①は正しいと思うのですが、②と③には誤認があるのではないでしょうか?
http://www.geocities.jp/heavenryo/siseki-new/kamioka-skyoyasiki/kamioka-skyoyasiki.html
http://pandapanda.meblog.biz/article/5634312.html
等を見る限り、左京家は宗家の転封に伴って移転したように書かれています。
http://www.library.pref.gifu.lg.jp/gifuken-mokuji/hida/mokuji_top.htm
の「高原郷史の研究」の目次を見ても、飛騨高山の天領化に際して、高原郷が特別扱いされたようには思えません。
補足的な情報ですが、
http://hidasaihakken.hida-ch.com/e109089.html
で祥雲寺に墓所のある人たちの名が示唆的であるように思えます。
http://www.geocities.jp/heavenryo/siseki-new/sakyohaka/sakyohaka...によると、
>金森左京重勝は、金森可重の五男として生まれ母は江馬氏の血を引く女性とされています。可重は飛騨の北部を治めていた名家の江馬氏の存続を考え重勝には江馬氏の旧領高原郷三千石を知行として与え左京家と名乗らせ、金森氏の分家が誕生しました。重勝は兄であった三代目藩主、金森重頼とも仲がよかったようで参勤交代で不在の多かった兄に代わり藩政をよく補佐して名家老と呼ばれていました。
・・・ということのようです。
これだけでは、金森藩の家臣の中の重要な家であっただけのように見えます。
つまり、主家が転封されたら、自分の知行地もなくなってしまい、付いていく筈ですし、
主家が改易になったら、知行地もなにかもがなくなり、そのまま、浪人する筈です。
なお、金森左京家は、金森本家の改易の際に、高原郷から、越前に領地を変更するそうです。
結局、越前白崎にて、旗本ということで、幕末まで存続するそうです。いつのタイミングで旗本扱いになったのだろうか、と思います。
質問文を編集しました。詳細はこちら。
②と③は事実誤認ではないか、とのご指摘をいただきました。そのとおりかと思います。申し訳ございません。