キリスト教(プロテスタント)です。

いいことも、わるいことも必ず起きるけど、神様が一緒だから大丈夫。みたいなこと言いますが…
悪いこと起きるんかい!みたいに思っちゃうんですがどう考えたらいいですか?悪いことも必ず起きるなら神様信じなくてもいい気がするんですが…

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  • 終了:2020/09/02 22:45:06
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回答7件)

id:NAPORIN No.1

回答回数4866ベストアンサー獲得回数908

ポイント17pt

部外者ですので詳しくはちゃんと教会の人にたずねてほしいのですが
人は辛いことがあっても心によりどころがあれば耐えられるし、
たとえばとってもかわいいアイドルとか自分の娘ムスコとかいて慰めてもらえたら耐えられやすいわけです。
それが一神教宗教の場合は神様です。
神様はだれよりもいたいけで弱い存在で、奇跡も自分ではおこせない(奇跡は父神に頼むことでおこした)し不老長寿でもなかったです。
だれにも公平であろうとするしその思いやりが高じてみんなが憎まれたりして苦しんでいたらその苦しみを全部自分が引き受けるのだといって死んでさえくれました。
万能でもない肉体をもって生まれただけのただの弱い人だったんですが、心は生まれつき誰よりもきれいに崇高にできていて、それがまだ生まれていなかったあなたをふくめて他人をものすごく気にかけてくれていたわけです。そのことが奇跡であって、聖書とか絵でものすごくたくさんのこっています。
そのことを思い出すことで、悪いことがそんなにつらいと感じなくなるんじゃないかな、ということ、らしいです。
 
逆にこころが綺麗な人、先生、指導する人、警察、など、止めるような人が1人もいないところで苦しい、辛いという愚痴をいいあってしまえば、「わたしのほうがもっと苦しい!おまえが助けろ!」という苦しみ自慢大会になるだけです。
どんなに人間が簡単に他人の苦しみを増幅するだけの装置になるかは増田やツイッターの炎上をみていればすぐわかります。病人だったり母子家庭だったり、たいていの苦しみには役所から援助が多少出るのですが、そういった知識も調べないでただただ苦しい、苦しいと言い合うだけの場所になってたりします。困ったら知識をしらべて役所などで助けをもとめたほうがいいし、そういう建設的な気持ちになるにはまず愚痴大会から逃れて、心の清い人を見て、心を立て直すことが必要なんじゃないでしょうか。それが宗教の役割だとおもいます。
 
まあどちらも部外者なんでよく知らないですけどね。

id:kokorohamoe

宗教についてはコメントできませんが、仏教6、それ以外3だと思ってください(一身上の都合)
わかりやすいところでいうと、仏教もいるよ。

2020/08/27 08:27:55
id:miharaseihyou No.2

回答回数5090ベストアンサー獲得回数697

ポイント1pt

現実を考えれば宗教に実利的な効果はありません。
元々が、宗教というのは、ヒエラルキーの世界を作って地域社会の生き残りに有効だった仕組みです。
政治と宗教は常に支配範囲を争っている。
オーム真理教やイスラム過激派なども、穏健だと言われている宗教も、支配範囲を争って世界制覇を試み続けるところは共通です。
手法が違うだけ。
カルト宗教はショートで沈めるけど、普通の宗教はロングで引っ張る。

id:khurata No.3

回答回数35ベストアンサー獲得回数10

ポイント17pt

 私自身はキリスト者ではないので、ここはキリスト者である方の回答を待ちたいところですが、私なりに理解しているところを不遜にも回答してみます。

 まずは、単純な話を……映画などで「神の御心のままに」とかいうセリフを聞くことがあります。 どんな死に方をするにせよ、死ねば神の御許に行けるのだし、神様を信じてさえいれば、最後の審判の時に救い上げてもらえるのだから、何も心配無いのだ、という立場でしょう。
 こういう考え方が浸透しているためか、キリスト教国では、通常人の遺体は「単なるモノ」に近いらしく、死体を過度に恐れる風潮も無いようです。

 次に、旧教と新教の違いについての話ですが……この世には都合の悪い事や辛い事、悲しい事、自然災害が多々起こります。 神が全能である以上、これらの事も全て神が為しています。 つまり神は、人が良いと思う世界を用意してくれているわけではないのです。
 旧教(カトリック)では、善行を為す人を神は好むとされ、そのために旧教は行動規範や生活習慣を「良きもの」にしようとする力を持ちました。
 しかし新教(プロテスタント)は、神とは人間ごときの知性で理解できるような薄っぺらい存在ではないのだ、という思想に立脚しているようです。 だから、神はどのような残酷なこともなさるし、納得できない不条理なこともなさる。 我々の生きる世界が理不尽だったり不条理に見えるのは、人の浅薄な思考がそう思わせているだけのことだ、と言うわけです。
 善行を積めば神意に適う、と考えるのは、人の浅慮でしかない……これが新教と旧教を大きく分かつ点だと私は思います(なので、2016年頃にカトリックとプロテスタントが歩み寄りを見せた「事件」には大変驚かされた)。
 そのような、到底了解不可能な、超越的な存在だからこそ、神は信ずるに値する……たとえば宇宙人と出会って、最初のうちは彼を理解できなくても、次第に理解できていけたなら、その時点で人と宇宙人は対等の立場に立てるわけですが、人は決して神と同じ立場に立てる存在ではない、永遠に。
 そのような「永遠に理解できない存在」を信じる方法とは、「無条件かつ絶対の信仰」しかないでしょう。 つまり、不可解だからこそ、信仰の対象たり得るのです。 理解できる者を信じるというなら、それはもはや人相手のビジネスや科学と同列でしょう。 
(ちなみに作家・五木寛之氏は、これが親鸞の言う「他力」にきわめて近い、というような事を著書『人生の目的』で書いている)

 最後に……悪人がなぜ生まれるのか、という話に焦点を絞ると、下記リンク先で書かれている話が有用かと思います。
https://m-dojo.hatenadiary.com/entry/2020/08/06/033054

 人智から見て謎と不条理と不幸に満ちた世界を神は作り、そこに我々も作られたけれども、最終的かつ永遠の幸福を求めるならば、神を信じよ、そうすれば死後に救われる、必ず死ぬ運命である我々は、神を信じる事でしか「永遠」を得られない……こうした信仰には、「悪いことも必ず起きるなら」という考えは、そもそも無いのです。
 悪いことは起きる、なぜなら神の御心は我々には理解できないから。 悪いことが起きようが起きまいが、神を信じよ、なぜならそれのみが永遠の救いだから。 ……というのが、新教の基本思想なのではないか、と私は理解しています。

id:k318 No.4

回答回数2758ベストアンサー獲得回数32

ポイント17pt

 
何が起きても、解釈の仕方次第で、結果は如何様にも変わり得ます。
 
日常の心掛けを良くしていることが大切です。
 
 
禍を転じて福と為す(わざわいをてんじてふくとなす)
「戦国策」燕策
わざわいに襲われても、それを逆用して幸せになるように取り計らう。
 
 
人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)
「淮南子」塞翁
幸不幸は予期し得ない。何が禍福に転じるか分からない。
 
 
 

id:TAK_TAK No.5

回答回数1130ベストアンサー獲得回数101

ポイント16pt

https://core.ac.uk/download/pdf/230549974.pdf

ミルトンの自由論の土台は神の溢れる善である。
「パラダイス・ロスト」全体を通じて見逃せないことの一つに神の善ということがある。

自由は神から与えられた祝福であるということは永遠に変わらない。
それを神に感謝して神への応答として用いるものには幸いとなるが、そうでないものには禍いとなる。

それは神が禍にかえるのではなく、自由を悪用するものが自らそれを禍に変えるのであり、且つ自ら呪われるのである。


真の地獄はサタンの心の中にある。

それを引き起こしたのは神の悪意とか呪いとかではない。
むしろ全く逆に、神の善意と恵がサタンの心の中に苦しみを引き起こしたのである。

サタンは神の善を悪に変えようとする。それがサタンの本質となったのである。
ところが神の善はサタンの悪を善に変えることを意図する。

このようにサタンは自由に神に対して叛逆行為を繰り返し、それを積み重ねるが、
その結果は悪しき実を結んで自らを苛み且つ呪う結果にしかならない。
神はサタンの跳梁を許しているが、それは神の創造の善が悪になったことにならない。
むしろそれは神の善がいっそう不動であることを証明する。

この詩の中でサタンが持つ絶大なる自由は神に限りなく反抗できる可能性を持つものとして描かれているので、
読者の想像力を正にサタンの側に引き付けてしまうのである。

神はサタンの自由を容認するので、サタンは自力で自由になったと誤解する。
そして読者はサタンの(忘恩から出る偽りの)論理にすっかり嵌められてしまい、
神が残酷な存在と見えてしまうほどである。
そしてそのように見える神に堂々と反抗するサタンがすばらしい英雄に見えてくるのは当然であろう。


サタンの滅びと呪いはサタン自身が招いたものであることは明らかである。
それにも関わらず、読者が「パラダイス・ロスト」の1,2巻しか読まないとか、あえてミルトン自身が繰り返し述べている主張に耳を傾けないのは、それ自体正に読者の「自由」であるが、それはミルトンから見れば「パラダイス・ロスト」を曲解することでしかない。
丁度それは、サタンが神の善を悪に変えようとしたのと同じように、読者がミルトンの意図に反感を抱くことになりかねない。

読者がこのようなサタンに引き付けられるのは、
自由というものがそれ自身目的となっている存在があたかも大きな美徳を持つかのように見えるからかもしれない。


ほとんどの宗教で言ってる事は同じだと言うのが私の説です。

三毒、無明、 悪は自らを最も苦しめると

id:brarakun No.6

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ポイント16pt

悪いことで何かを教えてくれようとしているのではないのでしょうか。

id:kash06 No.7

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ポイント16pt

プロテスタントのクリスチャンです。
辛い事はやっぱり辛いですよね。「大丈夫」って言われても、どう大丈夫なのかと不安になります。

私の場合は別の方の回答とは違うアプローチで、予定説と言われる考えに近いかもしれません。
悪いことは、どんなに回避したくても、今の世では起きる時には起きてしまいます。これら全てが避けられる事はないですし、悪いことが起きれば辛いのは変わりません。

少し遠回りします。
私たちが神様を信じるとは、この世での事がどうにもならなくとも、そこに死後の救いと希望があるからではないでしょうか。
その救いは、イエスを信じる事だけが条件で、私たちの努力で得られる物でないかわりに、私が努力をしないと失うような、善行を強制するものでもないと信じています。(善行によって救われないのが人の罪ですし、行いによらず信じる者を救うのがイエスの死と復活だからです)
そしてこの救いには、いつかイエスが再臨する未来には、人間である私も悪や悲しみのない完全な状態に変えられる絶対の約束がセットになると考えます。

さて、そんな私たちが悪いことに出会う時、辛いことは辛いのですが、せめて神様に祈りをささげることは出来るのではないでしょうか。
そして自分の救いのみならず、最後の時には必ず、こんな悲しいことが無くなる世界がやってくるという希望を託すことが出来ると思うのです。

この世界の辛さが深いほど、そこから解放される時の落差が、恵みの深さ感じるのかもしれません。
ですので、私は「それでも希望が残る」が答えになるかな、と考えます。

  • id:jwrekitan
    火によって精錬された金属は純度が上がるのと同じく、
    悪いこと(試練)を通して信仰の質が高まる
    (ひいては不安定な救いが確固たるものへと近づく)、
    というようなものが聖書からの回答でしょうか(ペテロ第一 1:6-9)。

    もし予定説の教派に所属されているようならこの解釈は無理でしょうけれども…
  • id:sekomasahiro
    ありがとうございます
  • id:jwrekitan
    もうちょっと解説を加えます。

    信仰の質が粗悪であればそれは「わら」で建てられた家に過ぎず、
    「その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」
    の結果として建物が全焼してしまいかねないというわけ。
    だから自らの救いを確実なものとするために
    「どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。」
    要するに日々努力する必要がありますよ、となる(第一コリント 3:10-15)。
    http://bible.salterrae.net/sinkaiyaku/html/1Cor.html

    モーセの命によりカナンの地を偵察した12部族の代表者のうち、
    ヨシュアとカレブを除く10人はカナンへの入植に否定的な報告をしました。
    結果、ヨシュアとカレブ以外の(30歳以上の)大人たちは
    約束の地カナンへ入る事を許されませんでした
    (道中、メリバの水の件で罪を犯したモーセを含め、全員が荒野で倒れました)。
    彼らは異なる神に信仰を抱いていたわけではなく、信仰の質が違ったというわけです。

    ペリシテ人の戦士ゴリアテにはイスラエル人の歴戦の戦士たちでさえ慄きましたが、
    羊飼いの少年に過ぎなかったダビデはゴリアテに立ち向かい、これを倒しました。
    大人のイスラエル人とダビデが異なる信仰を抱いていたわけではなく、
    やはり信仰の質が違ったわけですね。
  • id:miharaseihyou
    宗教に対する思い込みが強いか弱いかで意味が違いますね。
    得にならない思い込みで教団の幹部に貢いでも喜ぶ人と、実利と方便の違いをわきまえている人の差が大きい。
    商売として一生懸命に他人を洗脳しようとする人が宗教を成立させている。

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