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元禄赤穂事件発生後、江戸から赤穂への使者が利用した乗り物と飛脚についてお尋ね致します。
(江戸 → 赤穂 距離 約155里/約620Km)

【01】
使者が馬駆けを乗り継いでの移動ではなく、人がかついで走る早駕籠を利用した理由は何ですか?

第1使者が江戸を出発し赤穂へ約5日で着いた事が有名ですが、
人より馬のほうが速く走れるので、乗り継ぎの手続きを含めたとしても
史実にある約5日間よりも早く赤穂に到着できたのではないかと思います。
第2使者以降の飛脚以外も早駕籠利用でした。

馬より遅い駕籠を利用した理由を教えて下さい。


【02】
第1使者(萱野三平、早水藤左衛門)は、人が担いで走る早駕籠を利用しましたが、
第2使者・急使の飛脚よりおよそ半日程早く赤穂に到着しています。
飛脚は書状のみを持って走るので、人を担いで走る駕籠よりも速く走れると思います。

飛脚が駕籠より半日遅く赤穂に到着した理由を教えて下さい。

宜しくお願い申し上げます。


★質問文内【01】と【02】の両方共に回答頂けますと大変たすかりますが、
片方のみの回答でも歓迎致します。




●質問者: ???
●カテゴリ:芸術・文化・歴史 書籍・音楽・映画
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 4/4件

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質問者から

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1 ● gtore

【01】については、疋田智「日本史の旅は、自転車に限る!」P.31に載っていますね。

理由はとほほなことに、やはり『生類憐れみの令』にあるのだ。馬を殊更に速く駆けさせては馬がかわいそう。ましてや急ぎ過ぎて馬を潰してしまっては目も当てられない。だから早駕籠。



【02】についてですが、通常飛脚で8日かかるところを、早駕籠も飛脚も4日半あるいは5日で走破しています。ですので、どちらも全速力で走ったとは思います。しかし、なぜ早駕籠が半日早かったのか…、それは、公的な記録などが残されていないようなので推測になりますが、早駕籠は、人目がある(浅野氏の家臣が乗っている)というので片時も気の抜けない道程だったと思われます。もちろん飛脚も全速力だったでしょうけど、こちらには人目がありません。この人目のあるなしは心理的に大きいように思います。推測ですが、いかがでしょうか…。


???さんのコメント
gtore様 なるほどなるほど。 『生類憐れみの令』綱吉が将軍様の時でしたものね。 疋田智氏著作の該当ページをご提示下さいまして、ありがとうございます。 こちらの本を読んでみたくなりました。(たぶん今月か来月に入手作戦開始です) 長きにわたり考えてきた事柄に光明がさしましたので、今夜は良く眠れそうです。 回答ありがとうございました。 <(_ _)> 疋田智氏以外どなたかのお考えもあるかもしれませんので、 他の回答も待ってみることに致しますね。

gtoreさんのコメント
追記しました。

???さんのコメント
gtore様 【02】についての回答を追記下さいまして、ありがとうございます。 人の目・・・なるほど、なるほど。 gtore様の推測 参考にさせて頂きますね。 他にも何か思いつかれましたなら、是非またこちらに一筆お願い致します。 回答へのコメント記入が大変遅くなりましたこと、お許し下さい。 (体調不全でPCのところに来れないでおりました) <(_ _)>

2 ● GM91

推測でゴメンです。
駕籠なら徹夜できる

馬は夜間に全力疾走できないし、五日間夜通しもきつそう。

http://dummy


???さんのコメント
GM91様 推測であっても、回答頂けてうれしいです。 おっしゃるように、馬は夜走るのは大変ですね。 駕籠は人が担ぐので夜の時間帯を担当してくれる駕籠屋さんのスタッフがいそうですよね。 > 五日間夜通しもきつそう 馬も各駅宿舎(一定の区間ごと)に待機はしていたと記憶しています。 確か・・・平安時代頃からそれは整備されていたような・・・。 ゆえに、一頭の馬が連続して5日間走らずに、駅舎で他の馬に乗り換えるのでありますが、 GM91様のおっしゃるように、夜の全力疾走は難しいですから、 昼間だけですとやはり日数がよけいにかかるわけなのですね。 GM91様の推測のお考えは、大変参考になりました。 今宵は安眠できそうです。 回答ありがとうございました。 <(_ _)> 一応、他の回答も待ってみることに致しますね。

GM91さんのコメント
あ、いえ、心配したのは乗る人の方です。 駕籠なら体を固定すれば居眠りくらいできるかもしれないが、騎乗では致命的。

???さんのコメント
GM91様 人と馬の勘違い、ごめんなさい。 おっしゃるように、乗馬中人は眠れませんね。 駕籠のほう、居眠りできた可能性はありますよね。 補足説明を頂きまして、ありがとうございました。 <(_ _)>

GM91さんのコメント
ごっつぁんです!

3 ● goldwell

これまたニッチで面白い質問ですね。
せっかくidコールいただいたので調べてみましたが、ウィキペディア程度の情報しか見つからない…。
なのであくまでも推測での回答で申し訳ありません。


【1】早馬ではなく籠を使用した理由。
一番の理由はコストや運用上の問題ではないでしょうか。
東海道の早馬は整備されていたが、あくまでも公用であり、諸侯の突発的な緊急時に使用できたか疑問(今と違って道幅が狭く、馬専用道路など無いので、往来の激しい街道では飛ばせなかったり、衝突事故などのリスクもありそう)。
また、一定距離ごとに宿場に馬を用意しておく必要があるが、大名にとって負担が大きい。
関東・東海あたりならばともかく、赤穂の地まで馬を乗り継ぐのはあまりに遠かったのではないでしょうか。
むしろ日常的に藩の業務の関係で懇意にしている駕籠の業者に頼むのが自然なのかと。
http://blog.q-q.jp/201106/article_1.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1054635700?fr=rcmd_chie_detail


小説ですが、池宮彰一郎『四十七人の刺客』ではどのように記述されていたか読み直してみました。

記録的な速さの赤穂浅野家の早駕籠は、なんと十二枚肩の”とんぼ”であった。
すなわち前後の横棒をもう一本ずつ加えて八人で担ぐ。棒鼻の曳き綱も二本、こうなると脚がからまぬよう幅を広げるため、当時の狭い街道の道一杯となる。そのため人よけの人足が駕籠の前を走る。棒頭を含めて計十二人となる。
飛ぶように速い、と言うがそれはそれは修飾に過ぎない。何枚肩であろうと人が人と駕籠を担って走るのである。平地の最大時速は一里半(約六キロ)が精一杯であった。

担いで走る方も大変ですが、乗る方も振り落とされないように命がけ。
しかも人足は交代要員がいるのに対して、使者の方は不眠不休で我慢して乗っていなければならない。
つい音をあげ馬で行きたいと申す菅野に対して早水はこう諭しました。
「近間の走りならばそれも叶うが、お国表までの長丁場、馬では体力の消耗が激しく、とてももたぬと言われた富森どの(早駕籠についての指導役)の言葉を忘れたか。」


なお、【2】の質問に関係するのですが、小説では第一の使者が十四日の昼頃(?)に出立したのに対し、第二の使者はもう少し詳細な情報を入手して十四日の夜に出立した。
要は第一が「ともかく筆頭家老(大石)様にご一報を」ということで限界を超える速さを要したのに対して、第二は通常の速さで良かったからではないでしょうか。

四十七人の刺客〈上〉 (角川文庫)

四十七人の刺客〈上〉 (角川文庫)

これの参考資料にあたることができればいいのですけどね。


???さんのコメント
goldwell様 ""ニッチ""質問ご連絡で、ご足労 + お手数 をおかけしてすみませんでした。 大変詳しい内容の回答を頂きまして、ありがとうございます。 推測であってもうれしいです。 【1】 なるほど。なるほど。 参考になるURLページ2件と小説『四十七人の刺客』池宮彰一郎/著 内 該当ページの内容とあわせて考えてみますと、 goldwell様の書いて下さったお考えが、当時の当事者達の事情に適合するのだと思います。 映画やドラマでも描かれているように、早駕籠で赤穂にたどり着いた使者達は、 疲労困憊で話しもできないほどの状態で、まさに命がけの江戸→赤穂移動でしたよね。 > むしろ日常的に藩の業務の関係で懇意にしている駕籠の業者に頼むのが自然なのかと。 はい。御意。 国家老の大石内蔵助の采配で、各地点の駕籠業者には毎月・毎年のお支払いは他藩より毎回多めにしてあり この非常時にはどの駕籠スタッフも "限界ぎりぎり" "死にそうになるほど" "がんばって" 走ってくれた、と、 どの書物だったかに書いてあった記憶があります。 【2】 なるほど。なるほど。 飛脚もそれなりにがんばって走ってくれたにせよ、 【1】の状況を鑑みますと、第1使者2名の早駕籠が 異常にがんばって速かったという事ですよね。 池宮彰一郎の小説、吉良側のほうは近年読んでおりましたのに 赤穂側の『四十七人の刺客』は、大昔に読んだと思い、 書庫を探してみたのですが見あたりませんでした。(大昔すぎて整理してしまったのかも) 映画はみましたが小説ほど細かく描いておりませんのでやはり、再読する必要がありますね。 お手持ちの書庫より該当小説を読み直して下さった事を感謝申し上げます。 お手数をおかけしてすみませんでした。 目の前の霧が晴れるような素晴らしい回答を頂きまして、誠にありがとうございました。 <(_ _)>

4 ● a-kuma3

そもそも、早駕籠で戻ったのか、という論議もあるようです。
http://homepage1.nifty.com/longivy/note/li0051.htm

早水藤左衛門らが早駕籠で戻ったであろうことは、「早水満堯萱野重実連署状」から確かなようですが、

浅野内匠頭急用ニ付、両人在所へ早打ニ罷越候。追付其元へ著可申候間、籠弐丁早々御申付置可被下候。頼存候。仕切之義ハ、成たけ急度候間、早御用迄頼入候。以上。

そこで引用されている『堀内伝右衛門覚書』の以下の件。

一 富森助右衛門十九歳の時、内匠頭様御使役被仰付、即日より馬を持被申候由。先年水谷出羽守様御居城を内匠頭様御受取被成候刻、助右衛門を赤穂へ早使に被差越、六日ぶりに着被仕候由。惣右衛門咄しに、伝馬町問屋共へ兼て金銀を被遣置候由、定て道中筋の問屋などへも同前と存候。夫故助右衛門も早着と存じ候。中々早く参り候事はならぬ物にて候。

当時の状況として早馬が使えなかった、もしくは使いづらかった、ということは考えにくいかなあ、と。
出典が書かれていませんが、こんなことも書かれています。

実は、中小姓の萱野には騎乗資格がないという、早馬説に不利な状況証拠もある。

http://homepage1.nifty.com/longivy/note/li0051.htm

因みに、「赤穂義士史料」は、国会図書館の近代デジタルライブラリーで読むことができます。
http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E8%B5%A4%E7%A9%82%E7%BE%A9%E5%A3%AB%E5%8F%B2%E6%96%99



後、気になっているのは「検証・赤穂事件1・2」と「実録四十七士」。
http://chushingura.biz/shohyo/shohyo011.htm
http://www.symphonic-net.com/france1961/cyushingura.htm
内容をネットで見られないかなあと、思っているのですけれど...



# あ、回答になってない?


???さんのコメント
a-kuma3様 ""ニッチ""質問ご連絡で、ご足労 + お手数 をおかけしてすみませんでした。 有益な情報をたくさんアップして頂きまして、ありがとうございます。 なるほど。なるほど。 馬利用もしくは馬と駕籠併用の可能性もあるわけですね。 ::早駕籠の使者:: 田中光郎 http://homepage1.nifty.com/longivy/note/li0051.htm >(3) > 早駕籠だというのが定着するのは明治以降だと思われる。 > スピードのほどは心許ないが、早馬がないとは言えないのではないか。 >(4) > 大塚屋宛書状からして追継ごとに指示を出して使い分けていた可能性はあり、全行程が駕籠だったとは限らない > (講釈師の「見てきたようなウソ」が案外真相に近いことは間々ある)。 > 堀内伝右衛門は原について馬だと思っているらしいから、早水らは駕籠でも、原らは馬だったかも知れない。 > しかし、論理的な可能性はあっても根拠としては薄弱に過ぎるだろう。 > やはり駕籠だったとしておくのが穏当である。 ●●国会図書館の近代デジタルライブラリー 「赤穂義士史料」●● 数ページみてみました。 質問内容に該当するページを探し得る迄時間がかかりそうです。 後ほど、じっくりとみてみますね。 http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E8%B5%A4%E7%A9%82%E7%BE%A9%E5%A3%AB%E5%8F%B2%E6%96%99 ●●「検証・赤穂事件1・2」と「実録四十七士」●● なんとか、是非にも、みてみたいです。 古本で入手できると良いのですが・・・無いかも・・・?? > # あ、回答になってない? たくさんの関連資料を探して頂けた事、感謝申し上げます。 回答になってなくないと思います。 a-kuma3様の推測というかお考えと致しましては、【1】は 馬利用かも・・・でしょうか? 馬利用(全行程でなくても)の可能性もあることがわかり、 謎は深まるばかり・・・・という心境ではありますが、 気持ちの整理がつきそうな回答を頂きまして、誠にありがとうございました。 <(_ _)> 別件ではありますが、 萱野 重実・三平が、平重盛と同様の 『忠ならんとすれば孝ならず 孝ならんとすれば忠ならず 進退ここにきわ まれり』 だった事が小5脳内データから全く消失おりましたが、 書いて下さった回答内容から思い出すことができました。 ありがとうございました。 <(_ _)>

a-kuma3さんのコメント
>> a-kuma3様の推測というかお考えと致しましては、【1】は 馬利用かも・・・でしょうか? << 推測というよりは、妄想レベルですが... >> 馬より遅い駕籠を利用した理由を教えて下さい。 << 「実は、中小姓の萱野には騎乗資格がない」を推したいです。 こういう重要な連絡では、不測の事態に備えてペアで行くことが義務付けられてたんじゃないかな、って。 >> 飛脚が駕籠より半日遅く赤穂に到着した理由を教えて下さい。 << 飛脚って、もしかしたら赤穂藩の「大名飛脚」だったんじゃないかな、と。 だから、24時間×五日間をぶっ通しで走れるほど人数がいなかった。 駕籠については goldwell さんへのコメントにあるように、普段の心付けで人数が揃えられた。 それに、五日間の中での半日は、能力差の範疇じゃないかな、という気もします。

???さんのコメント
a-kuma3様 回答追記+補足説明ありがとうございます。 妄想であっても とても たすかります。 なるほど。なるほど。 ふ?む。 【1】 > 「実は、中小姓の萱野には騎乗資格がない」を推したいです。 で、早駕籠ですね。 > 不測の事態に備えてペアで行くことが義務付けられてたんじゃないかな、って。 そうですね。これは現代にも通じる行動様式ですよね。 刑事さんとかFBIとか2人組で行動することが多いですしね。← ドラマの観すぎ 【2】 > 五日間の中での半日は、能力差の範疇じゃないかな、という気もします。 早駕籠担いで走った人達全員の走力のほうが少しだけ上だったという事ですね。 これなら、自然に納得できる理由になります。(自分の中で) 謎を深めないですむようなご丁寧な回答を頂けまして、懊悩していた事がすっきり致しました。 誠にありがとうございました。 <(_ _)>

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