「心という独自の存在を認めない唯物論的な立場にはどのような難点があるか。以下のカッコ内に挙げる言葉すべてを正しく用いながら論じてください。言葉を使用する順序は問いません。(デカルト、機能主義、普遍的知識、クオリア)」
論述の筋がとおっていること。引用したところは引用元を書くこと(ネットの場合URL+日付)。自分の立場とその根拠が書かれていること。最低800字程度は書くこと。
よろしくお願いします。
脳科学の発達と共に、デカルト以来のアポリアであった心身二元論を克服し、心的な現象を脳のはたらきで説明・記述しようとする唯物論的な思想が勃興してきた。
心を脳の状態との対応関係とする、または心脳因果を脳が原因として描き出す手法は、全ての心的状態を脳の状態に還元しようとするものである。が、この方法では個別の「この痛み」に対応する脳状態は確認できるが、「痛み一般」に対応するする脳状態は多様であるとの批判が浮上した。
皮肉にもデカルトの提唱した普遍的知識が足枷となって、個別の状態の記述は可能だが、それを普遍にまで拡張できないという難点が露呈したのである。
これに対抗したのが、チューリングにインスパイアされ、人間の脳を機械と同一視する機能主義である。この「科学的」な方法は脳に対するインプットとアウトプットのみを問題にし「脳の内実」を不問にしたまま人間行動を説明しようと試みるものである。
もちろん、機能主義に対しても批判は存在する。まず、脳の感じ取る「質(クオリア)」という問題を宙に浮かせたままというのがそれである。人間の感覚質(以降はクオリア)は、クオリアを全く考慮しない。換言するなら人間の脳というハードウェアを、全く蚊帳の外に置いた機能主義においては、人間のクオリアは十全に説明されえない。
また、人間の欲求や信念はその人の行動や言動に基づいて、合理的に緩やかに理解されるものである。これに厳密に対応した脳状態を発見するのはほぼ不可能である。人間の具体的な言動は、他の心的なものとも結びついて複雑に振舞うからである。
言い換えれえば、心的なありさまを、脳状態から「唯物論、決定論的に」見出だすのは、同じ精密さと「柔軟性」を持ち合わせた脳を「創り出す」ことでしか成就しえない。これは、結局はもうひとつの人間の脳を要請しているのであって、創り出すのは極めて困難な作業であろうし、仮に成就しえたとしても心脳関係の謎をクリアしているとはいえない。
以上の点からも心を脳に帰着させる方法には、幾多の難点があるものと思われる。
1.普遍的知識としてのクオリア
わたしは、この質問で、初めて“クオリア”という用語を知ったが、
そんなことも知らない回答者が、質問者を満足させる可能性は低い。
質問者は、愚かな回答者をあつめて、睥睨したいのだろうか。
先に定住した者は、あとから登場する者の存在を認めたがらない。
したがって、唯物論が“心の存在”を認める以前に、たぶん“心”が
唯物論の存在を認めないはずである。
たとえば、メロンが甘いかどうかは、その名から予測できない。
過去に食べた果実が、メロンと呼ばれることを知らない場合もある。
そこで、メロンを見ただけの者が、食べた者に教えることができる。
2.機能主義とは何か
メロンを食べた者が、見ただけの者に教える手法は、限られている。
よく似た果実の名をあげ、共有した経験を選びながら、その組合せに
よって、固有の機能を連想させようと試みるのである。
刺激をうけた“心”の変化を再現することで、疑似体験を生みだす。
後から来た探検家は、はじめは先住者の意見に耳を傾けるが、結局は
信じない。やはり自分の知ってるものしか存在しないと考えるからだ。
哲学も、言語以前の先住者であり、言語によって形成された概念は、
探検家にすぎないのである。
ゆえに哲学は、図書館や研究室には存在しない。
3.デカルトの周辺
デカルトを論じる者は、いまだ読んでいない者を探しもとめている。
デカルトを語る者は、最後に、つぎのように〆めくくることができる。
「デカルトは、ぼくの出発点だったが、もはや過去のものだ」
デカルトを読んだ者は、読まない者を指さしたがる。
デカルトと会った者が、読んだ者に教える内容も、きわめて貧しい。
「デカルトは、あぁ見えても気さくで、お人よしなんだ」
デカルトの亡き母は、こうつぶやいたかもしれない。
「お前が存在するかどうかは、わたしが先に知っていたのよ」
デカルトは、死後の哲学の発展に、あくびしているにちがいない。
4.心の在処
約百年前まで、心は心臓にあると信じられていた。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19151028
外科の夜明け ~ エリザベスの心臓 ~
現在では、心は、脳内記憶として存在すると考えられている。
ただし、論理的な存在であって、物理的な実在ではない。
あたかも数学における“零”のように、約束されたルールとして。
たぶん心は、喜怒哀楽を収納するための、文学的容器にすぎない。
もとのままの喜怒哀楽は、学習された利害勘定だったのだ。
多少の出し入れは可能だが、一度ぶちまけると、元に戻せない。
5.余論 ~ もうひとつの心 ~
「心の存在を認めない唯物論の難点」は、つぎのように云える。
ゼロの存在を認めない元号計算から脱することができない。
元年の前年を“ゼロ年”としなければ、通算できないのである。
近代の西暦計算は、つぎのとおり。
紀元前一年から紀元一年までが1年間、前二年から後一年まで2年間。
紀元前一年を“0年”とすれば、いかようにも演算できる。
この考えは、工芸用語として“心々・真々・芯々(Center to center)”
の呼び名で存在し、二点の中心を割りだす技法でもある。
このような概念は、おそらく“heart”よりも古いのではないか。
◇
http://q.hatena.ne.jp/1150739562
ほんとうは“朝三暮四”で、何を伝えようとしたのでしょうか。
レポート作成代行に頼めば、最低5000円はかかります。
未だに課題文を読んでも、論点すら分からない文章があります(苦笑)
寄せられる回答が楽しみです。
↓
機能主義はクオリアを全く考慮しない。
ですね。まあ、全体にお目汚しの内容で申し訳ない。
「難点」はない、というのが結論です。
「デカルト、機能主義、普遍的知識、クオリア」どれも無駄な単語に過ぎない。
#終わっちゃったよ。
私の立場としては、「心」という「独自」の存在ではなく、「心」を「従属」的な存在として認めるのであれば、どれも矛盾なく存在できるという立場です。
「独立」か「従属」かは、「デカルト、機能主義、普遍的知識、クオリア」とは、何の関係もありません。
デカルト: 「人間」という「もの」が居ると思っている
機能主義: 「機能」が「もの」として存在する前提である
普遍的知識: 「ひと」がいないでも「もの」があることになってる
クオリア: なんとなく「もの」が「ある」とおもえる。
「もの」を前提としてるという点では一緒です。「唯物論的」とは無関係な概念に過ぎない。なせなら「唯物論的」は「もの」は前提としないから。「もの」しかないのだから「もの」を前提としない。「もの」がないとすれば、そもそも「唯物論的」ではない。
#この意味の「もの」は、「もの」の概念すべてを含む。
ということで「難点」はなく、単に平行線です。
脳の配線さえ分かれば、その「唯物論」という概念は
なくなると期待してます。「心」と「唯物論」の対立は、そもそも
存在しない。
#あと膨らませば800文字行くのだろうか。
「ネットワークそのものに心は存在する」
とか
万物に心が宿る
「八百万の神」
とかも物理的な真理だよね。
神様だから凄いとかじゃないんだけど
見方によったら神様なみに凄いw
ま、要するに唯物論的観点だとどうしても機能主義になっちゃうけど、それだと1つの入力でいろんな答えを出す脳みその「ゆらぎ」ってやつをどう説明すんの?ってことでしょ?
蝶々や兎は関係ないかな。