また、昔、火の国といっていた史料についても併せてご紹介いただけると助かります。
肥前佐賀藩は、薩長土肥と言われたくらい維新に功績のあった藩だったのですが、明治7年に「佐賀の乱」という士族の反乱が起きたことにより、明治9年には佐賀県全域が筑後の三潴県に合併、その後は長崎県に合併となってしまいます。
http://www.pref.saga.lg.jp/at-contents/gaiyou/index.html
本県(佐賀県)は藩制時には、佐賀、蓮池、小城、鹿島、唐津、厳原の6藩に分かれて統治されていたが、明治4年7月の廃藩置県によって各藩は県と改称された。
同年9月、佐賀県と厳原県とを合併して伊万里県を設置した。
同5年5月には伊万里から庁舎を佐賀に移し、名称を佐賀県と改称した。
同9年4月、佐賀県は筑後の三潴県に合併されたが、同年8月三潴県の廃止で長崎県に合併された。
同16年5月佐賀、神埼、養父、基肄、三根、小城、東松浦、西松浦、杵島、藤津の10郡(595町村)を長崎県の管轄から分離して、再び佐賀県と改称し、庁舎を佐賀に再置した。
また、明治4年に対馬国は伊万里県(その後佐賀県に改称)に編入されたので、9年の合併までは、対馬は佐賀県でした。
http://www.pref.saga.lg.jp/web/var/rev0/0024/7561/hikitugisyo.pd...
長崎県時代は県庁も遠く、農・工・商が停滞したため、これを復興させようと佐賀復県運動が活発化し、
原口良輔(佐賀米商会所初代理事長)らは観照院(佐賀市高木町)などに集まり復県の運動を始めました。
そして、明治16年に長崎県から分離独立し、現在の佐賀県が誕生しました。
佐賀県の方が長崎から分離独立したので、長崎本土から行くには不便な壱岐・対馬も長崎県に残ってしまったわけです。
「この国は火の国と呼ばれていた。」と古代史に書いてある。
長崎のことだ。普通、昔の名というと肥前と書く。肥後と合わせて「肥国(ひのくに)」と呼ばれていたのは周知の事である。「肥」の意味は土地がこえることであり、農耕民族からみれば実にありがたい名前であったのだろう。だがこの「肥」の文字は、昔の人がつけた当て字だったのだ。「肥」は実は「火」だったのである。火の国から肥の国になったのは、実は天皇の命令で、国の名前は好字で2文字にする事、いう命令があったので変わったのだが、これで皆さんがいだく長崎の古代のイメージが変わってくるだろう。
古代史にはこう書いてある。天皇が九州の視察の際、長崎方面に不思議な光を見て、「これは人間の火ではない。これで火の国という名前の由来がわかった。」と書いてある。つまり、かなり大昔から火の国と呼ばれていた事がわかる。不思議な「火」の可能性は2つある。1つは不知火(しらぬい)だ。熊本の八代海で見られる蜃気楼現象である。もう1つは雲仙の火山から吹き出す火炎だったのであろう。当時の記録は何もないので断言できないが、今よりも火山活動が活発だったであったろうと推測出来る。しかし「人間の火ではない。」という天皇の言葉はエピソードに過ぎない。異境としての「火の国」を表現していると解釈したほうが正しいだろう。
古代史から推測すると「火の国」の由来は雲仙岳がメインのように思われる。火山活動の事は勿論だが、その霊山ぶりが際立っているのだ。現在でも雲仙岳の周りの山には普賢岳、妙見岳と仏の名前が付けられている。普賢菩薩、妙見菩薩である。そうすると雲仙岳とは釈迦如来を意味している事になる。まさに霊山と呼んでもいいだろう。この「おやま信仰」は古代でも同じだったのだ。島原の雲仙岳を中心として長崎、佐賀、天草、熊本の一部が大和朝廷の力がおよばない異境「火の国」と認知されていたのだ。
それでは「火の国」は誰が統治していたのだろうか。雲仙岳は神の象徴だ。そこを統治出来る人物とは神に仕える者である。つまり「巫女(みこ)」である。ここまでは異論がないと思う。
たとえば雲仙が休火山であり、噴火もせず単なる神の象徴なら、その信仰を利用した強者が統治していただろう。だが雲仙は活火山だ。実際に火を吹き、地震を起こし被害をもたらす現実の脅威なのだ。その男性的な神に仕えるには女性つまり「巫女」しかいないのである。「火の国」の「巫女」が実際の統治者、つまり女王だったのである。
そんな人物が、古代史の世界にいただろうか。そう、あの有名な「卑弥呼」がそうだったのだ。「ひみこ」とは文字どおり「火の国」の「巫女」、すなわち「火巫女」だった。そうすると「火の国」とは「邪馬台国(やまたいこく)」となる。不思議な事に日本の古代史には「邪馬台国」のことは何の記述もない。御存じのように「魏志倭人伝」という中国側の古代の記録からわかった。現在もその場所は謎である。そしてブームと呼ばれる程過熱している邪馬台国論争は様々な事実をあばきだしている。その一つに「邪馬台(やまたい)国」と読まれているのは間違いだとの説だ。事実、「魏志倭人伝」には「邪馬台(やまたい)国」とは書いていない。「邪馬壱(やまいち)国」とかかれている。なぜ、やまたい国と呼んでいたかというと、「大和(やまと)」に読みが通じているからだ。だからこれまでの学者の説は「魏志倭人伝に書かれている「邪馬壱(やまいち)国」は中国側の文字の書き間違いで「邪馬台(やまたい)国」が正しい」と勝手に解釈を付けていた。呆れた話である。何としても「邪馬壱(やまいち)国」を「大和」までもっていかないと、日本の天皇支配の神話のつじつまがあわなくなるのだ。
そうするとこの「邪馬壱(やまいち)国」の名前の由来はなんだろうか。「邪馬」は「やま」であり、「山」である。「壱」は数字の「いち」だ。つまり「山が1つの国」となる。これはまさに「火の国」の形そのものだ。1つの山で成り立っている国を中国側は「邪馬壱(やまいち)国」と、見たままを国名にしたのだ。単純すぎるといわれるかも知れないが、五つの島だから「五島」と我々も呼んでいるではないか。
「邪馬壱(やまいち)国」のすなわち「火の国(長崎)」は信仰を1つにした宗教国である。そしてその国民は信者だ。力よりも信仰が優先する。「邪馬壱国」の強力さの秘密は信仰にあった。信仰の力がどれほど力強いかは、長崎人なら判るであろう。くしくも島原はキリスト教信者が集結した場所であり、天草四郎という不思議なリーダーを生み出した場所でもある。不思議なことだが歴史はくり返していたのだ。
歴史の中で、「邪馬壱(やまいち)国」は呆気なく消え去っている。それも謎である。推論だが1つだけその謎をとく鍵がある。それは雲仙岳の大噴火である。イタリア南部の古代都市ポンペイはヴェスヴィオ火山の大噴火で一夜で消え去ってしまった。
「邪馬壱(やまいち)国」も雲仙と供に生まれ、雲仙の大噴火で跡形もなく消え去ったに違いない。
そう信じている。
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