匿名質問者

ルーベンスは、イスパニアの宮廷に1年程滞在したということで、ベラスケスと交流があったという話なのですが、何語で話したのでしょうか。ハプスブルク王家の宮廷ですが、ドイツ語とも思えず、カスチリア語でしょうか。

ルーベンスは、外交使節としても活躍してますから、カスチリア語も堪能かもしれないですけども。
フランス語でしょうか。

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  • 終了:2018/09/02 20:45:06

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匿名回答1号 No.1

 
…… イサベルは、父フェリペのそばで補佐することを許されており、
イタリア語で書かれた書類をスペイン語に翻訳していた。彼女は父の亡
くなる1598年まで、そうやって父のそばで仕えていた。
 |
…… ベラスケスは、1628年には、スペイン領ネーデルラント総督の
イサベルから外交官として派遣されてきたルーベンスと親交を結んだ。
…… ルーベンスは、ドイツのジーゲン生まれ。イタリアで活躍した後、
アントワープに戻って活動を続けた(Wikipedia)。
 
♀Eugenia,  15660812 Spain  Austria 16331201 67 /Isabel Clara de Austria,
 Rubens,  15770628 Flandre Belgium 16400530 63 /Peter Paul
 Velázquez, 15990606 Spain      16600806 61 /Diego Rodríguez de Silva y
────────────────────────────────
 Manet,   18320123 France     18830430 51 /Édouard
 
…… 12世紀に入ると、Espaaの語形の下に、(略)「イスパニア」が
現在のスペインに限られるようになったのは、スペインがポルトガルの
分離独立を認めたリスボン条約(1668)以後のことである[小林 一宏]。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%A2-432478
 
 マネが「画家の中の画家」と呼んだベラスケス(29)も、外交官(51)
としてのベラスケスに、公の場ではイスパニア語(父語)で、ときには
長幼の序で、片言のフランドル語(母語)で応じたかもしれませんね。
 

匿名質問者

ありがとうございました。
ベラスケスは、宮廷人としても成功を納めたのですから、
語学もそれなり、ということで、
おざなりにはしていなかったということですね。

2018/08/29 21:29:37

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