総合的な歴史的背景は見つからなかったのですが、
面白い記事がありました。
富山の売薬(富山といえば置き薬ですよね)に利益を奪われないために、
地元農村の組合が各家庭に薬を配置し、
富山の薬箱を回収したという記事です。
家庭に救急箱が置かれるようになった背景には
こんな要因もあったのかもしれません。
http://horita.rootslab.com/19371000.html
新篠津組合の配置問題
「昭和十二年新篠津の農村では富山の売薬に利益を持っていかれないために、農村の組合で売薬業をはじめ各家々へ薬を配置した。そして今まで置いてあった富山の薬を集会所に集めて使わぬことにしたという知らせが入った。皆が農村地帯を廻っている時でした。業者はあわてて各地に集合した。札幌中心の人々も当別にたくさん集まっていたので、札幌から夜提灯を下げて当別へかけつけた人もあった。県売薬同業組合へ電報を打ったり、方方へ知らせて早く解決しなければならないと大騒ぎになった。江別にも大勢の人が集まっているというので、江別へ行き合流してバスに乗り新篠津に向かった。駐在所の巡査を道案内として農家を一軒一軒廻り、集合所に集めてあった薬箱を出して貰って写真に撮り引きあげた。
その晩に村の有志とこちらは会長堀田重良、副会長成田儀兵衛と佐伯慶治・黒田敬蔵・山内重太郎・日水与太郎等の役員や問題になった新篠津を廻っている島田繁太郎とが会合を開き、継子扱いをして呉れるなという話をして話し合ったら了解したというので円満解決して分れた。」