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私はキリスト教を信仰しています
「自分がして欲しいことを相手に施しなさい」と教わっています。
例えば二人ともお腹が減っているのに饅頭が一つなら、自分が食べたいお饅頭ひとつを相手に差し出すでしょう(例えですが)
ただ、実際の生活では相手が何を望んでるかわからない時があると思います。
その様な時に考え方として「どうする」のが良いでしょうか?

相手が察しない不快で無いうちに相手を洞察して、相手が外界に対して求めてるものをあたえるのかなとか思いましたが

●質問者: SE**.M
●カテゴリ:芸術・文化・歴史 人生相談
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 3/3件

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1 ● figamere

黄金律を成立させるには「自分を相手の立場に置いて考える」という洞察ができることが大前提になります。

良く知らない人に詮索されたり立ち入られたくない、放っておいて欲しいというのも普通の欲求ですし、相手が何を望んでいるかわからないときには何もしないというのもまた黄金律なのでは?


SE**.Mさんのコメント
ありがとうございます

2 ● やんまにくん

どちらにしろ自分一人でできることには限界があるので、全員を救おうとしなくても良いのでは。

考えるよりまず行動。わかる範囲で行動して(分け与えて)いったらいいのかなあと。

キリスト教はよく知らないけど、まずは隣人からで良いのでは。

考えるのはその後で良いんじゃないかと思います。


3 ● なぽりん

仏教にも飢えた僧のために焚火に身投げしたうさぎという説話がありますが、

人間はうさぎではないし社会的な生き物なので

自分が心身をこわしてしまえば相手のためになるどころか迷惑をかけてしまうわけです

まず、できる範囲でというのが大切だとおもいます

それと他人に強く望むほど追い詰められた人に適切な手当てをしてあげられるほど相手を知るにはコミュニケーションが重要ですが

コミュニケーションも楽天のメルマガみたいに頻繁だとそれ自体が邪魔になることがあるわけです

コミュニケーションが自然に取れる範囲、同僚や家族として顔を合わせる範囲で行えば十分だとおもいます

相手がそっとしておいてほしいときに「そっとしておいて」と望みを口に出していわせるまで、しつこくかまう行為はやさしくないです。1日に1度挨拶をかわす程度で察するしかありません。

あとは健康でいつでも相手を受け入れられる人としてそこにいるだけでいい


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