交換手の闘争
政令201号(公務員・公企体労働者のスト禁止令)に対し、国鉄・全逓の職場放棄闘争がひろがった。全逓では特に女子労働者の活動がめざましく、青森の電信係・塩釜電話局・日立郵便局・多賀電話局など青年男女労働者の職揚放棄運動がつづいた。静岡県清水郵便局の交換手120名は定員不足による労働強化に反対、8日以来休憩時間その他1人1要求のさみだれ戦術をもって職場闘争を行い、通話回線低下に抗議にきた市民に実情を訴えて同調させ、ついに局長も労働条件のわるさを認めたが、この日武装讐官400名が年若い女子労働者をおそい、暴行の末 17名を検束した。東京中央電話局交換手の闘争も警官に弾圧され検束者を出した。
それよりも、当時のエピソードからうかがえるのは、細部に対する丁寧な気配りである。中山は、横浜の前に東京中央電話局の局舎(昭和2年竣工)を手がけているが、そこでは、交換手の休憩室にはじめて絨毯を敷き、次官から贅沢だとして撤去されたという。
横浜中央電話局では、現在、都市発展記念館の常設展示室となっている4階部分が、交換手の宿直室や休憩室などで占められていた。図3に見える角地部分の4階窓にカーテンが掛かっているのが見えるが、この場所が交換手の休憩室である(図4)。東京の前例があるためか、床はリノリウムであるが、天井や時計回りの装飾などは、交換手たちが少しでも休まるようにとの気配りであった。
また、当時の職員の話によると、宿直室どうしの間仕切りを取り払うと、大部屋ができたという。本町通りに面している並びがすべてひとつの大空間としてつながるわけであるから、壮観であったろう。
こんな話も。
作業者の話は案外出てきませんでした。
から。
ニューヨークの状況です。
英語ですが。