1664年以前は、将軍家から朱印状を直接頂くのは日出藩主のみ(3万石としての朱印状)であったが、1664年からは、朱印状は、日出藩主が2万5千石で頂き、それとは別に、木下延由自身が別途、5千石として朱印状を頂く立場となったと、私は勝手に想像しております。
年代から考えてこれは寛文印知の事を指していると考えられ、実際このときの日田木下家の石高は2万5千で記載されています。
ですが、木下延次は「徳川家光に拝謁し旗本交代寄合となる。正保3年(1646年)に初めて領地に入る。万治元年(1658年)、参勤交代の途中、45歳で急逝した」と記載がある通りです。
従って、単に朱印状の発給がずれ込んだだけで、実態としては1664年以前から交代寄合であった、と解釈すべきではないでしょうか。