周の制度の公侯伯子男を使ったと聞いていますが、
明治政府としては、先進国の英国に合わせたくて、
5つのランクにしたかったのでしょうか。
英国(連合王国)のピア(貴族の爵位)が、DukeからBaronまで5階級あるからです。
それとも、周の5つのランクがすっきりしているからこれを選んだだけでしょうか。
それから、爵位の英訳ですが、公爵を、Dukeとしないで、Princeとしたのは、
どういう経緯でしょう(英訳を誰かが決めたんだと思います。外務省などが。)。
公爵の英訳はただの勘違いという説をご紹介します。
日本の公爵を英語表記するとき、イギリスにとって外国の公爵はデュークではなくプリンスと呼ぶのだ、と勘違いしてプリンスを採用してしまった。
http://ameblo.jp/itukaateruze3okuenn/entry-10734053877.html
英国のシステムだとプリンスは王子ですけど、デュークの下位のランクにプリンスがある国は少なくないようです。
[追記]
5階級の方について追記します。
ウィキペディアの「華族」には、
法制局大書記官尾崎三良と少書記官桜井能堅から伊藤博文に対し、「公」「侯」「伯」「子」「男」の5等級案が提出された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E6%97%8F
とあります。
それ以前には、9等級案や3等級案も出ていたようです。
尾崎三良はイギリス留学して、オックスフォード大学の聴講生としてイギリス法を修得した人ですから、5等級案を提案するに当たって、イギリスの貴族制度が念頭にあったとしてもおかしくはないでしょう。
文献の裏付けがあるわけではありませんが、イギリス由来という記述のあるブログを2つご紹介します。
イギリスの貴族の身分制度に習ったものであるが、その成り立ちは日本独自のものである。
http://www.tamagoya.ne.jp/potechi/2000/07/197.html
これはイギリスの制度に中国の呼称を使ったものです。
http://www.geocities.co.jp/Bookend/4373/vol_156.htm
貴族院との関係については、古屋哲夫京都大学名誉教授の「帝国議会の成立」に次のような記述があります。
まず翌17年7月7日制定の華族令によって、伊藤がかねて主張していた五爵位制(公・侯・伯・子・男)が実現される。それは従来の華族(公卿および旧藩主)のみならず、国家に勲功ある者は士族、平民にかかわらず華族に列し爵位を与えて(新華族)皇室の藩屏とすると同時に、下院に対抗する上院の基礎を固めようとするものであった。
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/65_gikai_seiritugaiyo/02_.htm
http://tinyangel.jog.client.jp/Class/Aristocracy.html 詳しいところ?をみつけました。
王弟をグランドデュークともプリンスともいったそうです。
皆様、いろいろご教示有難うございます。
さて、戦前の華族制度では爵位が5ランクあります。たしかに、5というのは良い数字です。しかし、なぜ、5つにしたのか、と思っています。
日本の公家(堂上公家)には、もともと、幕末時点で、上から6つのランクに分かれていたそうです(摂家、清華家、・・・)。
公家(堂上公家)は、全員華族になったそうですし、また、地下公家からも一部が、ほんの一部が華族になったそうです。
公侯伯子男の5ランクだと、既存の6ランクを当てはめるのに、少し無理があるな、と思います。
このように考えると、
やはり、この華族制度は、イギリスの5階級制度(バロネットは貴族ではないから除く)を念頭に置いていたのかな、と思いましたが、いかがでしょうか。
(大英帝国の上院みたいなものとして、貴族院を作ろうとして、それで、貴族に等級を決めようとした、つまり、まず、貴族院を作るというのがあって、次に、貴族(華族)の等級を決めたのでは、と、たった今、推測しました)
このあたりご存じの方、おられましたら、ご教示いただけると嬉しいです。
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翻訳ですが、「外務省」「宮内省」というより、伊藤公の側近のどなたかが決めたんでしょうね。
どういう事かというと、予算不足で人材不足で複雑な統治形態を維持できなかった。
成立時の政治部局など一番分かりやすい例だと思う。
元々は寄り合い所帯で、まさか幕府に勝てるとは思っていなかった・・・って言う人も多かった。
じゃあ何故薩長土肥に味方したんだ???っていう疑問はさておいて、政権交代したのは良いけどセクションを増やすと人間が足りなくなる。
爵位の変化もその辺が原因のように思えてならない。