「5億年ボタン」という矛盾について。
「5億年ボタンを押すと、今から5億年の間完全な孤独で暮らす事になる。その後に全ての記憶を消して5億年前(ボタンを押す時点)に戻れる。戻った時に100万円貰える。あなたは押しますか?」
ある見方では5億年を孤独で暮らすという地獄を味わうとも言え、別な見た方では一瞬で100万円が貰えると言えます。
押す、押さないを書き、何故そのような判断を導き出すのか教えて下さい。
※私の例えが下手で、良い例えを教えて下さる方がおられましたので、大幅に改訂させて頂きました。もし、古い質問をお知りになりたい場合は、変更履歴をご参考下さい。変更日2016-01-16
質問の趣旨は記憶と主観的事実についてかなと思いました。主観的事実が記憶によって成立しているなら、記憶を消すことと主観的事実を消すことは等価と見なせるか、というような問いでしょうか。SF的に考えてみます。
考慮すべきこととして、記憶というのはデジタルデータのように各データが独立して保持されているのではなく、それまでの状態との関連づけとして新たな情報が非線形に追加されてゆくこと、また、新たな情報の追加によってそれまでの情報が不可逆的に再構成されるということ、があると思います。
関連付けというのは、AとBを記憶しているときに新たにCを経験した場合に、Cは独立して記憶されるのではなく、Aとここが似ている、Bとここが似ている、しかしAともBとも似てない新しいところもある、というふうな情報のセットとして記憶されるということです。
非線形というのは、上記からDを経験してAやBとの関連性が記憶された時に、それは単純な足し算にならないということです。Cを経験し、次にDを経験した状態から、Cの経験による状態変化を引き算しても、それは最初からDを経験したのと同じにはならない、ということです。
再構成とは、AとBが関係ないと思っていたけれど両方に関連するCを経験したら関連性に気づいてしまった、というようなことです。ここからCの記憶を引き算しても、AとBの関連性は残ったままかもしれません。
こう考えると、ある特定のエピソードの記憶を消すというのはどういうことか、というのが問題になります。たとえそのエピソードをどうしても思い出せないという意味で「忘れて」しまっているとしても、その記憶はそれまでの記憶やそれ以降の記憶に影響を与えているわけです。「消す」方法として思いつくのは:
(1) そのエピソードによって生じた変化を逆に戻す。その場合でも、非線形性や不可逆性の影響は残る。むしろそれまでの関連付けが消えたぶん、関連に空白が生じ、その矛盾を埋めるために脳内での記憶が捏造されるかもしれない。
(2) そのエピソードを単体では絶対に思い出せないようにブロックする。関連ネットワークへの矛盾は生じない。本人の意識としてはその記憶はないことになる。しかし潜在的には存在しているわけで、これを消去といえるのか。
(3) 「そのエピソードが無かったとしたら起きていた変化」を再現する。つまり、そのエピソード以降の刺激による変化を全部一旦巻き戻し、そのエピソードだけを抜いて刺激をリプレイする。こうすれば真の意味で記憶を「無かったこと」にできる。しかしそのためには少なくとも該当エピソード以降の全ての身体刺激を記録しておく必要がある。
この世界がコンピュータシミュレーションであれば、その外にいる存在は(3)を実行することができるかもしれません。しかしそういう存在であれば事実そのものを無かったことにもできるわけで、この問題を考える意味が無くなりそうです。
それと、身体的な刺激の影響は脳内だけでなく身体部位にも残り、それが記憶あるいは記憶のトリガとなることも考えられます (身体的な変化との「関連」において記憶が定着している)。例えば強い刺激に対して末端の神経が順応した場合、脳内でその記憶を消したとしても、次の刺激が「初めて感じた時と同じように」は感じられないかもしれません。そういった身体変化まで含めて巻き戻すのかどうか、というのもポイントになりそうです。
あまり結論めいたものは無いのですが、無理にまとめると「影響を残さずに特定の記憶を消去するのは困難であり、その場合何らかの影響が残るので主観的事実を完全に無かったことにするのは難しいのではないか。もし本当に特定の記憶を無かったことにできる存在があるなら、そういう存在は事実そのものを無かったことにも出来るであろう」という感じでしょうか。
まさに、私が話したかったのはこういう話です。何度か質問文を書き換えましたが、趣旨をくみ取って頂ける方が居られ本当に有り難いです!
また、私が思っていたことを具体的に整理して書いて頂きありがとうございます。
そして、結論部分なのですが、そこに大いに疑問を持て居るのです。
本人が今それを一切知覚できない(若しくは完全に元の事とは変質している)。しかし、過去のある時点では強い感情を持って泣き笑いしているわけです。強い感情は非常に人間の本質だとも思うわけです。しかし、それが一切知覚できない場合、その以前の経験は主観的に見た場合、人はどのように評価すべきなのかという疑問が残るわけです。
また、主観的に完全になかったとする最終手段は死だと思いますが、主観的に見た場合、最終的に全て削除される事を日々積み重ねているわけです。旨く言えないのですが、ここには何か矛盾や疑問を感じるわけです。
(3)が理想ですが、実際には、1や2について日常やこれからの技術の延長戦で出来そうな話として思いつきました。もし良ければ、意見頂けると幸いです。
ネットワークの構築はされるが忘れているという意味で、もう一つ良さそうな例を思いつきました。
例えば、寝ている時にとても幸せな夢(高級料理を食べた、空を自由に飛び回ったなど)を見たとします。しかし、いつもの夢通り、目が覚めたら綺麗さっぱり忘れています。
でも、良い夢を多分見たのだから良かったなと思うのだろうか?それとも、覚えてないなら関係ないと思うのだろうかと言うことです。脳には何らかの記憶がされると思いますが、経験上、忘れている夢については何も思うところがないわけです。理論上はネットワーク構築がなされ、何かの拍子に出てくる醸し得ないが実際には上で得たような幸せを感じるほどには無いわけです。幸せな記憶は、殆ど完璧に改ざんされたと言っても良い気がするのです。
なお、現在の研究では頭で考えたことを映像化する機器が初歩的ながら開発されているため、現在は無理でも将来、寝ている時に見た夢をあとで自分で確認することが出来るようになるかも知れません。
このようになると、その時の自分の夢を起きているときに確認して、やはり、どのように思い判断するのかにも疑問があります。
まず死について。主観的事実というのはそれを認識する主体があって成立するものですから、死んで主体がいなくなれば成立しませんよね。削除されるというより、そこでは定義されていないということだと思います。主観的事実が意味を持つのは、それを主観とする主体が存在している範囲のみであると。
で、主観的事実が意味を持つとはどういうことかというと、その事実の経験によって、それ以降の主体が選択する行動や、主体が感じる感覚が「変わる」こと、だと思います。痛みを一切経験したことのない人は痛みを恐れず突っ込むところ、経験済みの人は痛みを恐れて躊躇してしまうかもしれない (赤ん坊は「光っている白熱電球は熱い」というのを触って覚えたりしますね)。辛いプロセスを経た後の成功の喜びを知った人は、再び困難に直面してもその経験を思い出して立ち向かえるかもしれない。「主体の行動や感情に影響を与えることが記憶の意味」だとすれば、死んだ後を考えることに意味はないが、生きている間は意味がある、ということが成立すると思います。
このように考えると、「記憶の消去」について、消去後にはまるでそれを一切経験しなかったかのように感じ、あるいは行動を選択する、というふうにできれば、主観的事実が無かったのと同じことになる、と言えるかもしれません。電球に触って火傷した記憶をすっかりブロックしてしまったら、また何の警戒もなく電球に手を伸ばしてしまうかも。しかし身体的記憶や他の記憶との関連が残って入れば、意識には登らなくても別の行動を選択してしまうかもしれず、その場合は「無かったことにする」のに失敗したということになります(このあたりは、記憶喪失を扱ったフィクションの題材にもなってると思います。新しい記憶を保てなくなった人は、ずっと同じ日常を繰り返すのだろうか、それとも経験の痕跡がどこかに残って、いずれ異なる選択をするのだろうか、という。物語的には痕跡が残るとする方が面白いわけですが…)
しかしまた、主観的事実の意味が、行動の選択に影響を与えることであるとするなら、「かつてAを経験したからああいう選択をした」という事実は客観的にも残って取り消せないわけで、Aの記憶が無くなったからといってもその意味が消失してしまうわけではないとも考えられます。少なくとも、Aの記憶が無くても、「なぜあの時自分はああいう選択をしたのだろう」という疑問を抱くことは避けられないわけで。
なお、夢については(超自然的現象を仮定しなければ)新たな経験というよりはそれまでの記憶の再構成だと思うので、新たな記憶が
付け加わったわけではない、と考えることもできますし、たとえ忘れていても再構成の効果は残るだろうと考えることも出来ると思います。後者の立場を取るなら、例えば夢の中で感じた幸福を現実にすっかり忘れてしまっていたとしても、その結果として再構成されたネットワークは、新たな刺激に対して無意識にそれまでとは異なる反応を返すかもしれない、とすればやはり「無かったこと」にはならないだろう、と言えると思います。
非常に面白い議論だと思うので便乗して質問させてください。
「あくまで頭の中にある分子の固まりが全てだと思ってい」るのであれば「強い感情は非常に人間の本質だとも思う」理由はないと思うのですがいかがでしょう。感情というメカニズムも種の進化の過程で環境に適応するために備わった機能の一つにすぎず、特別視する理由は特にないのではないのではないかと。言い方を変えるとpracticalschemeさんの結論を疑うには超自然的な何かを持ち出さずに議論することは難しいのではないかと個人的には思っています。
以下、すべて余談ですが、practicalschemeさんの結論を洗い直す上で論点になりそうなのが、「記憶が他の記憶と関連付けられて記憶される」という前提だと思います。人間が胎児として形成されたときに最初に植えつけられる「記憶」はいったいどのように脳に植えつけられるのか、結び付け得る他の記憶が全くない状況だと何も記憶することができないのではないかという疑問です。1つの回答としては生まれた瞬間から「生前記憶」のようなものがあり、それは遺伝子によって規定されているというものです。その場合、記憶は1つの個体で完結できる類のものではなくなってくると思います。そして、こういう論法を繰り返していくと無限退行に陥り、究極的には生命または宇宙の誕生まで遡っても答えは出ない気がするんですよね。こうなってしまうともう自然科学の枠では手に負えません。
このとき、記憶には他の記憶と関連付けられて記憶されるタイプの記憶と、独立して記憶される「原体験」のようなタイプの2種類があると定義すればこの無限退行を回避できます。ただ、この場合「原体験」に相当する記憶はどのように形成されるのかが問題になります。個人的にはここにpracticalschemeさんの結論を疑う余地が生まれてくるんじゃないかと思っており、「原体験」タイプの記憶を失うことには何か特別な意味があるんじゃないかという仮説は立てられうるんじゃないかと思います。例えばある種のタイプの出来事を全く記憶できなくなるとか。突き詰めて考えられておらず恐縮ですが、何か意見を頂けると幸いです。
>practicalschemeさん
ものすごく、しっくりと来ました。漠然と思っていたことが、十数年来ぶりに収束したような気分で質問し回答いただけて本当に良かったです。
なお、前者のように完全に忘れた場合についてですが、特にこれという具体例など考えなくても、やはり過去に嫌なことがあったり、嫌な夢を見ていたと考えても嫌だと感じます。この理由が今ひとつ分かりません。
そこで、完全に忘れているので、ある意味自分ではない第三者が酷い目に遭ったと想像してみました。その場合でも、その人が辛い体験をするのは嫌だと感じました。
そうしますと、この質問の本質(後者の場合は除く)は、自分がと言うよりも第三者を含め、それに共感したりミラーニューロンの様な話が事の本質のように思うようになっています。
いかが思われますでしょうか?何か思うところなどありましたら返答頂ければ幸いです。
>opechumanさん
この質問は私へでしょうか?違っていたらすみません。
興味深く聞きましたが、なかなかに難しい話で解釈を間違えていたらすみません。
例えば、砂糖が美味しいという感情。進化の過程で砂糖を美味しいと感じない個体や種はそれを求めずエネルギーの悪い食料を食べ続け長い年月で絶滅、淘汰された。そして、たまたま、これを美味しいと感じる種だけが残った。その末裔がヒトである。遺伝子への規定も色々な個体がDNAの突然変異などで無作為に発生し、単に生き残った種が残っただけの産物である。このような解釈はいかがでしょうかね?現在でもダーウイン賞などとして聞きます。
「利己的な遺伝子:ドーキンス著」からのアイデア拝借のつもりです。また、遺伝子の発現も化学物質みたいに周りの環境に応じて安定な平衡状態が保たれると思っています。
例えば、化学実験でも反応途中には一時的に様々な化合物が出来ても、最終的にはその元素がはじめから持っている性質と組み合わせで安定した平衡状態に落ち着きます。
これが何故なのか、物質にある定数は何故それで固定なのか、何故物質や時間、エネルギー、空間などが存在するのかなど突き詰めると、万物の理論など先端物理の話になると思います。つまり、現状正確な答えは分からないとなります。個人的には、究極的にはこれが解明されないと本当の意味での解決にはならない無いと思っています。
しかし、現実問題として人が体感としてガッツリ感じられる範囲は50年や10年、言ったことのある場所や国など意外にも狭い範囲内だと思います。その為、それなりに実用的で現実的な解(近似値)は近くにあると思っています。
量子力学や相対性理論が分からなくても、ニュートン力学で一応満足できるみたいな話です。
削除
はい、j4mikaさんへの質問で合ってます。蛇足については誰でもいいからコメント欲しいなーという気持ちで書いたせいで分かりづらくなってしまいました。すみません。
前提としてpracticalschemeさんの回答によって結論部分に対する疑問は氷解したということで大丈夫でしょうか?だとすると、そもそも私の質問自体が無意味なのでスルーしていただければと思います。
ただ、j4mikaさん自身がおっしゃっているように先端科学まで突き詰めて考えないと(考えても)究極的な解明はできないわけですが、突き詰めて考えないと(3)が原理的に可能かどうかそもそも議論できずj4mikaさんのモヤモヤが残るんじゃないかなあとも思っています。人間の記憶が個体ではとどまらない物理的事象に依存しているであれば個体をいくら弄っても厳密な意味で元に戻すことはできないので、(3)が可能であるとみなすには記憶が個体レベルで完結したものであるという前提が必要です。practicalschemeさんの定義では記憶が個体で完結することを保証してくれない(というか先端科学まで議論せずに保証する定義ができるかどうか怪しい)のでその点をj4mikaさんはどう考えていらっしゃるのか気になります(practicalschemeさんの意見も頂けるとなおうれしいです)。
まあ、個体を超えた物理的事象すらも弄って再現できるとしてしまえば解決するんですけどね。それだと哲学的問いとしては物足りないかなーと。我儘なこと言って恐縮です。
メスで皮膚を切開された瞬間に、患者が大きく動くと、傷口が予定外の場所に広がるので、切開を伴う手術では、麻酔を省略できません。
あなたが4歳の時に家族で旅行をして、おいしい焼き魚を食べて、公園でいっぱい走ってぐっすり眠っていたとして、そのエピソードを14歳のあなたは忘れていると考えてください。このような個々のエピソードは忘れていても、小さな体験が積み重なって、食べ物の志向、家族への信頼感や公園の楽しさなどあなたの人格を形成しているのです。
激痛を伴う治療中に患者に「動くな」って言っても無理です。
歯医者の治療でも、表皮に軽く麻酔して効いてきてから太い麻酔を刺します。
人は痛みに弱い。
もし、心頭滅却できる薬が別にあれば、それと組み合わせて使えば使えるでしょう。
お伽噺のような薬が無いのであれば、麻酔は未来永劫に必要です。
それでなくても記憶の操作は人権問題なので違法です。
目の前にあれば使ってしまうので、そのような薬が開発されたとしたら厳重な管理下に置かれるべきでしょう。
回答いただきありがとうございます。
質問の意図としては、動くなどという話ではなく、そう言った不快な記憶を消し去ることが出来た場合、麻酔無しで手術を行っても問題ないのかという疑問です。忘れてしまえば、問題なしなのでしょうかね?
「知らぬが仏」ですか?
あなたのそういう考え方は傲慢で我が儘な考え方です。
既に人権問題だと指摘していますが、そういうのは無視していますね。
あなたの人格にも考え方にも看過すべきではない問題があります。
自分の考えた方に都合の良いことだけを強調して、イージーゴーイングが過ぎる。
そういうのも自由ではありますが、私を含めて大多数の人は、そういう人が大嫌いです。
本人がそれを良しとしている場合で仮定して下さい。その場合、本人はどのようにこの問題を考えるのかという話です。この問題の主旨は人権などではなく記憶や自己の意味などについてです。また、この薬や手術なども全て自己で施術し実施したなどでも構いません。質問の主旨はそこではありません。
他にも、類似の話として、瞬間移動やコンピュータへのアップローディング問題があります。
Aさんを完全にコピーしたあと、オリジナルのAさんを処分する事などについてです。
他の例ですと、寝ているときに見た夢はただの妄想だから、どんなに辛いことがあっても、起きているときの話が全てであって気にする必要はない?知らぬが仏でしょうか?しかし、それも人生経験の一つであり、忘れてしまえば問題ないという話なのでしょうか?
一所懸命言い訳しても本質的な部分は変わらない。
自分の考え方がおかしい&矛盾しているって思えないのはエゴが勝るから。
ゲームに浸かるとそうなるな。
結果だけ勝利だけを目指す。
滑稽だな。
あなた自身が本当に正しいと思っているならゲームにつかるからそうなるとか関係のない話ではなく、本質的な議論でお願い致します。
例えば、あなたが使っている携帯電話。どのように作られているのか知らなければ罪ではない。(貴金属はアフリカなどの児童労働がある事実を、知ってしまった以上は罪になる。こんなテーマでも近いかと思います。知らないで使えば正しいのでしょうか?また、この知った事実を綺麗に忘れれば、知ることの無かった依然と同様に問題がないと言えるのでしょうか?
practicalschemeさんの回答が私の疑問の主旨と思って頂ければと思います。
特に(3)についてはこの疑問を仮定する上で完璧な話となると思います。
たとえば、出産直後、母親の体内では、子宮を収縮させると同時に陣痛の痛みを忘れさせるホルモンが出ます
(母親が陣痛をはっきりおぼえて忘れないと2人以上産まなくなって少子化になって絶滅してしまいます)。
だからといって、体に刻まれた妊娠線などは消えるわけではありません。
そして子供という得難い宝は手元にのこります。
同様に、他の痛みでもなにかが残ります。
たとえば、狂犬病では病原菌そのものはしばらくすれば免疫で押さえ込むことができるが、
福次作用である痛みが強すぎるためそれに絶えきれずに体力をつかいはたして死んでしまう
(そのため、ずっと麻酔しておくほうが生存率がすこしだけ上がる)という説があります。
痛みによる痙攣で骨折をしたり、
歯を食いしばりすぎて歯をかみ割ったりしたら、
もともとの原因の痛みが消えても、
体にきざまれた骨折あとなどが弱点として残ります
(もちろん痛みの原因となった「なにか」の後遺症もありえるでしょう。
そのために体は、痛みという危険信号を発信して、逃れろと脳につたえているのですから)。
精神的にも、消極的な態度は残ってしまうとおもいますし、何より、
社会に生きている以上は、周りの他人が記録をしっかり残すでしょうね。
ただ、人間の適応力は「忘れる」ということを最大限活用することで成り立っています。
痛みをすぐに忘れられる人は得です。(子供を3人も4人も産める母親のように)
忘れられない性格の人は適応力が悪い人であって、
この世の中ではかなり生きづらい目に会ってしまいます。
とくに若い人はどんな経験もこれから出会うことなので、
毎日が一生忘れられない体験ばかりだとおもいます。
できれば若い人にはつらい目にはあってほしくないし、
若さならではの適応力で痛みを忘れて挑戦しつづけてほしいものです。
(または、出産だけであれば、無痛分娩という麻酔をつかった出産方法も
合理的なので日本で広まるべきだとおもいます)
長生きするとけっこう自分をコントロールして
上手く甘やかすことで、忘れるのが上手くなったりします。
でも実は体力がないため痛みを忘れたとおもっていても、
他の面でつじつまがあわなくなったりします。
PTSDなんていうのも、そういう病気の一つなのかもしれません。
忘れるのも忘れないのも一長一短ありますが、
やはり大きな印象をあたえる記憶を、人格を破壊せずにそこだけ消すことは今はできません。
(できませんと言い切っていいかどうかはちょっとわかりませんが…、
いくつかそれに近い例を知っていますが、
完全に歓迎できる手法ではまだないです)
痛みがだれにとっても大きなマイナス印象の原因、
ストレスの原因になるのは明らかなので、
あとから無理に消しゴムで消そうとするよりは、
そもそもの痛みをうける機会自体をなくしたほうが人間にとっては絶対によいです。
麻酔はその意味で恩恵です。
もし痛みをうけてしまったら、忘れられるまで生き延びてガンバルしかないですが、
それは最終手段ということにしておいて、
犯罪防止や麻酔の安全な運用からまず手をうっておきたいですね。
回答いただきありがとうございます。
出産の時であれば、予め麻酔すると言っていたが、麻酔を切らしていたので、使わなかった。出産後、医者に行きその話をしたら、その記憶と腹立たしさの記憶を消すことが出来るといわれ、受諾したら、綺麗に消えた。そうすると、麻酔を使っていた場合と同等の効果があったと言えるのでしょうか?
なお、痛みによる他の弊害については、とりあえず、この場合は無視をして、頂ければ幸いです。
旨く質問することが出来ていないのですが、忘れてしまった記憶も、本人の経験となるのか?なんかそんな話でも良いです。自我同一性や連続性、本人の意識とは何か?みたいな話かも知れません。私自身、質問していていまいちしっくり来ていないため分かりにくい質問になっております。すみません。
他にも例えると、不完全なテレポーテーション、Aさんと同じコピーを別の場所に1つ作成。オリジナルのAさんを削除。これは瞬間移動として成立するのかなど。
なお、忘れるのが得意なのは老人のため、寧ろ、老人こそ辛い目にあいながらも起業などすることが向いているかも知れませんね。極端な話、配偶者の死のような大きな事に対しても、親族の事例ですと認知症が酷い場合そこまで辛くはないようです。しっかりしていた夫婦は片方が亡くなるとすぐに亡くなる事が多かったのですが、認知症がかなり進んで完全看護の施設ですとその死が本人にとってはあまり大きくないことのようでした。若い頃あれだけ嫁さんを大事にしていたのにまるで本人ではないようなほど別人です。法律上は別として、実際問題、同一人物と呼べるのか疑問すらあります。
大事なものが消えて悲しむのとかなしまないのは、
本人にとって幸せなのかどうかということですが、
それは正確に比較することはできません。
そもそも痛みの程度自体も比較することができないですよね。
認知症になると、毎日「この人は泥棒ではないか」と疑ったりします。
それが本人および介護者のつらさの元になります。
信頼関係のない生活が一番のストレスだから、その信頼関係のない生活をつくりだした一因である「嫁が居ない」事実への悲しみは比較的薄れてみえているのかもしれません。
痛みを(薬で簡単に)忘れたような人が、他の(痛みを普通にうけとめて自力で忘れられる)人と
健全な信頼関係をつくれるかというと、私は今の世の中は無理だとおもいます。
たとえば、犯罪者とか、自殺者が痛みを忘れて幸せに暮らすとしますと、
そういう人を「この人は後悔をしない、ノリがよい、明るくてすばらしい人だ」と思っている人は
あとで知ってだまされたと思うでしょう。または、付合っているうちに「こういうことは改善してくれなきゃ!」と叱っても改善してくれないということに気づいたら離れていくわけです。
痛みはいろいろなものごとの信号であり、人を導くものなのかもしれません。
社会的に正当と認められる範囲内の手段で取り除かないといけませんね。
実際、日本で無痛分娩がなかなか広まらない理由の一つが「そういう出産方法をする母親はなんとなく母親として信用ならぬ」という説です。すでに痛みをもって出産した母親たちの妬みっぽい(ちょっと極端な表現ですが)部分もあります。
でも、そういうことをいっているから、少子化なんですけどね。
どうも、聞きたいことがずれています。
他の例ですと、寝ている時、人は必ず夢を見るそうです。しかし、夢の中の殆どの記憶は残っていないと言われています。
その中では良いことも悪いことも、楽しいことも苦しいことなど様々な体験が含まれていると思います。しかし、殆どは忘れて生活しているわけです。記憶と本人の人生経験が必ずしもリンクしてないように思うのです。
「この難手術は夢でなら成功させたことがあるが実際にはやったことがない」
というお医者さんに自分の難手術をまかせたいとか思いますか?
人の内面(痛みにしろ他の経験にしろ)は客観的な尺度+本人の自己申告で計るしかないです。
大事な記憶を失っている人(認知症)に重要な仕事はまかせられません。
記憶は人間にとってそれだけ大事な財産なので、よほど大きな痛みを含んでいても
消してはいけません。
また消す手法というものも倫理的に合法化はできないでしょうね。
麻酔は痛みという経験だけを発生させないので、合法でそんざいしています。
仮定の質問なので、PTSDの治療など開発中と聞きますが、そこまで臨床的に突っ込まれても困ります。
問題を簡単にするため、例えば、記憶を改ざんできる技術を自分で開発し、その技術を使って自分の記憶を操作したとします。
嫌なことを経験(脳が思い出として記憶)、その後、その技術で自身で自身の脳の記憶を改ざんしてその嫌な記憶を削除します。
もしくは、嫌な経験を避けて、記憶が残らないようにします。
この両者に本質的な違いはあるのでしょうか?
かなり質問がしぼれてきました。
1.本人の記憶。
2.他人・世間の記憶。
3.本人の肉体にのこる、痛みを受けたことによるストレスや歪み。
4.魂の傷。
質問者は1.3はここでは考えないものと明示的に仮定しました。でもそれでも2、4はどうしても残ると自分は思います。
マンガ「竜の眠る星」は、特段意図を持って記録されていない過去を合理的に観測する方法を提案するSFです。もしめちゃくちゃ科学力があれば、任意の過去のことを遡って見る方法はできそうです。これで2は「記憶がけされた」としても残ることがわかります。
神の視点で宇宙のあり得ない部分までの全記憶をアカシックレコードといいます、これはオカルトやSFの用語ですがそれとも似ています。神様の防犯カメラというか。
で、4は、2や3に似ていますが、生き物の生命=魂そのものが大脳より肉体よりシツコイ記憶装置ではないかという考え方です。これは明らかに宗教の範疇ですが、これも宗教がこれだけシツコク「ある」といっているのだから、自分としてはもしかしたらあるのではないかとおもいます。催眠術で前世を呼出すなんていいますからね。
質問については、かなり遠回しとなりすみません。
私自身、曖昧な所があるのですが、そのような感じで悩んでいると思います。
practicalschemeさんの回答など私が思っている疑問をかなり綺麗にまとめて頂いていると感じています。
4について、私自身は残念ながら無いと思っています。あくまで頭の中にある分子の固まりが全てだと思っています。しかし、喜怒哀楽の感情そのものは非常に強くあり、記憶を削除する前には強く叫んでいるわけです。しかし、その記憶を削除すると、果たして・・・この解釈をどうすべきかと思うところがあるのです。最も、肉体以外の記憶装置を仮定しその改ざんが絶対に不可能だとすると、この疑問は氷解しそうですね。
アカシックレコード、そう言えばありましたね。個人的には、一時期、円周率や乱数表に興味を持ち、実はそれがアカシックレコードではないかと思っています(笑)全て書き記せばこの世の全てを記述できそうですが中途半端では殆ど意味を成しませんし不思議に感じています。
「あくまで頭の中にある分子の固まりが全てだと思っています。しかし、喜怒哀楽の感情そのものは非常に強くあり、記憶を削除する前には強く叫んでいるわけです。しかし、その記憶を削除すると、果たして・・・この解釈をどうすべきかと思う」
感情がシナプスを流れる電流だとしても、「雷の落ちた丸太にはキノコがよく生える(電流により分解されるため)」というような電流による不可逆的化学変化はありえるとおもいますよ。また、高熱による不可逆な蛋白変性(熱中症)も脳内で起こります。シナプスをもとの状態に戻すのが記憶改ざんだとすれば、それこそ「アカシックレコードで元の状態をおぼえている」必要があるとおもいます。普通で考えれば、出来たシナプスに電流の流れる量をすこし減らす程度で、新規生成し太くなったシナプスがなかったことには戻らないのでは。(もちろん、みさかいなく白紙に戻すと…)
突然の場合は仰られるように難しいですが、例えば、元々の質問で揚げたような場合です。麻酔無しの手術前にシナプスのサイズや結びつきなど全ての情報を記録します。そして、2,3日して様態が安定した頃、変化のあった部位のシナプスを全て手術前の状態に書き換える。
更に、可能であれば、手術前に、脳の完全なコピーを物理的に作り、手術後、頭部のみ差し替えるでも良いかも知れません。
いずれにしても、無麻酔で手術をするという嫌な出来事を脳は不快なことを記録しています。しかし、その後、脳を改変や改ざんすることで、主観的に見るとそのことはなかったことになるわけです。これであれば、アカシックレコードが無くても成り立つ気がします。
いやはや、デジタル世代のHDDみたいな考え方ですが、生物はコンピューターではないです。
寝ているときや気絶しているときでさえ脳細胞には血流や電流がながれつづけて活動しています、酸素が3分とまると脳細胞は死滅して二度と記憶に関与できない。iPS細胞で脳みそをなんとなくまるごとつくってみても真っ白なままで呼吸や反射もつかさどれないでしょう。脳は「とてもデリケートななまもの」「生き物」なのです。
だからそう簡単に実行することは無理です。あなたのおっしゃる脳の差し替えはやはりアカシックレコードをつくる空想話でしかないです。それが出来るようになるまえに、その30歩手前の技術でさえ、プリオンを原因とする認知症など非常にむずかしい病気が治せるようになります。方向性としては「予防」のほうが「つくりなおす」よりずっと簡単なのは、手足の切断でもよくわかることでしょう。そして記憶の書換えは「つくりなおす」に該当します。
作り直すという解釈が適切であればそれでも良いです。いずれにしても、細胞レベルで殆ど寸分違わぬほどに作り直せるよな技術が出来た場合、本人にとってはその事実が無かったのと同義になると思うわけです。
また、コンピュータとのことですが、シナプス型のコンピュータをIBMなどは開発していますし、シナプスの結合をコンピュータ上で再現するプロジェクト、模倣するプロジェクトなど色々あります。物質や組み合わせで構成されている以上、本質的な差はそう無いのではないかと思います。
そうすると、元の質問のような話はどうなのかと思うわけです。
なお、現在の技術でも、3D顕微鏡などによる1細胞解像度スキャンなどこの分野の技術進歩は数年前は空想が現実になりつつあります。アカシックレコードほどの遠い空想ではないと思っています。
なお、iPSなどつい先日の技術ですし、既存の技術ですぐにそれが可能とは言いません。しかし、物によっては当時国家プロジェクトで作るようなデバイスが半世紀もしない現代では100円ショップやスクラップでも引き取り手のないゴミ扱いです。個人的には想像しうる程度のことは、1世紀もしないうちにかなりのことが実現すると思っています。
だとすれば「攻殻機動隊」シリーズなんかフィクションですけれど質問者さんには適度な思考実験になるかもしれませんが、自分は医学倫理上の問題(QOLがあからさまに下がる)のでそこまでやる社会には自分が生きているうちには到らないだろうとおもいます。
個人的には、2045年問題の議論を見ていると、(流石にこれは早すぎるとしても)、倫理など考え方を誰かが制御するという時代はあっけなく過ぎ、医学も一般化し、かなり早い段階で個人が自由に使える時代が来るのではないかと思っています。
攻殻機動隊にしても、あの時代が何年続くかには結構疑問がありますし、何より、殆ど不老不死の状態ですよね。
新薬や再生医療や人体の機械化(鼠の海馬は半導体で置換できたらしい)などどんどん進み、寿命が年1年延びるくらいまで科学技術の発展スピードが上昇すれば寿命という話も無くなりますしね。とりあえず、祖母の時代から見ると平均年齢は人生60年から80年になっています。夢見がちですかねw
質問文を編集しました。詳細はこちら。
質問文を編集しました。詳細はこちら。
例えば腕を切り落とします。
その記憶がなくなると腕は戻ってくるでしょうか。
物理世界と記憶は必ずしも一致しません。
記憶は物理世界のできごとの極一部を言語やイメージで一時的に保存するだけなので、なくしても物理世界は変わりません。
催眠術、暗示などでは数字の6だけ思い出せなくなるというような選択的な記憶喪失も起こせます。
それによって世界から数字6が消えるわけではありません。
心理的な観念でも知識や経験は個人の記憶と無関係に存在することになります。
物心両面で他人との共通する何事かがあれば、記憶がなくなってもあったことになります。
極めて個人的な観念世界の思考であれば、記憶をなくせば無い事となるかといえば、それを他者が何らかの方法で知ることになれば、その人はその思考をしなかったのではなく、忘れたということになるでしょう。
忘れて二度と思い起こさず天寿を全うした場合、その忘れたことは、主観的に見ると無かったと同一視できるのかとも考えられるわけです。
また、今更で申し訳ないのですが、例えが今一であったと思っています。
今の質問を綺麗に言い表した物をcrazycrescentさんが教えてく下さったのですが、下記のよう感じです。
「5億年ボタン」という矛盾。
「5億年ボタンを押すと、今から5億年の間完全な孤独で暮らすことになる。その後に全ての記憶を消して5億年前(ボタンを押す時点)に戻す。戻った時に100万円もらえる。このボタン、あなたは押す?」
ある見方では5億年を孤独で暮らすという地獄を味わうとも言え、別な見た方では一瞬で100万円がもらえるとも言えます。
1.麻酔なしで手術をした後、手術の記憶を消す。
質問の本質を抉りだすために、さらに次の仮定を加えましょう。
2.記憶がないので手術を受けた本人は麻酔ありで手術したと思っている。
以上が手術を受けた本人にとって、麻酔ありで手術をしたことと同じか?というのが質問ですね。
2の仮定を付け加えた理由は、記憶の面で一切の違いを生じさせないためです。
本当は麻酔なしで手術をしたと知っていたら、その点で話が違ってしまいますからね。
で、手術が終わった後、事後的に見れば両者が同じであることは明らかです。
今そういう仮定を置いたわけです。
しかし、手術をしている最中においては両者が異なることも明らかです。
だって、一方は痛くて、もう一方は痛くないわけですからね。
その上で最初の質問を考えると、
>記憶を選択的に容易に消すことの出来る方法が発明されたら麻酔は本質的に不要ですか?
この質問にYESと答えるには、少なくとも手術が終わってから事後的に事態を見る必要があることがわかります。
しかし、麻酔が要るか要らないかという問題は手術が終わった後に考えることではありません。
痛いか痛くないかということは、まさに手術を受けている最中の人にとって問題なのですから。
したがって、記憶を消す技術によっても麻酔は不要にはなりません。
回答いただきありがとうございます。
そうですね。しかし、この問いは、その前の状態まで時間を巻き戻すような話ですので、ある意味で、本人にとって手術中の話は無関係とも解釈できるのです。
今更で申し訳ないのですが、例えがいまいちだったと思っています。
今の質問を綺麗に言い表した物をcrazycrescentさんが教えてく下さったのですが、下記のよう感じです。
「5億年ボタン」という矛盾。
「5億年ボタンを押すと、今から5億年の間完全な孤独で暮らすことになる。その後に全ての記憶を消して5億年前(ボタンを押す時点)に戻す。戻った時に100万円もらえる。このボタン、あなたは押す?」
ある見方では5億年を孤独で暮らすという地獄を味わうとも言え、別な見た方では一瞬で100万円がもらえるとも言えます。
5億年ボタンの話も全く同じではありませんか。
一瞬で、と言えるのはすべてが終わった後から事態を見た場合だけはありませんか。
時間を「巻き戻す」という表現がまさにそれを示しているではありませんか。
そのビデオは巻き戻されるが、しかし一度は再生されるのです。
今あなたは5億年ボタンを押して、孤独の中にいます。その記憶は消えるかもしれないが、現在孤独を感じていることは真実です。
同様に、手術の話に戻ると、今あなたは麻酔なしの手術を受け、痛みを感じています。その記憶は消されますが、それは現在痛みを感じていることとは全然別の話です。
激痛を訴えるあなたに医者はこう言います。「安心してください。その苦痛の記憶は後で消しますから」おかしいですよね?あなたにとっては今激痛を感じていることが問題であるはずです。
あなたが仮に5億年ボタンを押すことや麻酔なしの記憶消去手術に肯定的であるとすれば、あなたは知らず知らずのうちに、ビデオの再生が終わり、巻き戻しが完了した後の視点に立って発言していることになります。どうしてその視点にのみ立ち、再生中の視点には立たないことが肯定できるのか?ということです。
実は、この疑問を思いつく前に、色々思うところがあり、過去に5億年ボタンを押したことがあるかも知れない(実際には完全に忘れていても過去に実は間違った判断をした事や経験があると思っている。)と思っているからです。しかし、私自身はそれについて全く意識してない不思議があるわけです。その為、そもそもの考え方の視点が、再生中の今や未来よりも現在から過去を見た視点に偏っているかも知れません。なお、仮に、過去にあったとしても今はそのことについて一切気にして居らず、その時の自分の判断人すら腹を立てていないわけです。未来については非常にダメだと憂うにも関わらず過去のその判断については同程度に思っても良さそうですが、そのようには感じないのです。何か矛盾を感じませんでしょうか?
矛盾はありませんよ。
過去に起こったことを考えるのと今起こっていることを感じるのとは違うというだけのことです。
今、過去に受けた手術のことを考えても痛くありません。
今受けている手術については痛みを感じます。
今、過去に押したかもしれない5億年ボタンのことを考えても孤独は感じません。
今5億年ボタンを経験している最中だとすれば孤独を感じます。
過去と今はこのように非対称なのです。
ですから過去の判断に腹を立てないこととこれから起こることを憂うことは矛盾しません。
過去とは非対称と割り切れるのでしたら、現時点が、5億年ボタンを押した直後だと仮定して、今100万円を手にしている状態であれば、とりあえず100万を貰えたし過去の俺偉い!と思っているのでしょうか?
因みに、私自身ですと、そのように割り切れそうにはないのです。
私が言っているのは、経験した過去を思い出す(あるいは覚えていないが経験したかもしれない過去に想いを馳せる)のと、今自分が現に経験しているのとは全然違うということです。
100万円を受け取ったとき、経験したであろう5億年ボタンに想いを馳せて、過去の自分の判断を悔いることは不思議ではありません。悔いないことも不思議ではありません。それは別にどっちでもよいことです。
後から悔いるかどうかなんてこととは関係なく、5億年ボタンを経験している最中においては、5億年の孤独は真実でしょう?
私は孤独より痛みの方がイメージしやすいと思うので痛みの例で考えます。
(あるいは5億年間拷問を受けるという想定でもよいです)
2014年1月17日20:00に私が殴られたとします。
2014年1月17日20:00の私は痛いですが、たとえば2014年1月18日9:00の私は痛くありません。
私が非対称と呼んだのはこの事実です。
2014年1月18日9:00の時点で、殴られたことを忘れていれば、それは最初から殴られなかったことになるのではないのか?というのが元々の質問ですよね。
それに対して、確かに殴られた痕跡が何一つ残っていなければ、殴られなかった「ことになる」かもしれない、しかしそれは2014年1月18日9:00になって初めてそうなるのであって、2014年1月17日20:00の時点では痛みは間違いなく存在していますよね?どうしてその痛みを無視できるのですか?と言っているのが私です。
ブックマークコメントに書きましたが、私見ではこの問題の本質は、何かが存在するということと、存在が痕跡を残さないこととは違うのか、という点にあります。
これは質問者さんが、手術の思考実験を放棄せざるを得なかったことから分かります。
手術の思考実験と5億年ボタンの思考実験との違いは、世界の中に痕跡が残るかどうかです。
手術の場合、本人の記憶という痕跡は消えますが、医者の記憶やカルテなど他の痕跡が残ってしまいます。
5億年ボタンはボタンを押した時点に戻ってくるので、世界の中に5億年の経験の痕跡が一切残りません。
この点で5億年ボタンの思考実験の方がより先鋭化しているのです。
経験前、経験中(ここについては誰もが嫌だという)、経験後、全てにおいてどうなのかと思っています。
経験している間は確かにその通りで議論はないと思います。しかし、質問では評価するタイミングが複数ありどう評価すべきかというのがこの問いの矛盾であったり疑問なのです。
経験前の話を重要視されていますので、経験後の話を重要視したコメントがそれになります。逆に、経験後の話を重要視された場合には、経験前・中の話を疑問として書かせて頂くつもりでした。
つまり、ここに矛盾があると言いたいのです。
前と後では、同じ話にもかかわらず、答えが変わる問いなのです。
手術については、痕跡や倫理的、臨床的な話が多くなり、私の聞きたかったことに遠くなったため訂正しています。なお、この手術についても、実用上身体への痕跡が消せれば良い程度に思っています。それを見た人の話までは考えておりませんでした。
5億年ボタンにつて、この元々の話は分かりませんが、5億年前の自分が押したという履歴(契約書)が残っている場合と契約書すらない場合、それぞれどのようになるのでしょうか?
契約書一枚で変わるのでしょうかね?
>つまり、ここに矛盾があると言いたいのです。
>前と後では、同じ話にもかかわらず、答えが変わる問いなのです。
「同じ話」と言いますが、なにをもって同じと言っているのかが問題ですよ。
「5億年孤独の経験をする」という部分は前だろうが後だろうが同じですが、
「前」か「後」かという部分がすでに同じではありません。
この違いこそが決定的なので、「同じ話」であるとは言えず、矛盾でもないということです。
この点だけについて言えば、5億年ボタンという想定は不要ですよ。
こんなことは現実にも普通に起こっていることです。
子供の頃に骨折して泣きわめいた記憶があり(あるいはそのようなことがあったらしいが自分では覚えておらず)、今では嫌な思い出ではないということと、これから骨折するのが嫌だということは両立しますよ。
どちらも骨折するという「同じ話」ですが、昔の話をするのとこれから折れるのとで気持ちが違うのは普通のことです。
契約書では変わらないと思います。私が痕跡と言ったのは、5億年の経験自体の痕跡です(その間の記憶とか、肉体的な変化とか)。5億年の記憶が残るとすれば、質問者さんは当然、ボタンを押すのを躊躇うという結論になるわけですよね? そして、ちゃんと記憶を消してくれるのであれば、それは5億年の経験が免除されるのと同じじゃないか、という疑問を持っていらっしゃるわけですよね?
経験することと経験の痕跡(記憶)が残ることとが同じであればこの疑問の答えはYESであり、
経験することと経験の痕跡が残ることとが別であればこの疑問の答えはNOであるわけです。
私はこの疑問の答えはNOであると思うわけです。
これは次のような状況を考えればよいと思います。
5億年の経験を終えて元の世界に戻る瞬間、5億年ボタンの装置が誤作動して、5億年の記憶が残ってしまったとします。この場合は5億年の孤独を経験をしたと問題なく言えますね? しかしそうであれば、装置が正常に作動したとしても、5億年の孤独を経験をしたと言えることは明らかではないでしょうか。なぜなら装置が正常に作動するかどうかは最後の瞬間ではじめて問題になることであって、それまでの499999999年364日23時間59分59秒には関係がないのですから。
あと、質問者さんの問題意識は永井均という哲学者が「転校生とブラックジャック」という本で論じていることに近いと思います。5億年ボタンという話自体、おそらく永井均の思考実験に着想を得ているものと思われます。
>そして、ちゃんと記憶を消してくれるのであれば、それは5億年の経験が免除されるのと同じじゃないか、という疑問を持っていらっしゃるわけですよね?
多分、ここが違います。
リアルタイムで考えて欲しいのですが、つい今しがた、5億年経過後で記憶が無い状態であり、100万円を手にしている状態です。これを良かった!と思えるのかという疑問です。契約書あり、記憶は皆無。私には、仮に記憶が一切無くても、ここまで割り切って100万を貰えて嬉しいとは思えないわけなのです。更に、後々、その孤独時代に録画された録画データなど出てきたら心が揺らがないでしょうか?
また、本の紹介ありがとうございます。こちらの本は残念ながら存じておりませんが、認知症、AI、SFなど記憶が話題になることが多く色々なところから考えられる話かと思っております。私自身、あまりに多くの利用例がありどこから着をを得たのか覚えておりません。以前読んだ小説アッチェレランドでは自身の完全なコピーが作成され、それが多分殺されたという事を知り、悔しいという表現があったりします。しかし、本人は殺されると同時に復活した死亡直前の同一のクローンでその経験は無いのです。因みに、5億年ボタンではありませんが、殺されたことにより利益は得ています。
記憶の脳内風景 ~ おもちゃ箱のように混乱している ~
…… 最後の謎は“記憶”ではないか、という利根川教授の提言である。
http://q.hatena.ne.jp/1246170230#a931007(No.7 20090628 19:53:03)
時間と記憶の謎 ~ 考えるべきか、思いだすべきか ~
論理学 心理学 生理学 物理学 時系列
遺伝記憶 潜在心理 睡眠欲 生理器官 生前記憶
夢の記憶 危機管理 睡眠薬 薬物効果 挿話記憶
認知障害 てんかん MRI 脳波衝撃 直前記憶
残念ながら、端的すぎて、何が言いたいのか、私には理解できませんでした。
再現性が怪しいという話があり、つまり、よく分からないと言うことが言いたいということでしょうか?
…… 語りえないものについては、人は沈黙しなければならない。
(Wittgenstein)http://d.hatena.ne.jp/adlib/19290118
哲学は、記憶や現象の中にあり、書物や研究室の中にはありません。
https://twitter.com/awalibrary/status/669786454709571585
麻酔の話はひとつの例だと考えて、質問の中心は
>とある技術で自身で自身の脳の記憶を改ざんしてその嫌な記憶を削除します。
>もしくは、嫌な経験を避けてそもそもそう言った記憶が残らないようにします。
>この両者に本質的な違いはあるのでしょうか?
にあると解釈することにします。
私は、違いはあると考えます。理由は精神的な経験を無視するのは直感に合わないからです。
「5億年ボタン」という逆説があります。
「5億年ボタンを押すと、今から5億年の間完全な孤独で暮らすことになる。その後に全ての記憶を消して5億年前(ボタンを押す時点)に戻す。戻った時に100万円もらえる。このボタン、あなたは押す?」
という逆説で、ある見方では5億年を孤独で暮らすという地獄を味わうとも言え、別な見た方では一瞬で100万円がもらえるとも言えます。
私は押しませんね。5億年の間孤独に苦しむ自分を容易に想像できますから。
同じように、麻酔をせずに手術をした場合、後で記憶が消えるとわかっていても、苦痛に苦しむ自分がいることを容易に想像できますから、「『本質的な違いはない』とはいえない」と思います。
たまに思うのですが、家畜ってどうせ食べちゃうんだし、死んだら無なんだから、人道的に苦痛の無いように殺す意味って何なんだろうかと思います。
もちろん苦痛の無いように殺す方がいいと思っていますが、苦痛のない殺し方を導入する前と後では、何が違うというか、何が得られたり守られたりしたんだろう、と思うわけです。
子供の頃に虫を殺したことがありますが、あの時も「この虫が苦痛を感じているとして、その苦痛を全部合計していくと、どんな量になるんだろう?かなりの量だろうな」「この苦痛はどこへ行くんだろう?ひょっとして、ぼくに降り掛かってくるんだろうか?」と思ったことがあります。
まあ、そんなこんなで「苦痛を感じる精神が存在し、後で精神から苦痛の記憶を消す」ことと「最初から精神に苦痛を感じさせない」ことは違うだろう、前者のほうが「よくない」「罪深い」「人道的でない」「精神とか生命みたいなものの尊厳を守らない」といったことであろう、と私は思います。
例を、麻酔から拷問に変えたらちょっと伝わりやすいでしょうか?5億年ボタンもある意味拷問とその記憶抹消みたいなものですから。
>更に推し進めると、個人にとって死ぬとそれまでの経験があろうと無かろうと同じ事ですか?
上の理屈では「精神が苦痛(や幸福)を経験すること自体に意味があるので同じではない」になるはずですが、人生まるごととなるとなぜか「経験があろうとなかろうと同じである」と感じます。
理屈に合いませんが、どうやら「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」や「諸行無常の響きあり」が体に染み込んでいるのかも知れません。
(そういえば、いろいろな理由から自殺する人っていますよね。もし「個人にとって死ぬとそれまでの経験があろうと無かろうと同じ事」であれば、自殺はもっとランダムに起こっていいはずです。人生に意味は無いのだから、いつ死のうがいつまで生きていようが全然関係ないわけで、現在のように苦しんでいる人が苦しみから逃れるため(だけ)に自殺が起こりはしないはず。
しかし、実際にはそう思っている人はほとんどいない、「『自分にとって死ぬとそれまでの経験があろうと無かろうと同じ事』なんだから、現実の人生なんてどうでもいいや」「いつどんな死に方・人生の終わらせ方をしたってどうでもいい。火事で子どもを助けようがバナナの皮に転んで死のうが、明日死のうが30年後に死のうがまるっきりいっしょ」と本気で思っている人は、あまりいないでしょう。
というところから考えると、現実には「個人にとって死ぬとそれまでの経験があろうと無かろうと同じ事」と考えている人は少ないのではないかと思います。)
回答いただきありがとうございます。
同じ事を考える人はいる物ですねー。
「5億年ボタン」のお話し、まさに私の疑問そのものです。
私の書いた例などよりも、遙かに洗練されていますね。
今のところ、practicalschemeさんの回答に影響され、押した後の自分に強く共感することで、押さないという選択をする人が多いという解釈をしています。
今、子どもの頃の自分を想像してみても分かりますが、考え方や好みなどもかなり違っています。
ボタンを押して時間が経過すると、自分からどんどん変質していくと思います。最終的には第三者と呼べるくらい分かるかも知れません。
つまり、自分ではないかも知れないが、ある意味、第三者や身内、愛しい人にこういった体験をさせて100万円貰うのは共感が出来る以上ボタンは押せないという解釈です。
逆に、他人に一切共感の出来ない疾病やタイプの人は意外とあっさり押せるのではないかと逆に疑問に思いました。
死ぬと意味がないについては、生きる意味とはなど、もしかすると、この問いの直接の延長線上ではなく、別個の質問ではないかと思ったりしてきています。質問で書いており今更それはと思われるかもしれませんがすみません。
それでも共感で解釈を試みると「一例ですが、親が悲しむから留まろう。」死ぬとこの感情すら無くなりますが、死んだあとの自分はただの化学物質であり共感の出来ない存在になることは想像が付きます。共感が出来ない物は自分自身ではなく考えることが出来ない。若しくは、化学物質にはなりたくないと考える。故に、この問いは、生きている間限定の問いである。何かごり押し感がありいまいちまとまっていませんね・・・
これは持論になりますが、そもそも、死ぬと全てが無になるという説は所詮仮説である。仮説が正しいとは証明されていない。本能も死ぬなと言っている。故に、死ぬというリスクは避け、その解を見つける為に生きる。こんな解釈もありかと思っています。
家畜などについてですが、ミラーニューロンや共感という言葉である程度語れないでしょうかね?また、紛争地域も知らなければ心は痛くありませんが、知れば、映像で見れば寄付をする人はぐっと増えます。また、地元など自分の思い入れがある、つまり共感できる地域であれば、場合によっては多額の寄付をしたり、共感がキーワードになるような気がしています。
質問文を編集しました。詳細はこちら。
質問文が5億年ボタンに変わったので回答します。
5億年ボタンは押します。
理由は、100万円よりも、むしろ、5億年の方に興味があるからです。
5億年の孤独、あるいは退屈に耐えられなくなりそうならば、
孤独、退屈を克服する方法、あるいは、5億年を超える方法を開発することに時間を費やします。
最も、この問題の孤独の定義が不明確ですが
質問者の性格からすると
孤独に過ごすだけではなく、ボタンを押した者の一切の自由を(行動、思考まで)5億年間剥奪しそうですが
回答いただきありがとうございます。
5億年ボタンの孤独の定義については、長生きして楽しもうという主旨ではなく、適度な苦痛と考えて頂ければ良いと思います。
押すか押さないかの選択肢を与えられたら、私なら興味本位で5億年ボタンを押すでしょう。
・経験したことがないことなので経験してみたい
・5億年はいつかは終わる
・ずっと孤独というのは嘘で、何かあるかもしれない
・嘘でなくても5億年のうちには何かがあるかもしれない
でも、今現在生きている私たちって5億年ボタン押してるようなものと思っています。
だって生まれる前と死んだあとには意識できない膨大な時間が横たわっているのですから。
でも、痛い事には違いない。
記憶を失わせて、というのはのちの問題で、手術そのものの事と違う。
その時は痛いのだから、その場で代理人弁護士を選任して(事前に準備が必要だろうけど)
手術の状況を録画でもしておけば、例え、当人の記憶がなくなったとしても裁判は可能と思います。
設問では、手術後には記憶があって、という事だから、もっと確実に裁判できるでしょ。記憶を失うまでにどれだけ証言等をしておくかも重要な要素にはなりますが、根本的には関係ない。
悪意で麻酔なし手術などは、ヒポクラテスの誓い違反w、医師法違反、場合によっては傷害罪。刑事事件なので、看護婦の証言だけでも捜査されるでしょう。全員がグルになっている場合は全員が犯罪者という事になります。確かに、捜査の弊害にはなりますが・・
本人に何の記憶もなくしれっとしてたって、社会正義の元、訴訟は絶対するべき。
どういう意図で質問書いてるか非常に引っかかりますけど、記憶を消したら犯罪をごまかせるなんて本末転倒言語道断、とんでもない。
死ねば、そりゃその当人にとっては無だから、その後に描いた絵が10億円で売れたって、自分を殺した犯人がのうのうとしてたって何とも思わないでしょ。死後の世界があるなら別だけど、今のところ立証されていない以上、推定無罪で、、、えっと・・
しかし、殺人事件は被害者は死んでる訳です。文句は言わない。でも最大限の捜査が行われます。でしょ?
もちろん、犯人に対する損害賠償請求などは、遺族がいない、やらなきゃ訴訟は始まりませんけどね。殺すんなら身よりのない奴って?当然じゃん。殺された事すらなかなか発見されない・・・おいおい。
痛みを感じないという人がごくごくまれに発生します。
しかし、痛みを感じないという事は怪我をしてもなかなか気付かない、体内で何かあっても気付かない、つまり早死にします。
発想そのものがイージーで投げやりです。
ゲームのやり過ぎでしょう。
他の例ですと、寝ている時、人は必ず夢を見るそうです。しかし、夢の中の殆どの記憶は残っていないと言われています。その中では自身が意図ともって良いことも悪いこともし、楽しいことも苦しいことなど様々な体験が含まれていると思います。しかし、無責任にも殆どの事は忘れて生活しているわけです。たまに、寝起きが偉く心地よかったり、悪かったり。結果というか印象だけが残るなどと言うこともあるわけです。
大脳皮質で覚醒時に、意図的に想起できるものだけが記憶ではないのだ。
想起できない記憶、忘れてしまった記憶にも意味はあるのでしょうかね?
これは時々刻々変化し、いわゆる個人的経験の積み重ねの元に、記憶のネットワークは構築され、常に変化し続けている。
狭義の記憶と想起は、この時系列で変化する情報ネットワークの一部であり、その一部の情報を想起できなくするということだけでは、構築されたネットワークを否定し削除することはできない。したがって、想起できないということは全体に対しては矮小なことである。事後に記憶を消す(想起できなくするだけのようだが)ということは、構築されたネットワークのほんの一部をいじっただけの価値しかない。そのシステムの時系列は保持されているのであり、生物学的にも、人権的にも、人類の記憶遺産という点でも、記憶を消せばいいという命題ではない。
更に厳密性を求めるのであれば、practicalschemeさん回答の(3)の事例の様な話ですと完全に戻すことが出来るかと思います。
または死ぬことで全てのネットワークは一切存在しなかったと同義になるかと思います。
生物学的であったり、主観的な問題としてこれをどのように解釈すべきなのかと思っております。
なお、社会的や人権については、国や時代、個人の解釈であまりに異なり曖昧かと思います。勿論、合理的な理由があり、主観的事実へ結びつくならそれもありかと思いますが私には思いつきません。
例えば、寝ている時にとても幸せな夢(高級料理を食べた、空を自由に飛び回ったなど)を見たとします。しかし、いつもの夢通り、目が覚めたら綺麗さっぱり忘れています。
でも、良い夢を多分見たのだから良かったなと思うのだろうか?それとも、覚えてないなら関係ないと思うのだろうかと言うことです。脳には何らかの記憶がされると思いますが、経験上、忘れている夢については何も思うところがないわけです。理論上はネットワーク構築がなされ、何かの拍子に出てくる醸し得ないが実際には上で得たような幸せを感じるほどには無いわけです。幸せな記憶は、殆ど完璧に改ざんされたと言っても良い気がするのです。
なお、現在の研究では頭で考えたことを映像化する機器が初歩的ながら開発されているため、現在は無理でも将来、寝ている時に見た夢をあとで自分で確認することが出来るようになるかも知れません。
このようになると、その時の自分の夢を起きているときに確認して、やはり、どのように思い判断するのかにも疑問があります。
自我、意識があるからこそ記憶を認識できるのであって、反射の元としての記憶であれば問題とされているような矛盾も何も発生しない。
夢も引き合いに出されているが、そもそも夢自体が矛盾した状況であり、通常の記憶と同列に考える事はできない。
また、シミュレーション的に全てを改ざんしたとしても、もしやるなら周辺の分子の動きからその影響まで全て変更しなければならない。この世界には1人の人間だけが存在しているわけではなく、1人の人間の存在が他者や他の生物、熱や移動による気流の乱れ、全てに影響を与える。もちろん、その程度のごく微細な違いは、全体のマスの中では無視され何の影響もないのかもしれないし、エントロピーが増大してゆくゆくは世界が破綻するのかもしらん。
で、だからどうだと言われても猫には分からん。
アンドロイドは電気羊の夢をみるか?
夢と現実が区別つかないくらいリアルに覚えていられるとなると病気です。
客観的事実ではなく夢のほうで気分や判断が大きく左右されてしまう人もいます。
たとえば何も本人に害を与えていないのに、
夢の中でアイツにコロされたからアイツは大嫌いといって
つっかかってくると普通のつきあいはできませんね。
夢のお告げを現実より強く信じるとなると、まわりは正常に対処できません。
あいつは気が狂っているから相手にするなということになります。
このように、客観的事実から逸れる記憶の改ざんとは
社会的害悪の面のほうが大きいわけです。
つまり、実生活での経験の記憶と、夢でみたと思われる記憶とは、同等に扱う命題ではなく、そもそもの起因が異なる事象であり、記憶に対しての原因と結果(もしくは途中経過)という全く異なる次元を扱っていることになります。
これは、科学的な姿勢ではないと思われます。
記憶の定義。
記憶と夢の相関。
識閾下の記憶の蓄積と想起される記憶との相関。
これらを定義しないと、議論する土俵が出来上がりません。
また、記憶には大別して3種あり(by池谷裕二)記憶する内容も、想起方法も記憶部位も違う。相互に絡み合う事象は、特定の記憶の消去という方法には至らないと思われれる。
記憶障害は記憶がきえるのではない。
想起できない(記憶喪失)→治癒する場合があり、記憶は消えてはいない。
記憶できない(海馬損傷)→短期記憶しかできない。長期記憶媒体に書き込めない。(記憶されていないので、消去ではない)
後付けで特定の記憶を消すことは、今のところ不可能であると考えられる。記憶は、時間固定ではなく、時系列で表現されるものと考えられるからである。
しかも、周囲の人たちの記憶と相違がある事も、混乱の元ですし。
自我とは何か?感情とは何か?脳科学も物質が元になっていますので何故物質はなどどこまでも深い質問になる気がします。そうしますと、答えは出ない気がするのです。我思う故に我ありなど有名ですが、今回の疑問ですら、我思わなければ問題ないのだろうか?みたいになるわけです。その為、もう少し限定して、日常的な問いについて、どのように感じるか?どのように考えればいいのか程度の質問にしたく思っています。勿論、自我とは何か?これに誰もが満足する答えがありましたら本当に知りたくは常々思っていますよ。特に、最近のプログラムなど見ていると一見すると自我があるのではないかと見まがうほどですし。実際、年配者など中に人が入っていると思っていたという人がいるほどです。少なくとも、彼女にとっては自我のある存在を感じていたわけですしね・・・
記憶の改ざんについて、ある程度変更するだけでも主観的に見ると、過去の事実は大きく変わりそうですし、少なくとも、本来あった辛い記憶とは全く別物に変化するわけです。周りの記憶よりも、とりあえずはより主観的で思い出せるレベルの話に重きを置きたいと思っています。
>なぽりんさん
本回答へのコメントに返させて頂きます
>たけじんさん
以下、コメントへの返信になりますが、どうも例えが良くなかったと思っています。質問そのものをよりシンプルに書き換えさせて頂きました。もしよろしければご覧下さい。
夢や記憶などについて、私自身思うのは、実生活でも実際には記憶の断片ばかり見ている気がします。勿論、夢よりはハッキリとしたことが多いのは事実ですが、それでも何年が経過すると、それが夢だったのかどうかハッキリしないこともないでしょうか。個人的には、現実の体験の邦画より多くハッキリと覚えていることは否定しませんが、夢も現実の体験と同じくらい記憶に残る事もあり、夢も単なる記憶の整理だけに留まらず、個人の考えなどにもっと直接的に影響を当てているのではないかと思うのです。私事ですが、夢の中で大きな失敗をしてしまい、日やああ背をかいて目が覚めたことがあります。現実では将来そのようになる可能性があったとしても想像していなかったことです。思考や体験などに匹敵するプロセスの一部であると思うところがあるのです。
記憶にアクセスが出来ない、これを持って記憶が消されたという場合も私の仮定する話としてはありだと思っています。
短期の記憶や痛みですと、認知症患者が、注射をされるのと、そうではない人が注射をされるの、どちらの方が辛いかという話なども良い例になるかも知れません。
この場合、辛い記憶の発生するような事が起きたわけです。しかし、その時にはそう思って、その事実を忘れているわけです。しかし、痛みを忘れ忘れるからと言って注射の練習に使うのは間違っているわけです。
2016-01-16 に質問そのものをより分かりやすく、シンプルに書き換えさせて頂きました。
1秒ならだれでも押すでしょうし、1日でも押さない人もいれば、10年でも100年でも差が出てくる。5億年なら、個人の我慢の限界を突破しているから、問題が純粋になるというわけではない。
「あとで帳消しになるから我慢する」のと、「懸命に我慢したのが消えてしまう」のも違う。人は刹那で生きています。積分値は人間の生活感に合いません。微分の方が、人間感覚に合っていると思われます。
これは思考実験としてSF小説「夏への扉」の主人公が語り尽くしているようにおもいます。
孤独とはいえ自分と自然と因果律がある以上、後世にのこせることはあるし、
完璧に消した記憶であっても自分の外部に痕跡はのこります。
子宝という旦那さんに予定認証される大きな価値が得られるからこそ、
忘れたいほどの痛みをともなう出産をしなければならないし
体つきまでかわってしまい出産前にもどれないと
わかっていても女性は中絶せずに子供を産むことを望むのです。
人間の価値基準はさまざまで、
孤独であっても自分が長寿であることこそ価値があると想う人
若い肉体で友人とすごすとか「何かをした」と思う現世の時間にこそ価値があるとおもう人、
社会的に地位を得る(少しでも今より金持ちになる)ことに価値があると思う人、
またその混合パターンなど、いろいろですね。
まだ味わってもいない「痛み」に怯えてそこから逃げ回るほど全員臆病な人ばかりでもないと思いますよ。
「火星にひとりぼっち」の映画なんかもたのしそうですね。
自分の都合に良いように全てを書き換えたくてたまらない、質問者の性格には問題がある。
前の質問に回答してもらった人に謝るべきとか、考えないだろうな。
性格の破綻をさらけ出していることを理解するべきだ。
五億年経っても進歩の望めない性格だ。