1997年7月、人類は滅びる。とかいう「ノストラダムスの大予言」は本当なのか?という終末説が取りざたされる風潮の中、
90年代末期からゼロ年代始めごろって、エヴァンゲリオンを代表格としてポケモン、スレイヤーズ、トライガン、魔術士オーフェン、ラーゼフォン、エスカフローネなどなど、とことん非日常、現実とは別世界の世界観で展開される名作がドンドコ作られた時期でありながら、「大予言は嘘だった」という拍子抜け感もあり、
大量の氷河期世代が薄給で現場労働者として日本を支えた時期でもあり、異世界ドンパチに舌が肥え大予言が嘘だったことに拍子抜けしたマンガ・アニメ購買層と、政策に遺棄され疲れ果てて帰宅して簡単に摂取できる娯楽を欲した氷河期世代が買い支えることで発展したジャンルではなかろうかと思う。
1997年7月、人類は滅びる。とかいう「ノストラダムスの大予言」は本当なのか?という終末説が取りざたされる風潮の中、
90年代末期からゼロ年代始めごろって、エヴァンゲリオンを代表格としてポケモン、スレイヤーズ、トライガン、魔術士オーフェン、ラーゼフォン、エスカフローネなどなど、とことん非日常、現実とは別世界の世界観で展開される名作がドンドコ作られた時期でありながら、「大予言は嘘だった」という拍子抜け感もあり、
大量の氷河期世代が薄給で現場労働者として日本を支えた時期でもあり、異世界ドンパチに舌が肥え大予言が嘘だったことに拍子抜けしたマンガ・アニメ購買層と、政策に遺棄され疲れ果てて帰宅して簡単に摂取できる娯楽を欲した氷河期世代が買い支えることで発展したジャンルではなかろうかと思う。
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202954331776
二〇〇〇年代の中期より、「空気系」あるいは「日常系」と呼ばれるアニメ作品群が注目を集めるようになった。
「空気系」と名指されたそれらは、大きな事件や出来事が特に起きるわけではなく、登場人物たちの何気ない日常を描いている点が特徴的な傾向とされ、そうした作品群の代表として『けいおん』があるという。
確かに日常系作品を見渡すと、比較的多くの作品に「物語の起伏の乏しさ」という特徴が見られる。
例えば『あずまんが大王』や『らき☆すた』などは、作品全体を通したストーリーの印象が「薄い」のだ。
作劇における手法として「起・承・転・結」という古典的な構造がある。言わば、ストーリーの構造上のメリハリである。
しかし日常系アニメの多くでは、こうした構造上の“メリハリ”が利いて(利かせて)いない。
物語性の希薄さとも言い換えることができるだろう。
日常系作品では、物語におけるコンフリクト(衝突)が不在である。
別の言い方をするなら、困難との対峙や葛藤、本格的な恋愛といったドラマツルギーが、おそらく意図的に排除されている。
従来の作品にあるような「大きく盛り上がる要素」が欠如している
「等身大の世界
いつもの何気ない日常
引き裂かれることのない理想郷の表現なのかもしれない」/と
日常系はミニマムでつつましい、等身大の世界が描かれる。
「セカイ系が、キミとボクという一対一の関係性と日常と異常という二項対立を主題としていたのに対し、日常系では事件も大きなドラマも起きない空間」にこそ日常系作品の本質がある、ということである。
日常系アニメの代表サザエさん。昔のアニメは幼児から小学生向けで、親はついでに見る程度。何気ない日常生活の"あるある"を動く絵本感覚で見ていた。親も教育上悪いシーンがないから安心して見せられる。ちょっとしたハプニングだけでもアクセントになって楽しめる。完全に"戦後"ではなくなって平和になった時代。
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