各藩の殿様クラスや、大名の夫人や側室クラスは、風呂屋には行かないと思いますが、それ以外の侍はどうしていたんでしょうか。 そらから、各地の城下町では、どうなっていましたでしょうか。お侍も町人も同じ風呂屋へ行くのでしょうか。
武家屋敷には風呂があって、風呂焚きを雇っていました。浪人は、長屋住まいで、井戸で水浴びです。
有難うございました。町人と武士が裸で、風呂に、いっしょにいるということは、やはりなかったのですね。それに、大小はどこに置いておくのか、気になっておりました。浪人は、失業中の武士ということなのでしょうが、風呂にも行けず、気の毒だと思いました。
バスクリンのサイトから。
ただこのお風呂というのは贅沢なもので、たまに入るものであり、一種の娯楽だったようです。武士や一般庶民は普段は水で体を洗う「行水」、または水でただ汚れを落としていたようです。 ...安土桃山時代の終わりに銭湯が出現して、江戸時代には庶民が銭湯を楽しんだようです。このころの風呂はまだ蒸し風呂が主流で、膝から下が湯に浸かる、半身浴が中心でした。まだ上級武士しか内風呂がありませんでした。 入浴の歴史 | はぴばす | 株式会社バスクリン
ただこのお風呂というのは贅沢なもので、たまに入るものであり、一種の娯楽だったようです。武士や一般庶民は普段は水で体を洗う「行水」、または水でただ汚れを落としていたようです。 ...安土桃山時代の終わりに銭湯が出現して、江戸時代には庶民が銭湯を楽しんだようです。このころの風呂はまだ蒸し風呂が主流で、膝から下が湯に浸かる、半身浴が中心でした。まだ上級武士しか内風呂がありませんでした。
こちらは、島根県は松江市のサイトから。
江戸期の武士の屋敷で現存するものは、松江にもそう多くはありません。さらに、江戸時代の面影をそのままに保つものと言えば、塩見縄手の武家屋敷と根岸家(小泉八雲旧居)ぐらいのものでしょう。 武家屋敷と呼ばれているこの建物は、江戸時代には松江藩の六百石程度の中級武士に与えられた屋敷でした。あくまで藩からの貸し出しですから、勝手にいじくりまわすことも原則としてできません。ですから、建築されてからそう大きく変わっていないと思われていました。なるほど客用の立派な玄関の間を持ち、座敷、書院、内玄関があって昔風の台所、風呂、そして裏側の家族用の住居も、武家の暮らしをそのままに再現するかのように配されています。 松江市ホームページ : コラム第二十二回
江戸期の武士の屋敷で現存するものは、松江にもそう多くはありません。さらに、江戸時代の面影をそのままに保つものと言えば、塩見縄手の武家屋敷と根岸家(小泉八雲旧居)ぐらいのものでしょう。 武家屋敷と呼ばれているこの建物は、江戸時代には松江藩の六百石程度の中級武士に与えられた屋敷でした。あくまで藩からの貸し出しですから、勝手にいじくりまわすことも原則としてできません。ですから、建築されてからそう大きく変わっていないと思われていました。なるほど客用の立派な玄関の間を持ち、座敷、書院、内玄関があって昔風の台所、風呂、そして裏側の家族用の住居も、武家の暮らしをそのままに再現するかのように配されています。
中級武士も、内風呂なのですね。ありがとうございます。家だけ見ると、いまでいう中流階級をはるかに超える家ですね。
皆様、有難うございます。
旗本、御家人は内風呂のようですが、その又家来の中間・小物はどうしていたんでしょう。
各藩の江戸屋敷では、共同風呂があったのではないか、と思いましたが、いかがでしょう。
地方の話ですが、各藩の足軽はどうだったのでしょう。
共同住宅のような足軽屋敷に共同風呂があったのではないか、と想像しました。
時代や場所にもよるかと思いますが・・・江戸では武士も町人も同じ銭湯を楽しんだようです。http://www.cleanup.co.jp/life/edo/11.shtml
有難うございます。こういうところにくるのは、具家人クラスで、屋敷に内風呂がない、そういうクラスなんでしょうね。当然、お風呂に来るときもお供は従えないでしょうね。
貧乏人にとっては風呂は贅沢だった。
つまり、一生風呂に入らない人もいた。