キリスト教(プロテスタント)で神からの恵みは「一方的な」恵沢である。と聞きました。

それでは天の国に入るために貧しい人に施すのは何のためですか?
恵みと天の国は別なんでしょうか?

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  • 終了:2020/11/03 20:50:05

回答2件)

id:brarakun No.1

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最終的には、貧しい人に施しをしたとしても、天の国に入れるかどうかはわからないと思います。

id:Akaoru No.2

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ポイント50pt

 
https://mejiroseikokai.com/mejiro/?p=516
(マルコによる福音書10章17~27節)
 
基督教の神は、律法を人に与えた基督教の神の愛と恵みの心に、
ただひたすら頼って生きる基督教信者達の「砕かれた心」を求めていますが、
 
日本国の八百万の神々は、日本人が自主独立の精神を堅持しながら、
何事も自分の頭で企画発想発案して、自己責任で実践していくことを推奨します。
自助努力している日本人には、日本国の神々は有形無形の助け船を出します。
日本人ならば、他者に対する精神的な依頼心や依存心だけで、
生きようとすればするほど、生きることの苦しみが増していくということに、
直感的に気が付くことでしょう。

たくさんの財産を持っていたある人が、永遠の命を受け継ぐには何をすれば
よいでしょうか、と基督教の神に尋ねました。
彼は内心、自分はもう永遠の命を受け継ぐことができる、というお墨付きを
基督教の神からはっきりといただこうと考えていました。
基督教の神から与えられた掟である律法を、自分は子どもの時から守ってきた、という
自負を心にいだき、基督教の神が、基督教の神の律法を守れば永遠の命を
受け継ぐことができる、という言葉を自分に語ることを、
この人は期待していました。そしてこの人の期待通り、基督教の神は、
「あなたは基督教の神の掟である律法を知っているはずだ」と
律法を守ることの重要さを語ります。この人は基督教の神に対して、
「先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と即座に答え、
自分は永遠の命を受け継ぐことができると、はっきりと決定的に基督教の神から
お墨付きをいただけることを確信しました。しかし基督教の神は、
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、
貧しい人々に施しなさい。」とその人に言いました。
その人はこの基督教の神の言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去りました。
その人は自分の持っているたくさんの財産を貧しい人々のための施しに用いて、
律法を完全に実行することができなかったからです。
この人は、自分は律法を守ることは「できる」、自分は持っている物を
売り払って貧しい人々に施すことは「できない」、とそれぞれ考え、
「自分ができるか、できないか」という姿勢で基督教の神に向かっていました。
基督教の神が求めているのはそのような姿勢ではなく、
基督教の神の愛と恵みの心に、
ただひたすら頼って依存して生きることを求めているのです。
 
このような基督教の神の教えによって、
基督教信者達の人生の進歩と発展を期待することには、
相当な無理があると思われます。
 
https://www.chiba-c.ed.jp/funabashieast-h/renraku/kyoka/2017rinri_05.pdf
 
 

  • id:jwrekitan
    恵み?、賜物のことでしょうかね?。
    であれば永遠の命の希望は賜物のうちの一つです(ローマ 6:23)。
    しかし賜物は永遠の命に限定されるわけではありません(つまり、賜物>天の国、という事)。

    https://penguinclub.net/sermons/1pet/1pet4-7b.html
    (ギリシャ語:カリス=恵み、カリスマ=恵みの賜物)
  • id:sekomasahiro
    恵みじゃなくて愛ですかね?わかんないですが、「神様からの一方的な恵沢である」と聞いたことがあります
  • id:jwrekitan
    賜物は英語聖書ではプレゼントと訳出されます。神からの無償の贈り物という意味。
    要するに、神が人に賜物を与える時、人からの見返りを求めているわけではないので、
    すなわち神から人間への一方的なもの、という意味合いが当然ながら含まれます。
    (そもそも人間にはその贈り物の対価となるようなお返しをする能力がありません)

    愛(アガペー:自己犠牲的な愛/これもやはり見返りを求めない純粋な心からのもの)
    はむしろその動機といったところでしょう。
  • id:jwrekitan
    > それでは天の国に入るために貧しい人に施すのは何のためですか?

    については、

    https://ja.wikipedia.org/wiki/善きサマリア人のたとえ

    が一つの回答になるかも?(あるいは、マタイ 25:31-46であるとか)。

    ただしここで一つ注意しなければいけないのは、
    神は「喜んで施す人を愛」されるという事実です(コリント第二 9:7)。
    仮に貧しい人への施しという表面上の行為は同じであったとしても、
    嫌々行われたものや打算からの行為などについては、
    神にとっては体に欠陥のある動物を犠牲として捧げられるに等しく、
    むしろ嫌悪の対象にすらなりかねません(マラキ 1:6-14、レビ記 22:20)。

    偽善…
    https://www.wordoflife.jp/bible-585/
    >>
    偽善者は人にほめられたくて会堂や通りで施しをし(マタイ6:2)
    <<
    という事で、いくら施しをしても救いとは無縁の人もいます。

    つまり、この施しという行為もそうなんですが、その他ありとあらゆる点において、
    神との関係性で一番重要になってくるのは「心の在り方」であるというのが私の持論です。

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