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なぜ「事実である」という情報は面白いのか?(つくり話と比べて)

ノンフィクションとフィクション、受け取り手に与える印象はちがいます。

たとえばあなたの知人Aがあなたにこう話し始めたとします。
A「道を歩いていたら、1羽のカラスが他の1羽のカラスに花を差し出しプロポーズみたいなことをしていた」
その後にAが発する言葉は次の2通りあります。
A「昨日それを見たの」・・・?
A「という話を思いついたの」・・・?

明らかに?より?のほうが感動が大きいと思います

また人志松本のすべらない話において芸人さんが提供する話はノンフィクションです。
かなり脚色してると分かっておりますが我々お客はノンフィクションとして消費しております。
もし 番組内の話は100%作り話 ということをお客が耳にしたら、面白さが壊滅的に減ってしまうと思います。

事実である という情報があるのと無いのとでは
何故これほど受け取り手が感じる面白さが違ってくるのでしょうか?

●質問者: ねみみず
●カテゴリ:学習・教育 芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 11/11件

▽最新の回答へ

1 ● seble
●19ポイント

前提が単純すぎる上にちょっと違うと思います。

>事実であるという情報が面白い

というよりも、事実で無さそうで事実なら面白い(かもしれない)という事ではないでしょうか?

「今日は良く晴れたね」
連日の猛暑日にそう言っても面白くも何ともありません。
しかし、北極圏でブリザードが続いた後にそう言えば(それが事実であれば)1つのニュースにもなり、面白い(という定義が定かではありませんが)とも言えます。

芸人さんが提供する話にしても、事実かどうかが重要な点ではなく、話自体が面白いと思えるような話でなければ面白くも何ともありません(面白くもない話を勢いだけで笑わせるパターンも多いですが、、)

>事実である という情報があるのと無いのとでは何故これほど受け取り手が感じる面白さが違ってくる・・・

これもあなた個人だけの感覚であり、一般論と言うにはちょっと強引、根拠が無さ過ぎると思います。
事実だろうが何だろうがつまんないものはつまんな???い。


ねみみずさんのコメント
回答頂きありがとうございます! そうかもしれません。 確かに「事実である」だけでは話は面白くなりません。 私の最初の一文はマズかったかもしれません。まるでノンフィクションはフィクションよりも面白いと言ってるように聞こえますね。 すべらない話のあなたが面白かった話を思い浮かべて下さい。 そしてもしその話が100パーセントつくり話だと知った場合ちょっとがっかりしませんか? もし、がっかりしたのなら「事実である」という情報の分面白くなっていたと 言えるのではないでしょうか。 そしてあなたが面白い(心が動いた)と思えるつくり話を思い浮かべて下さい。 どんなつくり話でもいいです。 それを無理やりそれを「事実である」と思い込んで下さい。 さらに面白いと思いませんか? もし、面白いと感じたのであれば「事実である」という情報の分面白くなったと 言えるのではないでしょうか。

2 ● きゃづみぃ
●19ポイント

そりゃありえなさそうなことがあるなら おもしろいでしょう。

ただ、事実だから おもしろいとか 作り話だから おもしくないということは ないと思います。

事実でも おもしろくないことは たくさんあるし、
作り話でも おもしろいことは たくさんあるからです。

私は 映画やドラマ、アニメ(マンガ)などのほうを 事実を伝えるニュースより
おもしろいと感じてみてます。


ねみみずさんのコメント
おっしゃる通りだと思います。 「事実である」という情報は面白さの絶対条件ではないですが 「事実である」という前提の作品は内容が同じでその前提が無い作品と比べて 確実に面白いと思えると思います。 回答ありがとうございます ありえないことはたしかに面白いです。 何故ありえないことは面白いのでしょうか? また、「ありえないことだから」以外で面白いと感じる原因はありますでしょうか?

きゃづみぃさんのコメント
>何故ありえないことは面白いのでしょうか? 事実というのは、たいてい つまらないことばかりです。 事実のほうが おもしろいことが 少ないのです。 おもしろいことといったら 作り話しかなく、その作り話も >1羽のカラスが他の1羽のカラスに花を差し出しプロポーズみたいなことをしていた この程度だと ちっとも おもしろくないのです。 これが 事実なら 実際にも そのような 作り話みたいなことが あるんだなと 思い、おもしろく感じることでしょう。

ねみみずさんのコメント
作品に希少性を感じ取ると人は面白く感じるということですね。 「事実である」という情報 はエンターテイメントにおいて 希少性を感じ取らせるための効用の一部として働き、かつそれしか効用はない と言っていいですか?

3 ● gtore
●18ポイント

作り話だと、いくらでも話を作れてしまうからですよね。例えば、漫才でもいかにも作ったようなお話だと、ちょっとは誇張しているのだろう、というふうに見てしまいます。作り話だと思ってきいていると、やはり現実味がないので、どうせ作っているのだから、とちょっと冷めた目できいてしまいます。反対に、事実だと思ってきく話は、それが本当に起きているところを想像しながらきくので、現実味があります。


ねみみずさんのコメント
ありがとうございます。takntさんに返信したものとと同じコメントをしてしまいますが 作品に希少性を感じ取ると人は面白く感じるということですね。 「事実である」という情報 はエンターテイメントにおいて 希少性を感じ取らせるための効用の一部として働き、かつそれしか効用はない と言っていいですか?

4 ● fenstrial
●18ポイント

感動が大きい理由を「得た情報量が大きい」(=珍しいことが起こったことを知った=びっくりした)と考えると一つの指標になるかもしれません。

A「道を歩いていたら、1羽のカラスが他の1羽のに花を差し出しプロポーズみたいなことをしていた」
A「昨日それを見たの」・・・?
A「という話を思いついたの」・・・?

カラスの話について言えば
「私が昨日カラスのプロポーズを見た」ことは起こりそうではありませんが、「私がカラスのプロポーズの話を思いついた」は特段珍しくもありません。
さらに言えば、
「私が10日前の同じ時刻、同じ場所でカラスのプロポーズを見た」
「私が昨日カラスのプロポーズを見た」
「私がカラスのプロポーズを見た」
「私の友達がカラスのプロポーズを見た」
「私がカラスのプロポーズの話を思いついた」
「誰かがカラスのプロポーズの話を思いついた」
下に行くにつれて情報量が減っていると思います。

また、ノンフィクションよりフィクションの方が情報量が大きいかもしれません。
Aさんが小さい子供だとして、親ばかの親にとっては
「私の友達がカラスのプロポーズを見た」より、「私がカラスのプロポーズの話を思いついた」
の方が感動が大きいと思います。
もちろんこれは、「私達の子供がカラスのプロポーズの話を思いついた」というノンフィクションに対する感動とみなすこともできますが。

フィクションに対して驚きとは、「こんな作品が思いつけるとは予想しなかった」であり、大抵の場合ノンフィクションの場合の「(その作品の内容)が起きるとは予想しなかった」よりも(驚きが)小さくなるからじゃないかなあと思います。


ねみみずさんのコメント
得た情報量が大きいから というは回答は為になりました。ありがとうございます。 ただ、この場合の情報量が大きいというのは、情報の質が良いのか情報の量が多いのかどちらの意味でしょうか? ただ、頂いた例のうち 「私が10日前の同じ時刻、同じ場所でカラスのプロポーズを見た」 「私が昨日カラスのプロポーズを見た」 は情報の量は違いますが 面白さは同じな気がします。 いや、若干前者の方が面白いかな。どうなんでしょう? >フィクションに対して驚きとは、「こんな作品が思いつけるとは予想しなかった」であり 話がそれてしまいますがフィクションの感動の仕方はそうではないと思います。 やはり例えばストーリーが面白く感じるから面白いと感じるのであり、この時点では製作者は関係ありません。 >フィクションに対して驚きとは、「こんな作品が思いつけるとは予想しなかった」 というのは作品が面白く感じた後の第二波としての感動だと思います。

5 ● SALINGER
●18ポイント

面白い問だと思いました。

私も純粋にその事象が事実かどうかというのは、面白い、興味を引く要素となり得ると思います。例えば芸人の話が面白いかどうかというのは話術もありますが、同じ芸人が同じように実際にあった話として話すのと仮定の話として話すのとでは面白さに違いがあります。話す前に「本当の話ですが」と付けるだけでも違います。

これは映画マトリックスの仮想現実のようにリアルと寸分違わない仮想現実を用意に想像できることからも、その違いは聞き手の事実である事実ではないという認識にしかないということが言えると思います。

でばなぜ事実性の認識が人間の興味に影響を与えるのかというのがなかなか深い問いだと思えました。ただこのことが万人に共通するかと言えばそれに対しては慎重でなくてはなりません。心理的に現実逃避をしている状況下では事実というものを敬遠することも考えられます。つまり健全な環境下における何らかの欲求なのではないでしょうか。

まっさきに思いつくのは知識欲なのですが、これは小学生の算数で説明すると算数で教わるりんごがいくつみかんがいくつ足していくつのような、それが容易に現実として認識できるうちいいのですが、分数の割り算というような現実をイメージしづらいところになってくると途端に興味を失い理解できない子供が増えることから、知識欲は現実、つまり事実であるということと密接な関係があるのではないかと思われます。

事実を求める欲求というのは先天的な知識欲に根ざす物であり、知識欲は学問や一般教養に限らず全ての事象にまで及んでいるのではないかというのは私の雑感です。

そして一方でそれとは別に後天的な理由もあるのではないかと考えます。社会学の文脈ではありますが「現代人はリアリティに飢えている」なんて言葉を耳にします。リアリティと事実は言葉の意味が違いますが、それらを求める理由は同じです。

現代において絶対的に不足しているから人間は求めるのではないか。周りを見ればそれが事実なのか作り物なのかわからないものばかりです。そんな中で「実際にあった話だけど・・・」と始まる話に思わず耳を傾けたくなる。当然と言えば当然です。

最後に、昨日面白い事例があったので紹介しておきます。

お昼の笑っていいともで翌日のゲストをタモリさんが紹介することに変わりました。そのきっかけは先月矢田亜希子さんが、友達を紹介するはずなのに大竹しのぶさんに「はじめまして」と電話してしまったことにあると言われています。

視聴者はうすうすヤラセであるとわかっていても、どこかそれが本当の友達を紹介しているという事実の可能性は残っているのではないかと思う物ですが、それがやらせであるという事実ではないという証拠をつきつけられると途端に白々しく思えてきます。

視聴者にしてみたらたいしたことではないけれどそれを敏感に感じているのは翌日のゲストを紹介するのをタモリさんに変えたテレビ局側であったわけです。面白くなくっちゃテレビじゃないフジテレビは、事実が面白さの要素であると意識していることがわかるということです。


ねみみずさんのコメント
回答ありがとうございます >心理的に現実逃避をしている状況下では事実というものを敬遠することも考えられます。つまり健全な環境下における何らかの欲求なのではないでしょうか。 たしかに「事実である」という情報を入れると面白くなる この一般化はダメですね。 「人には知識欲があるから」はこの問の答えだとおもいました。 しかし知識欲を満たす知識は個人によって多様であり。 頭がまだモヤモヤします。

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