確かに綺麗事は正論で文句のつけようがありませんが、非現実的な理想を言われても困ることが多いのです。
綺麗事ばかり言う人は本気で信じているのでしょうか?
それとも隠れた心理みたいなのがあるのでしょうか?
理想論や綺麗ごとを言う人もいないような環境は、
居心地は良いかもしれないけど、発展性が小さい。
いろんな意見を言う人がいてこそ、
思いもよらないことに気づけたり、多様性を認める足掛かりになる。
うっとおしいのはわかるけど、人それぞれ譲れないところが違うから、
全員の意見を取り入れようとすればするほど、
議論が先に進まないのもわかる。
そして譲れないところが多かったり、人と視点が異なる人ほど、
理想論だの融通が利かないだのというレッテルを貼られる。
また言ってらぁ、くらいに受け止める度量が
周囲の人間には必要かも。
綺麗事ばかり言うのが会社の上司なら
「いつも俺が〇〇と言ってただろ~」というように
いざ問題が発生した時に責任を全て当事者に押し付けるみたいな例はある
現実はというと「あんたの指示通りやってたら時間内に仕事が終わらんよ」みたいな
つまり責任逃れするための綺麗事だね
たとえばこんなの
「制限速度を守りなさい」
「制限速度なんて守ってたら配達終わらんよ」
交通事故発生
「制限速度守れといつも言ってただろ」
(心の声「だったら制限速度守っても仕事が終わるよう人員増やせよ」)
綺麗事を言う人は、あなたのことを思いやっているようで、目の前で対話しているあなたのことを全く見ていないのではないか、と思っています。
相手が何を考えていて、どんなことを思っていて、何を聞いてほしいのか、といった、相手を理解するという視点が欠けているから、「正しくて普遍的なことだと信じている綺麗ごと」をあなたにぶつけることができる、と私は考えています。
綺麗事なんて宗教と同じですよ。
ともすれば、道を外してしまう私たち人間を戒め、綺麗な世界に向かい続けるように唱えているだけです。
語る人がいたら、そうですね、そうなるといいですね、と返してできることだけすれば良いと思いますよ。
綺麗事、非現実的な理想を言うのは、そこを目指さなければならないからです。
綺麗事、理想、正論は必要なのです。
綺麗事、理想、正論を目指さないと「現実」の方のハードルが下がるからです。
綺麗事、理想、正論が実現するなんて思っていません。
だからこそ、綺麗事であり、理想であり、正論なのです。
たとえば、子供のしつけで「嘘をついてはいけません」と、親は言いますよね?
(もっとも私は、嘘をつくなと直接言う形で子供をしつけたことはありませんが)
これは綺麗事、理想、正論ではないですか?
嘘をつかない人間がいないように、嘘をつかない子供もいないですからね。
「嘘をつくな」って、正論で文句のつけようがないですよね?
でも、これに対して「非現実的な理想を言われて困る」なんて思わないのでは?
もちろん、嘘つくこともあるよね、嘘つかざるを得なかった、嘘も方便じゃんって、
「現実」を言って嘘を許すこともアリですが、同じように「嘘をつくな」という
正論も必要ですよね。嘘を全面的に肯定してしまう社会だって困りますから。
私も含め、世の中の多くの人は綺麗事ばかり言うことはできません。
だって自分の「現実」も知っているから。
綺麗事ばかり言う人はうるさく思われがちですが、そこに一分でも理があると
思えたら、非現実的と一刀両断せずに一考することもできるのではないですか。
現実的ではない、と反論ができるのでは。
ちなみに机上の空論と正論は区別したい。
コメント(2件)
もしかすると、
あなたに都合が悪い事、あなたの気に入らない事を、あなたは綺麗事にしてしまうのではないのですか?