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【01】については、疋田智「日本史の旅は、自転車に限る!」P.31に載っていますね。
理由はとほほなことに、やはり『生類憐れみの令』にあるのだ。馬を殊更に速く駆けさせては馬がかわいそう。ましてや急ぎ過ぎて馬を潰してしまっては目も当てられない。だから早駕籠。
【02】についてですが、通常飛脚で8日かかるところを、早駕籠も飛脚も4日半あるいは5日で走破しています。ですので、どちらも全速力で走ったとは思います。しかし、なぜ早駕籠が半日早かったのか…、それは、公的な記録などが残されていないようなので推測になりますが、早駕籠は、人目がある(浅野氏の家臣が乗っている)というので片時も気の抜けない道程だったと思われます。もちろん飛脚も全速力だったでしょうけど、こちらには人目がありません。この人目のあるなしは心理的に大きいように思います。推測ですが、いかがでしょうか…。
推測でゴメンです。
駕籠なら徹夜できる
馬は夜間に全力疾走できないし、五日間夜通しもきつそう。
http://dummy
これまたニッチで面白い質問ですね。
せっかくidコールいただいたので調べてみましたが、ウィキペディア程度の情報しか見つからない…。
なのであくまでも推測での回答で申し訳ありません。
【1】早馬ではなく籠を使用した理由。
一番の理由はコストや運用上の問題ではないでしょうか。
東海道の早馬は整備されていたが、あくまでも公用であり、諸侯の突発的な緊急時に使用できたか疑問(今と違って道幅が狭く、馬専用道路など無いので、往来の激しい街道では飛ばせなかったり、衝突事故などのリスクもありそう)。
また、一定距離ごとに宿場に馬を用意しておく必要があるが、大名にとって負担が大きい。
関東・東海あたりならばともかく、赤穂の地まで馬を乗り継ぐのはあまりに遠かったのではないでしょうか。
むしろ日常的に藩の業務の関係で懇意にしている駕籠の業者に頼むのが自然なのかと。
http://blog.q-q.jp/201106/article_1.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1054635700?fr=rcmd_chie_detail
小説ですが、池宮彰一郎『四十七人の刺客』ではどのように記述されていたか読み直してみました。
記録的な速さの赤穂浅野家の早駕籠は、なんと十二枚肩の”とんぼ”であった。
すなわち前後の横棒をもう一本ずつ加えて八人で担ぐ。棒鼻の曳き綱も二本、こうなると脚がからまぬよう幅を広げるため、当時の狭い街道の道一杯となる。そのため人よけの人足が駕籠の前を走る。棒頭を含めて計十二人となる。
飛ぶように速い、と言うがそれはそれは修飾に過ぎない。何枚肩であろうと人が人と駕籠を担って走るのである。平地の最大時速は一里半(約六キロ)が精一杯であった。
担いで走る方も大変ですが、乗る方も振り落とされないように命がけ。
しかも人足は交代要員がいるのに対して、使者の方は不眠不休で我慢して乗っていなければならない。
つい音をあげ馬で行きたいと申す菅野に対して早水はこう諭しました。
「近間の走りならばそれも叶うが、お国表までの長丁場、馬では体力の消耗が激しく、とてももたぬと言われた富森どの(早駕籠についての指導役)の言葉を忘れたか。」
なお、【2】の質問に関係するのですが、小説では第一の使者が十四日の昼頃(?)に出立したのに対し、第二の使者はもう少し詳細な情報を入手して十四日の夜に出立した。
要は第一が「ともかく筆頭家老(大石)様にご一報を」ということで限界を超える速さを要したのに対して、第二は通常の速さで良かったからではないでしょうか。
これの参考資料にあたることができればいいのですけどね。
そもそも、早駕籠で戻ったのか、という論議もあるようです。
http://homepage1.nifty.com/longivy/note/li0051.htm
早水藤左衛門らが早駕籠で戻ったであろうことは、「早水満堯萱野重実連署状」から確かなようですが、
浅野内匠頭急用ニ付、両人在所へ早打ニ罷越候。追付其元へ著可申候間、籠弐丁早々御申付置可被下候。頼存候。仕切之義ハ、成たけ急度候間、早御用迄頼入候。以上。
そこで引用されている『堀内伝右衛門覚書』の以下の件。
一 富森助右衛門十九歳の時、内匠頭様御使役被仰付、即日より馬を持被申候由。先年水谷出羽守様御居城を内匠頭様御受取被成候刻、助右衛門を赤穂へ早使に被差越、六日ぶりに着被仕候由。惣右衛門咄しに、伝馬町問屋共へ兼て金銀を被遣置候由、定て道中筋の問屋などへも同前と存候。夫故助右衛門も早着と存じ候。中々早く参り候事はならぬ物にて候。
当時の状況として早馬が使えなかった、もしくは使いづらかった、ということは考えにくいかなあ、と。
出典が書かれていませんが、こんなことも書かれています。
実は、中小姓の萱野には騎乗資格がないという、早馬説に不利な状況証拠もある。
http://homepage1.nifty.com/longivy/note/li0051.htm
因みに、「赤穂義士史料」は、国会図書館の近代デジタルライブラリーで読むことができます。
http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E8%B5%A4%E7%A9%82%E7%BE%A9%E5%A3%AB%E5%8F%B2%E6%96%99
後、気になっているのは「検証・赤穂事件1・2」と「実録四十七士」。
http://chushingura.biz/shohyo/shohyo011.htm
http://www.symphonic-net.com/france1961/cyushingura.htm
内容をネットで見られないかなあと、思っているのですけれど...
# あ、回答になってない?