビをはじめ、世間の自粛ムードはすごかった思い出があります。
呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん。(^_^;
もう、27年前になるんですね。 ボーっと過ごしていたのか余り記憶がないですが、その後、「昭和64年」の1円玉とか集めていたような気がします。(^_^;
500円硬貨は取っておいてましたが、1円硬貨は盲点でした! どのくらい流通したんでしょう。まだ持っておられますか?
たぶん、押し入れか物置の奥にあると思うけど見つかりません。(^_^;
それに、1円玉だけじゃなくて、5円か10円だったか、とにかく、安い硬貨だったような気がします。ずいぶん昔のことで記憶が曖昧ですみません。(^_^;
あの日、僕らは朝から白いゲレンデの上にいた。通いなれた、僕のホームゲレンデである「エコーバレー」は、いつもと様子が違っていた。
BGMが流れていない。
いつもなら、うるさい位冬の定番JPOPがかかっているのだが、全くの静寂。しかも、普段の客数の半分以下しか滑っていない。同時のトレンド「自粛」の究極の形だったのだろう。しかも、ゲレンデのおじさんたちは、いつも以上に整備してくれている。
実質的に「最高のゲレンデコンディション」のうえ、隣で滑るのは「付き合い始めて3か月になる彼女」であり、その彼女は「教えなくても、コブ斜面をついてこれるくらいの技量」。
これを、最高のシチュエーションと言わずして、他に何があろうか。僕らは一日中エコーバレーを滑り倒し、二人きりの初スキー場デートを満喫したのだった。
というわけで、昭和64年は、現在の妻とのデートが大半を占めています。弐年参り、映画、スキー。冬休みですから、自粛の嵐もなんのその、ほぼ毎日デートです。7日は土曜日なので、日帰りスキー。すいてるし、うるさくないし、ゲレンデはコンディション最高だし、で生涯で一番思い切り滑った日になっています。ホント、昭和天皇に感謝。あの日のおかげで、彼女となら結婚してもいいかな?と思ったのも確かなのです。
自粛圧が半端なかった当時、悠々とスキーを楽しんでらしたたけじんさん、素敵です。
大喪の礼の日も北海道スキー。こっちは、男ばかりのハードな奴。すいてたなぁ。
昭和の最後の日、家に帰ってきた家族の話。
その日やった仕事には、「小渕官房長官が新しい元号の色紙を掲げている映像」を
もとに、ワープロの漢字変換用に「へいせい→平成」を登録したことがあったそうです。
「平成」は変換できなかったんですね(…でしょうね)。恐らく、文書類に「平成」を追加するためのスタンプやシールも緊急大量発注されたことでしょう。
カレンダー業界が大変だった、というような話を聞いた気がします(うろ覚え)。
三重の田舎で中学生していましたが、タイミング的に修学旅行が中止になるかもとなったのと、崩御されたときに町のレンタルビデオ屋さんのビデオほとんどに貸し出し中の札がかかっていたのが思い出深いです。(テレビがすべて特別番組となった)
Xデイのテレビは、N響の「G線上のアリア」が永久ループで流れていた、という思い出がありますが、変造記憶かも知れませぬ。
CMの井上陽水が口パクになったのは、よく覚えてます。
セフィーロという車のコマーシャルで台詞が不謹慎だとされて消されちゃったのよね。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/日産・セフィーロ
あと、当時は天皇陛下のご病状をテレビで頻繁に放映していました。
今上天皇陛下への対応とは異なり、昭和天皇陛下は公人としてのお立場しか考慮されず、ご病状の公開というプライバシーの最たるものをテレビで流すことに誰も違和感を持ちませんでした。
流れていたのは血圧や脈拍数、あとは体温もだったかな?
それを一日に何回も。夜中の番組終了後も。
情報としては少ないと思われるかもしれませんが、患者の個人情報ですから今だったら配慮が足りないと思うところでしょう。
昭和天皇陛下が崩御され、平成という元号が発表された時の違和感もまだ覚えています。
崩御の悲しみと同時にやってくる即位、元号の変更。
あれ?即位って喜ばしいことだと思っていたけれど、現実は大分違うものなんだな…というのが素直な感想でした。
今すぐに思い出せる昭和64年はこのくらいかな?
やはり昭和→平成の変わり目と言えば、このイメージがよみがえります。
天気予報より頻繁にご容態が報じられてたように思います。
平成という元号も、聞いた当初は「ええ~?」って感じでしたが、今はすっかり違和感がありません。不思議なものです。
結婚直前だったので、田舎に帰ってお互いの両親を引き合わせたりとけっこうドタバタした新年だった。
昭和が終わった日、速攻で帰宅命令が出て、寮に帰ったら待ってたのが、祖父が危篤と言う知らせ。
新幹線の切符代もなかったので、寮の先輩に借りて、翌朝早々祖父の入院してる病院に向かったわけで、平成最初の日も慌ただしかったと言う思い出しかない。
時代が大きく変わる時期に、私生活も大変動してらっしゃったんですね!
昭和天皇崩御を受け、政府はテレビ各局に「歌舞音曲」の自粛を要請。その際、NHK教育テレビについては、崩御の報道が最初にされた2時間後ほどで順次通常番組に戻していった。
このため、他局が特別編成をした日、教育テレビだけが通常番組を放送する局となった。
「これは、教育テレビの最高視聴率が出るかもしれないぞ。」と、その日私は思った。後日、「通常時よりも視聴率大幅アップ」と新聞に出た。
新聞のテレビ欄を見て、「この番組は、『歌舞音曲』ということになるのだな。」などと思った。(番組名の例 ゆかいなコンサート)
No.8のコメントにも書きましたように、Xデイのテレビ(多分NHK)が、N響の「G線上のアリア」を永久ループで流してた、という朧げな記憶があるのですが、実際どうだったのか、検索してもわかりません。ご存じでしょうか。
私の記憶では、永久ループで流しては、いなかったと思います。
http://chariot-numerosette.blog.so-net.ne.jp/2014-01-07 のブログ記事に、1989年1月8日付読売新聞テレビ欄が出ています。
それによると、NHKテレビ10時20分からの番組が、N響演奏会「アリア・組曲第3番から」ほか となっています。
その番組かもしれません。
懐かしい年代が出たのでおもわず投稿しちゃいますw
この歳って確か自分が大学に入学した歳でしょうか?たいした大学はでてないのですけど、今まで勉強ばかりしてきて、初めて自由を手にした年。
そんなイメージです。
そんな昔のことあんまり記憶にないんですが、親元離れたい、自由になりたいってずっとおもってて、いざ初めて離れてみると最初の夜泣いた記憶覚えてます。
自分にとっては初めて親のありがたみわかった年なのかな?
いいかえれば自分が始めて大人になった年そんな気がします。
新しい年号の始まりとともに、新生活をスタートなさったんですね。
「いざ初めて離れてみると最初の夜泣いた」なんて、きっとずっと忘れないことでしょう。
母方の祖父が元旦に他界したことが一番の記憶ですね。明治生まれなので「あと一週間持ちこたえれば四つの年号を生きられたのに」等と惜しんでいました。
まさに激動の時代を越えてこられたんですね!
「当時、分煙という言葉は(まだ目新しくて)全く定着してませんでしたね」と言いたかったんです。なんか回りくどかったらすみません。
2016/04/27 01:04:56日々の仕事のなかで、例えば元号が変わることに伴っていろいろ、というようなことはありましたか?
昭和64年がわずかな日数で平成元年と重なるっていうのは知っていましたが、リンクに出された細かい事情までは知りませんでした。
2016/04/27 20:20:16とにかく平成元年が昭和64年ってことでカレンダーの調整が難しくなったなぁ・・ってだけでした。
西暦に直すのに五の端数を足して調整できなくなった。
都合の良いことに、歳を数えにくくなって自分の歳を忘れやすくなったって事くらいですか。
当時でも皇室に実権はありませんでしたし、文化財の管理と皇室そのものが文化財って事で年号にはあまり大きな意味が見えませんでした。
西暦でも和暦でも使えればそれで充分・・・って言うのが現場の感覚です。
小難しい理屈を付けて民族としてのアイデンティティーだの大和魂だの、街宣で五月蠅い連中もいましたけどね。