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お釈迦様は6年半、荒野をさまよって修行をされました。その結果として得た悟りとは、人間も動物の一種である、しかし退化してしまったから自然の中で生きていくことができない。だから、なるべく自然を破壊することなく、わずかな衣服や食糧で生きていくのがよい。というものだと思います。


お釈迦様の体得した悟りは、所を日本に移せば、修験道や神道における禊のようなものかもしれません。文明的なものを、禊ぎ、祓い、清めて、1匹の生物になりきる。言葉のない世界を生きる。

悟りと禊ぎは、同じものだから、天台宗では今でも千日回峯行が尊ばれるし、禅宗は言語を使うなというわけです。

さて、このように禊ぎや悟りを理解したときに、言語以前の人間の心や感情と、言語が生まれた後に形成される意識とを、別々のものとして扱うことが望ましいと思います。言語以前と言語以後とをうまく言い表す言葉を教えてください。
(ひとり一回だけにしますので、ご自身の言いたいことを、要点を明確にわかりやすく書き込みお願いします。)

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お釈迦様の考えなのですか?

nasi-goreng2009-02-17 12:54:01

天台本覚思想 と言うのを存じ上げませんが、この思想はお釈迦様の考え、悟りと同じなのですか?

だからあまり気に病む必要はないのでしょう

ShinRai2009-02-16 23:12:59

悩まないというのは、大切な教えですよね。

この世に執着がなくなれば、悩みもなくなります。

一匹のサルとして、いさぎよく分子に戻っていけばいいのでしょうね。

生物は死ぬと分子に還る?

fusakogane2009-02-16 22:57:23

人間を含めて生物も分子の集合体ですものねぇ・・・

どれも読んだことがありません。ありがとうございます

ShinRai2009-02-16 21:09:18

読んでそれが私に理解できるかどうかは、別として、ためしに読んでみたいと思いました

参考文献をいくつか…

webees2009-02-16 20:26:11

ストーの「孤独」を読んでから、エッセンシャル・ユング、チクセントミハイの「楽しみの社会学」、マズローの至高体験(本の名前は忘れた)なんかを読んでみてはいかがでしょうか。言葉が人間の脳の局所的なところしか切り取っていない様子がよく分かります。コリン・ウィルソンの「超越意識の探求」なんかもおすすめです。だいたい同じようなことが書かれています。これについて明確に書くのは不可能です。言語ではあつかえない体験だからです。

しかしこれらの誘惑に打ち勝つ手がかりとなったのは結局「言葉」であり、論理=ロゴスでした。

ShinRai2009-02-16 15:48:44

そうですか。

しかしこれらの誘惑に打ち勝つ手がかりとなったのは

結局「言葉」を乗り越えることであり、

論理=ロゴスの否定でした。

と言い換えることもできそうに思うのですが。

個人的には

kyamada2009-02-15 11:18:55

弟子「いつまで考えても正解にはたどり着けない、だから私には禅の修行など無理かもしれない」

師匠「それを考え続けることこそ禅である」

・・・ということではないかと思います。

坐禅の修行のある段階において、五感に「普通ではあり得ない」感覚を感じることがあります。トランス状態やLSDによる幻覚に近いものだそうです。ほかの宗教(シャーマニズムや密教など)ではこれを忘我の境地と表現したり神秘体験とすることがありますが、禅宗はこれを「魔境」として否定します。私としてはこれが「頭で考えることを否定した状態」ではないかと考えます。釈迦が断食をしているときにマーラが幻覚を見せて誘惑する、というエピソードがありますし、イエスが荒野をさまよっているときにも悪魔が幻覚を見せて誘惑するエピソードがあります。しかしこれらの誘惑に打ち勝つ手がかりとなったのは結局「言葉」であり、論理=ロゴスでした。

弟子のおかれたコンテクストを一度解体し、より高次の論理の構築を目指す(目指し続ける)ことこそ円相(円相はただ描かれた図だけではなく、円を描く動作そのものも含んでいます)の示すものではないかと考えております。

言葉による切り分けの向こう側にある統合

ShinRai2009-02-14 22:17:49

円相ですか。知りませんでした。


たしかに公案の問いは、論理的正解のないパラドクスに弟子を落としいれますね。

頭で考えているかぎり絶対に正解にたどりつかないパラドクス。

これも頭で考えることを否定するためでしょうか。

一性と二性

kyamada2009-02-14 21:56:58

他の方の答えと重なりますが・・・。

言語とは外界を切り分け、分類するために生まれたものです。幼児の発達段階においては、「これとあれは違う」ということを繰り返し学習することで外界の認識というものを徐々に完成させてゆくわけです。

人間はそのようにしてロゴスを発達させ、他の動物たちと文字通り一線を画した文明を築いたわけですが、「それでは(他者とは違う)自己とはなにか」という疑問に行き当たったとき、「切り分ける」だけでは結論に行き着くことができません。人間とは「関係性」と「時間」の中で生きる生き物であるが故に、そこから「他者と関係のない自己」や「過去と関係のない現在」を切り出そうとすると「結局何も存在しない」という結論になってしまうことが多いからです。

質問者さんは「禅は言語を否定する」とおっしゃっていますが、禅(とくに曹洞禅)の修行において、坐禅とともに重要視されているのが「公案」、つまりパラドキシカルな言語による問答です。教師は弟子を意図的にパラドックスに陥れることによって、弟子が捕われている二分論的状況からより高次のコンテクストに誘導する訳です。

例えば卑近な例では「右の道に行ったら死ぬ。左の道を行っても死ぬ。どうすればよいか」→「来た道を戻ればよい」というように。

これは確かに二性からの解放を目指したものではありますが、かといってもとの「一」、つまり言葉のない動物の状態に戻れ、ということではありません。言葉による切り分けの向こう側にある統合を目指したもので、これを「円相」で表すそうです。

動物は悟っているのか、人間だけが悟れるのか:nasi-gorengさんからのコメントに答えて

ShinRai2009-02-13 05:36:44

>すみませんおっしゃっている意味がよく分かりません。

>非言語思考→言語思考→超言語思考

>と考えた時、非言語思考に戻る場合もあると言うことですか?

 

>私は超言語思考は=非言語思考とは考えていないのですが、超言語思考が何かは悟りの境地のことなので私にはわかりません。漠然と言葉を超えたところに悟りがあるのでは?ということです。


このあたり、言語で、しかもネット上の言語で、議論をするのは、非常に難しいですが、要するにこういうことかな。

つまり、動物は悟っているのか、人間だけが悟れるのか。

言語を獲得していない動物は生まれながらにして悟っていると考えるのか、それとも、いったん言語活動を行なってからでないと悟れないのか。


天台本覚思想では、山川草木悉皆成仏といいます。

山も川も草も木もみんな悟りを開いている。

だから、生命そのものの状態は覚りである。

人間だけが言語の作用で迷いの世界に入り込んでおり、悟れていない。

もちろんこれもひとつの考え方です。

1か2か、それは実像だけの世界と、虚像も交えた世界ということだろうか

ShinRai2009-02-13 05:26:33

お書きになられたことを理解できている自信はありません。

しかし、1と2として理解するのは、言語による意識が生まれて、もうひとつ世界が増えたということかもしれないと思いました。


複雑系(complex)についてサンタフェ研究所が行なった議論を思い出します。

この複雑系を表すcomplexは、そのまま複素数のcomplexと同一であり、すなわち虚数部分が加わったという意味にとればよいのかもしれませんね。

つまり、人間の意識は、虚部であるということになるでしょうか。

「情報理論の父であるクロード・シャノンが指摘したように、厳密に数学的な意味でのみ情報は定義することが可能であり、それは純粋な符号化とメッセージ伝送の物理学に限られる。

したがって我々が意味や内包として理解しているものとはまったく無縁なのである。

このために、サンタフェ研究所のゲルマンたちは、日常的に用いられている意味を表わす言葉として「複雑系」という用語を提案したのである。これまでのところ、複雑系を数学的に表現しようとするすべての試みは失敗している。」

ハンス・ノル

2(n)=2n

motsura2009-02-13 00:34:06

以前と以後に世界を分けて考えるって、なんか宇宙が生まれるプロセスにも似てる気がするんですよね。

「有」の世界 2(n)=2n (有意識、認知の拡大)

ちなみに「無」の世界 1(n)=1n

墓も立てるな、葬式もいらない

ShinRai2009-02-12 17:26:06

動物であるのに、自然の中では生きていけず、文明を作って暮らしている人間存在の不自然さについて悟りを開かれたお釈迦様は、お亡くなりになるときに、墓もいらない、葬式もするなと言い遺されたそうです。

葬式仏教に堕している日本のほぼすべての仏教宗派とは、違ったことをお釈迦様は説かれたわけです。

これは、お釈迦様は悟っていたけれども、日本のほぼすべての仏教宗派は、悟りに達していないということを意味するのでしょうか。

難しい問題ですね。

素直な回答をありがとうございます

ShinRai2009-02-12 16:42:11

たしかにそれもありますね。

でも、いったん言語を持ってしまうと、非言語思考に戻るのが大変ではないでしょうか。

非言語思考でなければならないところに、言語思考を持ち込むと、間違った結論にたどりつかないでしょうか。

悟りを意思の更に上位に考えれば

nasi-goreng2009-02-12 15:43:24

そのままですが、言語があってもなくても思考はされるので

 

言語以前の人間の心や感情

「非言語思考」

言語が生まれた後

「言語思考」

悟り

「超言語思考」

 

あるいは悟りは、思考さえないのかも・・・。

言語の人為性、これは記号言語(デジタル符号)だから符号化過程が伴うからかも

ShinRai2009-02-12 09:42:33

非常に鋭いご指摘ですね。

人間の言語の場合には、どういうふうに言葉にするかを悩みます。

たとえば、何かがほしいときに、「欲しい」と素直にいうよりも、

「○○があったら、こんなかなあ」とソフトにいったほうが手に

入りやすいとか、「○○は、お嫌いですか」といってみるとか。

言語のコミュニケーションの複雑さは、心にある思いを、相手の

心にどうすれば伝えられるかというところもさることながら、

自分の希望をどうすればかなえられるのかという相手の操作・支配

を含むところ(政治ですね)ではないでしょうか。

そういうふうな下心でものごとを考えて言葉にすること自体が、

あざとくていやらしいことではありますね。

無為自然と有為自然

serian2009-02-12 08:24:05

言葉=人為、作為とするとこんなのもありでしょうか。

老子はその後、インドに行ってお釈迦様になった、なんて伝説もあるみたいですね。

分子レベルで我々は宇宙と連動している

ShinRai2009-02-11 15:03:20

そうですね、言葉以前の存在として、すでにお釈迦様は、

我々のDNAやタンパク質合成の神秘について感じておられたかもしれませんね。

実際に、お釈迦様がお生まれになったルンビニは、ヒマラヤ山脈の麓です。

これは、インド亜大陸がユーラシア大陸にぶつかった接点であり、

ものすごい霊力のある場所だと思います。

インドでたくさんの聖者が生まれているのは、この大陸と亜大陸の衝突によって

できた聖地だからではないでしょうか。

もしかすると、そのインド亜大陸がゴンドワナランドから分裂したのは、

1億4500万年前のモロケン隕石衝突による衝撃かもしれません。

我々の体内にすみついているミトコンドリアも、20億年前のフレデフォート

ドームの隕石衝突の時代に登場しています。

我々の命は、まさに分子レベルで、宇宙の動きと連動しているのだと思います。

お釈迦様はそれを言葉にしていたかもしれませんが、弟子が聞いてもわからず、

残っていないだけかもしれません。

心と感情・・・ 意識・・・

fusakogane2009-02-11 12:58:00

宗教には素人ですけど・・・宇宙とか原子と分子ってお釈迦様には無関係ですか?

これも面白い、二分化するのは言語があるから

ShinRai2009-02-11 08:28:54

あやしげな新興宗教なんて、みんな「これは正しい、これは間違っている」

てなことをいいますね。

言葉がないと成立しない。

共産主義とか左翼もだいたい言葉で善悪を決め付ける

これもよくないわけだ

言語以前の一如の世界を提示できない宗教は、

人類文明の垢や穢れを落としきれていない、

俗っぽいものなのかもしれないですね

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登録日時
2009-02-10 13:06:32
終了日時
2009-02-17 13:10:02
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禅宗8天台宗9神道29釈迦22悟り23衣服78

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