苗字が違うのは、①西欧化に反する(清や李氏朝鮮のやり方に似ており、アジアの旧弊であるとか。)、②戸籍を制定して、国民と把握するに不便とか、いろいろ理由は考えられます。また、③当時すでに、妻が夫の苗字を名乗る風習があったのかもしれないですけれど。
橘三千代を、藤原美千代だとか、北条政子を、源政子であるとか、阿野廉子が、姓なし廉子だとか、日野富子が足利富子だとか、皇女和宮が徳川和子だとか、聞いたことないです。しかし、江戸時代は、一般武士階級では、妻が夫の姓を便宜上、名乗っていたのでしょうか。江戸時代直前の細川ガラシャでは、夫の苗字ですから、江戸時代にはそういう例があるのでしょか
庶民は江戸時代、苗字を名乗っていなかったと思いますが、村の有力者は、正式には名乗らずとも私称はしていたといわれるところ。妻が夫の苗字を習慣として、名乗っていたんでしょうか。
人別帳から戸籍になったこと、側妻や妾を認めない一夫一婦制になったことなど社会が大きく転換したので、同姓制度が明確になっただけでしょう。たとえば貞子はまでのこうじと大内と二つの姓で記載が残っています。