たとえば、浪人ですと、時代劇では、「用心棒」などやっていたりします。主家を変更して渡り歩くような武士もいて、一時的に浪人中もあると思います。幕末の清岡八郎は、武士のなりですが郷士出身だから良いのでしょうか。また、坂本竜馬は郷士だから武士であり、脱藩しても、武士は武士なのでしょうか。豪農出身の近藤勇ですが、養子に入った近藤家自体が八王子同心という郷士だから、最初から武士のなりをしてよかったのでしょうか。しかし、土方歳三の土方家は豪農とはいえ、農家です。
おそらく 通常通行する人の氏名や所属、身分、雇用関係、住所地をチェックするようなことはしないのだと思います。
関所などを通行する際には、手形などで何かを証することもあったでしょうが、往来するだけ、飲食や買い物、見物、参拝、投宿するだけならば、厳格に名前や出身を聞くこともなかったと思います。
士分でも身分の高いものは、一人で往来を歩くことはならないと公式あるいは非公式に思われていて、供ずれが原則で、それも供一人とはいかなかったようです。その際、供は主人のものをもって歩くし佩刀していた可能性が高いですが、その供の身分は決まってはいなかったようです。
また四国土佐で安政5年(1858)に奉行神山左多衛、大庭毅平の連名で出された5人組についての「1.隣るもの5軒を1組とし1人を組頭にすること。 1.10組50軒を1組合とし惣組頭を1人おくこと。 1.惣組頭は帯刀、麻上下を着用すること、5人頭は帯刀、袴着の格である。今まで帯刀御免の者は本田1町以上を耕作している百姓は従来の通りである」と命令し、浪人には「地下浪人は、みな家筋の者で重要な軍備にも加えられる身分であるが、この度は地下人と同じように5人組に組入れられることになったので、不満もあることと思われるので呼び出して役場に於て説明した」とのことが書かれています。
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/057501.html
これだと、侍が凡下の差配に組み入れられたり、凡下のものでも帯刀と麻の裃を義務づけられたりしたこともあるようです。
仙台では、17世紀後半から身分秩序の指示を何度もだしているようですが、1830年に出した「侍・凡下格合、御縁類、凡下格、諸侍召仕候女(次男三男なども含む)」の規定や口入れ(肝入、大肝入)に佩刀を許可していたことが書かれたものもあります。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwiPxIe11LfRAhUIV7wKHchDAhoQFggdMAA&url=https%3A%2F%2Fmue.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D208%26item_no%3D1%26attribute_id%3D18%26file_no%3D1&usg=AFQjCNHyy428sEceS1Fpk5jnjIXEPvGCsg
http://s.webry.info/sp/rakugo-fan.at.webry.info/201207/article_1.html