勝海舟だけではなく、紀州藩からも横領しているらしいです。
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先ずは”龍馬公金横領事件”だ。
元治元年(西暦1864年)に勝海舟は軍艦奉行を罷免され、後に神戸海軍操練所も閉鎖された。この事件が発覚したのはその海舟罷免の直後だ。
以下、幕末明治期の政治・思想史研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)から引用する。文中に登場する「与之助」とは、神戸にあった勝の私塾における「塾長」と言える立場だった佐藤与之助のことである。(坂本が神戸の海軍操練所や勝の私塾で、「塾長」やそれに相当する立場だった事実は無い。この「塾長伝説」も後世の創作である。正式発足後の海軍操練所に関しては「塾長」どころか一練習生ですらない。龍馬のような浪人は入所出来ないことになったからだ。)文字強調は私メガリスによる。
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前年の海舟軍艦奉行罷免の報らせを受けて驚いた手紙で与之助は、松平大隅に預けてあった海舟の金四百両を受取り、指示された支払に三百両を使い、残り百両は自分が持っていると書いた。実は与之助の手許に残ったのは百両ではなくて五十両だった。五十両は松平大隅のところから坂本龍馬ら土佐人が持出していたのである。
与之助は現金五十両の代りに松平大隅の家来が書いた〆金五十両の「覚」を受取った。この「覚」や他の現金を受取ったのは元治元年十一月二十四日だが、与之助は「覚」のことを伏せた。慶応元年の六月十日になって遂に隠しきれず、海舟宛の手紙に同封したのである。
その「覚」は十両を坂本龍馬殿へ、十両を高松太郎殿へ、三十両を近藤長次郎殿へで計五十両だった。この順で松平大隅の手許から持出したのである。まず顔の効く龍馬が十両を借りだし、それが先例になって高松太郎が十両、最後に近藤長次郎が纏めて三十両を引き出して合計が五十両になった。各人それぞれがいつ持出したのか記録されていないけれども、元治元年(子年である)十一月二十四日に与之助が引継いだときには五十両に達していたので、松平大隅の家臣が「子十一月」付の〆金五十両の「覚」を渡したのである。与之助が全部で四百両の筈だった海舟の金を受取ったとき、その内の五十両は土佐の人たちに先に渡してありますという話だったのである。
与之助は高松太郎や近藤長次郎に返金を掛合ったけれども返事も無い。龍馬には大坂で会ったとき詰問したけれども、とてものこと返納の手段は無いとのことだった。
(中略)
そのとき与之助は、龍馬が金の持出しを海舟に告白していないことを確認し、返すあてのないことを聞取った。与之助はなおも熟慮を重ね、六月十日に至り遂に報告することに決めたのである。これも龍馬と海舟の関係を考える上での重要なデータとなる。
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佐藤与之助が”龍馬らの粗雑より起こったことで悪意の横領ではない”と庇ってくれたおかげで、勝海舟も大事にはせず済ましたらしいが、勝に一切断り無く金を持出し使い返却しなかったのだから”横領”と言うしかない。(この横領事件発覚の頃から龍馬と勝は一切の交渉が無くなる。龍馬は死ぬまで勝海舟の愛弟子だったという「生涯海舟愛弟子伝説」もウソである。)
「龍馬が果たした功績から考えたら、現代の価値で200万円強程度の横領など些細なことだ」と言われれば、それはそうかもしれない。