幕末に,維新政府は,尊皇攘夷をとなえて倒幕したわけですが,
その後,コロッと開国路線に転向してしまいました。
たしかに,開国路線は,歴史的には正しい方向だと思うので,それ自体は,正しいことだと思います。
ただ,首脳部はともかく,末端の人々は「攘夷」「攘夷」と思い込んでいるわけですから,
開国路線に転じた首脳部に対して,
「てめえらのやってることは,全然違うではないか」
という,組織的な突き上げや,反抗,反乱が,あってしかるべきとも思います。
諸外国の革命政府は,途中で政策変更して,わやくちゃになってしまった例が,いっぱいあります。
(ロシア革命とか…)
明治政府は,開国路線に転向したことを,どうやって,攘夷にこりかたまっていた,自分の支持者を説得したのでしょうか?
それは本当は簡単なことですが、幕末を語る本の多くは記していません。
攘夷とは単なる外国嫌い、外人排斥運動のように捉えている書が大半です。
それは明らかに間違いです。
結論から言えば攘夷とは徳川政権の政治正当性の矛盾に対するアンチテーゼであったのです。
徳川政権が無くなれば矛盾は解消されて、そのエネルギーも当然なくなる訳です。
徳川幕府の政治正当性とは、朝廷から賜った征夷大将軍という官位にあります。
これは遡れば坂上田村麻呂から続く、武家が政権を張る上で大義名分として朝廷から賜るものでした。
本来は名目どおり、夷、即ち朝廷にまつろわぬ民を征服するための官位でした。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwiOx43Vk6XOAhUHW5QKHdKXAQEQFggeMAA&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25BE%2581%25E5%25A4%25B7%25E5%25A4%25A7%25E5%25B0%2586%25E8%25BB%258D&usg=AFQjCNHJ_ystTqgq4ASH0vx16rZLmw9Lfg&sig2=L13paQiDcc1ULdQX6XBCDA
時代が下るにつれて名目だけのものとなり、本来の東夷を征服するという役割は負わなくなりました。
武家政権の正当性を現すための単なる名目だけのものとなったのです。
しかし、幕末になり鎖国を公然と破る黒船の襲来により、この名目上の官位が全国の武家にとって徳川政権の政治矛盾を明白に現すものとなったのです。
征夷大将軍ならば当然、自ら鎖国を宣言しておきながらそれを公然破る黒船を夷として征服しなければなりません。
それをしないならば征夷大将軍の資格はないと全国の武士は憤激したのです。
しかもこの時期、徳川幕府は全国の大名に異国船が来たら打ち払えと命令していたのです。
それを真に受けて砲撃した薩摩や長州などは反撃されて酷い目にあいました。
それなのに徳川幕府は黒船を受け入れ、開港まで受け入れてしまいました。
二重規律ということでますます武士は憤激したのです。
そのように攘夷とは実は外国に向かうものではなく、徳川幕府に向けた政治矛盾を責めるスローガンだったのです。
尊皇も朝廷から賜った役割を果たすようにという意味が含まれて居ます。
徳川幕府が滅んでしまい、後の政府が征夷大将軍でないならば、攘夷をする必要は無く、政治矛盾もなくなります。
という事で説得する必要すらも無かった、皆徳川幕府が倒れたことで納得し、明治政府の開国政策を進んで受け入れたということにもなります。
以上のことは幕末を書いた小説、研究書の殆どにも記されていません。
私が諸書から考察したことです。
信じるか信じないかはあなたしだいです。
明治政府の構成メンバーは、尊皇攘夷を叫び倒幕を唱えていた長州・薩摩・土佐などの藩士ですよね。その「周囲」そのものでは?
聡明な彼らのことです。攘夷イコール鎖国継続では、倒幕の意味はないということに気付いたのでしょう。(坂本竜馬という口八丁の輩に煽られなくとも)
納得させる周囲はなかった、と思われます。賢人たちが正しい判断を下しただけではないでしょうか。
(勝海舟・坂本竜馬コンビの影響があったとはいえ…)