また、そのあたりを、善光寺平と呼びますが、善光寺がそこに移転する前は、
何平と呼んでいたのかな(今でもその呼び方が残っているかな)と気になっています。
主に千曲川の扇状地(長い緩傾斜面)を長野と呼んだことが由来のようですね。
●長野県公式ホームページ
「長野」の名前の起源は、室町時代の1570年に武田信玄朱印状に『長野之内 五貫文』と書かれているのが初めてとされています。この場所は善光寺付近の大字「長野」一帯のことを示し、江戸時代には「長野村」という呼び方も確認されています。(「長野県百科事典」信濃毎日新聞社 編 より)
http://www.pref.nagano.lg.jp/soumu/koho/meyasu/shosai/koukai/2007/08/2007000238.htm
その後、村名が県名、町名、市名になりました。もともとの意味は扇状地などの傾斜面につけられた地名とも言われています。
●長野県須坂市オフィシャルWEBサイト
では、長野県という名はいつから使われるようになったのでしょうか。江戸時代長野の町は善光寺町と呼ばれていましたが、正式には「長野村」でした。今も上長野・下長野・袖長野などの字名が残っています。地名はもともと地形の形状から名付けられることが多く、長野という地名は扇状地の緩斜面などに使われることが多いそうです。
http://www.city.suzaka.nagano.jp/enjoy/gakusyu/library/shinano/
●長野市 - Wikipedia
現在の長野市大字長野に上長野・下長野、また大字西長野に西長野・袖長野・中長野という小字が残されており、「長野」とは現在の信州大学教育学部付近から善光寺参道付近にかけての緩傾斜地を呼んだ地名だと思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E5%B8%82
●帝国書院 | 日本を知る 都道府県のすがた 長野県
長野盆地の地形のように長い傾斜面を「長野」とよんだことにちなむ等の説がある
http://www.teikokushoin.co.jp/statistics/japan_world/japan/index20.html
古くは「水の内(みのち)平」と呼ばれていたようです。
水内(みのち)の名は、上水内郡や水内ダムなどに見られるように今でも残っていますね。
いわゆる“善光寺平”と称される地域は、その名のとおり善光寺を中心に拓けた地域で、中世以前から時の実力者によって開発され、水稲栽培が営まれていました。
http://www.pref.nagano.lg.jp/nousei/nochi/agriobje/06zenko/honhen.pdf
この地域は、北に浅川、西に裾花川、南に犀川、東に千曲川と、四方を川に囲まれた土地であることから、古くは水の内(みのち)平と呼ばれていました。