このような考えにたつ思想家、哲学者がいたら紹介してください。
おっしゃる意味は良く分かります。
実は、私もそう思います。
ヨーロッパの(アメリカにも引き継がれた)価値観の一つに、他人に主張して認められて初めて「哲学などの思想」や「発明等の技術」としての意味がある、というものもあるように思います。
300年前の日本では、そのような価値観が薄かったと思います。
従って、思想家、哲学者として認められるような活動をした時点で、実はそのような価値観の人間だったのだということになってしまいます。
御質問の思想家Aや哲学者Bがいても、AとBの定義からして、必然的に誰もその人を知らないはずです。
http://wrs.search.yahoo.co.jp/FOR=0OocGlFV3ijldNqG32kyEFdwN0CddHxz2C6BazE09lWip2UJeylloxai0x._JODWoZuqX2FSa_cHV.hezfvrlmP3WdTqmFcBmNiOPSRgjxGNFblaztAcQHQOutWqiL5PZuKSamI5EXITzZ8pwCocJ8gbL_gSn_xmfW47nZuhFJrJv9ifAjnT7qyIhUPxnzruKmpvpxFo7Wn3jnEYALJftSVlE._aPrHw0pp9ynvNkCvSVQ0EGIGdKYyb77.hbJRtosbNqCdPnEc3JRpsCDQuHyS3_D3.moyHF5MZPK3vAKy0wzIbTg0jgZM_pH5JcGO4bq0Np_dJPyI3Brd9vO8hJZJacaSq38bxmdPIAl5RYuxBBh8VZq6thVVWnrBsALLx7JTjlMK36P8g75Uw.6ADhw0HTj5eeGasKPLfW0VdAzXkLg3hcYSHPcNRwUdlPs2kpDzCmmTJzmYsRH2DdNgF86aAY43ft8JyJidu8gEzqM5YNv8CPdOXbLeb7yT1IqJMKwqSbwOYXGBaIXaQrF5lxJFBBzoms.huCOhFfh6kqghnv3tQGw31y9p.ibZFkpzGvEJJErKHZ6lmvxVm4Bw6cWJQt_Sb/_ylt=A8vY8pnVy_pOQyQAFEaDTwx.;_ylu=X3oDMTBtNHJhZXRnBHBvcwMxBHNlYwNzcgRzbGsDdGl0bGU-/SIG=1atuarqnc/EXP=1325159829/**http%3A//ja.wikipedia.org/wiki/%25E3%2583%2595%25E3%2582%25A3%25E3%2583%25AA%25E3%2583%2583%25E3%2583%2597%25E3%2583%25BB%25E3%2583%2595%25E3%2583%25A9%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2584%25E3%2583%25BB%25E3%2583%2595%25E3%2582%25A9%25E3%2583%25B3%25E3%2583%25BB%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25BC%25E3%2583%259C%25E3%2583%25AB%25E3%2583%2588
日本でも 正月になれば 神社に初詣に行くし、節分等のイベントも宗教的儀式だ。
そもそも本来、宗教は生活の糧となるべきもの、いや昔は 政治がまつりごとと呼ばれたように
宗教が政治の中心だったのだ。
キリスト教といえど、旧教、新教、ほかにも さまざまな キリスト教がある。
ひとくちに キリスト教といっても、何がキリスト教なのかは 定義できない。
コメントありがとうございます。
引いた絵(マクロ的に見た場合)では、なんとなくそういう相対主義的な印象をもつかもしれませんね。
しかし、ヨーロッパの歴史を少し丁寧にみていくと、異端審問、魔女狩り、十字軍、大航海時代などの事件の裏に、かならず教会がいて、思想統制や海外からの収奪の旗振り役をはたしていたことがわかります。
これは神道や仏教にはない考えです。
また、「ひとくちにキリスト教といっても」とおっしゃいますが、私が問題にしているのは、ヨーロッパキリスト教であって、東方教会やコプトなどは含めていません。